第32話 鍋底の炭化した親指
食料庫に辿り着いた時、事態はすでに最悪の局面を迎えていた。
石造りの壁は無事だったが、乾燥した木材で組まれた屋根と扉が、敵の放った特殊な火炎魔法によって猛烈な勢いで燃え上がっていた。雨粒が炎に触れる端から蒸発し、周囲には息を吸うだけで気管が火傷しそうな熱気が渦巻いている。
扉の前に、四人の黒装束のゴブリンが立っていた。
彼らは火が完全に内部に回るのを見届けるため、無表情で待機している。
中からは、パニックに陥った子供たちの泣き叫ぶ声と、煙に咽び泣く咳が聞こえていた。
「こんの野郎どもォォ!」
ドーゴンは咆哮とともに、手にしたウォーハンマーを横薙ぎに振り抜いた。
鍛冶屋の筋力と、ハンマーの遠心力が生み出す暴力的な打撃。不意を突かれた二体の黒装束が、肋骨を粉砕されて泥の中に吹き飛ぶ。
残る二体が即座に短剣を抜き、ドーゴンに襲いかかる。
ドーゴンはハンマーを盾にして短剣の刺突を弾き、そのまま重い体当たりで一体を壁に叩きつけた。だが、最後の一体が背後から回り込み、ドーゴンの分厚い肩口に短剣を突き立てる。
「ぐっ……痛ぇな、この虫ケラが!」
ドーゴンは肩に短剣が刺さったまま、腕を後ろに回してゴブリンの首根っこを掴み、そのまま燃え盛る扉に向かって放り投げた。
炎に巻かれたゴブリンの悲鳴を聞き流し、ドーゴンは肩の短剣を無造作に引き抜いて投げ捨てる。
そんなことよりも、時間がなかった。
食料庫の太い梁が炎に急激に侵食され、今にも崩落しそうになっている。このまま屋根が落ちれば、中にいる子供たちは圧死するか、生きたまま焼き殺される。
「待ってろよ、今開けてやる!」
ドーゴンは火傷を負うことも厭わず、燃え盛る扉をウォーハンマーで粉砕した。
内部には濃密な黒煙が充満していた。マイナやピピをはじめとする数十人の子供たちが、部屋の隅に固まり、互いを抱きしめ合って震えている。
ドーゴンが踏み入ろうとした瞬間。
メシャァァッ! という、木材の繊維が限界を超えて断裂する絶望的な音が響いた。
火炎魔法の異常な熱量が、屋根を支える巨大なメインの梁を完全に焼き切ったのだ。
数十トンの質量を持つ瓦礫と炎の天井が、子供たちの頭上に向かって、スローモーションのように落下を開始した。
助け出す時間はない。外へ引きずり出す前に、全員が潰される。
「……舐めんじゃねえぞ、ただの物理法則が」
ドーゴンは、顔にススをこびりつかせたまま、ニヤリと笑った。
彼は腰の工具ベルトを外し、中身を子供たちの頭上に向かって勢いよくぶちまけた。
大量の歯車、ゼンマイ、予備のバネ、ボルト、そして鉄板の切れ端。
それらが空中に散らばるのと同時に、ドーゴンは全身の魔力回路を極限まで開放し、自らの最強のスキルを発動させた。
「『廃材錬成』、最大出力だ!」
空中に撒き散らされた部品が、意志を持ったように空中で静止した。
それだけではない。
落下してくる燃えた梁の先端、敵が落とした短剣、扉の蝶番、周囲の瓦礫。ありとあらゆる「物質」が、ドーゴンの魔力によって一時的に構造を分解され、そして新たな形へと再結合していく。
それは、空間そのものを工房とした、神業のような高速組み立て作業だった。
無数の鉄屑と瓦礫が、子供たちを覆い隠すような巨大な「半球状のドーム」を形成していく。歯車が噛み合い、バネが衝撃吸収材として機能し、鉄板が装甲となる。
しかし。
ドーゴンの顔から笑みが消えた。
材料が足りない。圧倒的に足りない。
屋根の崩落という巨大な質量を受け止めるための、最も重要な「中心の支柱」となる強固な素材が、この廃材の中には存在しなかった。
このままでは、ドームは完成と同時に上からの重圧に耐えきれずに押し潰される。
「……仕方ねえな」
ドーゴンは、ため息をつくように短く呟いた。
彼は、形成されつつある鉄のドームの中心――子供たちの真ん前へと歩み寄り、両足を肩幅に広げ、両手を高く天に向かって突き上げた。
直後、落下してきた数十トンの燃える瓦礫の塊が、完成したばかりの鉄のドームに激突した。
凄まじい衝撃音が響き、ドームを構成する廃材が悲鳴を上げて軋む。
足りない支柱の代わりを担ったのは、ドワーフの小太りで頑丈な肉体だった。
ドーゴンの両腕の骨が、一瞬で複雑骨折を起こして皮膚を突き破る。膝の関節が砕け、背骨が極限まで湾曲する。
口から大量の血が噴き出した。
「ぐぅぅ……ご、ァ……っ!」
彼の肉体という支柱を通じて、圧倒的な質量と熱量がドームを支えている。
だが、絶望はそれだけではなかった。
崩落した屋根の隙間から、敵の放った火炎魔法の炎が、ドーゴンの背中を直接舐め上げ始めたのだ。
服が燃え、皮膚が瞬時に炭化し、肉の爆ぜる嫌な音が響く。
想像を絶する激痛。普通の生物ならショック死しているレベルの負荷だ。
ドームの内側。
ドーゴンの足元で震えるマイナや子供たちが、恐怖と悲しみで顔をぐしゃぐしゃにして彼を見上げている。
燃えながら、自分の骨を砕きながら、彼らを守るために天井を支え続ける血まみれのおじさんを。
「泣く、な……」
ドーゴンは、血とススで汚れた顔に、無理やり職人としての不敵な笑みを貼り付けた。
皮膚が焼け焦げ、片方の眼球は熱で濁っている。
それでも彼は、折れた腕を限界まで突っ張ったまま、子供たちを見下ろして笑った。
「……あちぃなぁ。でも、炉の底よりはマシか」
それは、生涯を炎と鉄の傍で過ごしてきたドワーフなりの、最後のブラックユーモアだった。
ドーゴンは、燃え盛る右手の拳を強く握り込み、子供たちに向かって、ゆっくりと親指を立てた。
大丈夫だ、俺の作った機構は完璧だ。
そんな無言のメッセージを残し。
メキッ、という最後の骨の断裂音とともに、ドーゴンの頭が力なく垂れ下がった。
***
「ドーゴンさん!!」
千代からの緊急通信を受け、前線から弾かれたように駆けつけたカミイが食料庫の跡地に到着したのは、それから数分後のことだった。
そこにあるのは、完全に焼け落ちた建物の残骸と、消えかけの炎、そして雨の音だけだった。
カミイは泥だらけになって瓦礫の山を駆け上がり、そこで信じられない光景を目撃した。
瓦礫の中心。
無数の廃材と鉄屑が組み合わさってできた、不格好だが極めて強固な「鉄のドーム」が、瓦礫の重圧を完全に跳ね除けて存在していた。
そして、そのドームの入り口で、一本の太い黒炭のような柱が、天井を支え続けていた。
それは、全身が完全に炭化し、絶命したまま立ち往生している、ドーゴンの姿だった。
彼の肉体は炭の塊と化していたが、その両腕はしっかりとドームの天井を支え、右手は親指を立てたままの形を保っていた。
そして、そのドームの奥から、咳き込みながらも無傷の子供たちが、泣きながら次々と這い出してくる。
「……う、あ……ぁぁ……」
カミイはその場に膝をつき、炭化したドワーフの姿を見つめて、ただ声にならない嗚咽を漏らした。
雨が、ドーゴンの炭化した体から立ち昇る白煙を、冷たくかき消していく。
泥の要塞の兵器開発局長、ドーゴン。
彼の最初の、そして最後の「防衛設備」は、彼自身の命を部品として組み込むことで、見事にその役割を全うした。
物見櫓の指揮所。
千代の視界の『戦術眼』から、緑色のマーカーが一つ、ノイズとともに永遠に消失した。
初めての身内の死。
欠けた歯車。
少女の精神の崩壊の足音が、すぐ後ろまで迫っていた。




