第33話 緑点の消失、崩壊へ
人間の脳というハードウェアは、処理能力を超える致命的なストレスに直面した時、防衛本能として外部からの情報を物理的に遮断しようとする。
視界の明度を落とし、聴覚に幕を引き、意識を内側へと強制シャットダウンさせるのだ。
物見櫓の指揮所。
千代の網膜に展開されていた『戦術眼』の極彩色の情報群の中から、たった一つの「緑色のマーカー」が、ノイズとともに永遠に消失した。
通信途絶ではない。生命活動の完全な停止。
泥の要塞の兵器開発局長、ドワーフのドーゴンの死。
その事実を認識した瞬間、千代の脳内で何かが決定的に焼き切れた。
視界のUIが激しく明滅し、ノイズの海に沈んでいく。それと同時に、強烈な酸素欠乏の感覚が千代を襲った。
肺が空気を拒絶しているのではない。パニックによる過呼吸だ。浅く速い呼吸が繰り返され、血液中の二酸化炭素濃度が異常に低下していく。手足の先から急速に温度が奪われ、激しい痺れが指先を麻痺させていく。
「はっ……ひゅっ……ぁ……」
千代はその場に崩れ落ち、泥に汚れた床板を掻き毟りながら、金魚のように口をパクパクと開閉させた。
自分が死なせた。
自分の情報処理能力の甘さが、敵の別働隊を見落とした。その結果、あの人が燃える瓦礫の下敷きになって、炭の塊になった。
ゲームの駒ではない。笑って、怒って、子供たちのために木のおもちゃを作っていた、体温のある命だ。それが自分のミスのせいで、永遠に失われた。
現代日本で平和に育った女子高生の脆弱な精神構造が、その圧倒的な「殺人への加担」という事実に耐えきれず、完全に崩壊しようとしていた。
傍らに立つアーレイに、彼女を介抱する余裕はなかった。千代からの精密な指示が途絶えた瞬間、崩壊しかける迷路の土塁と、パニックを起こした全軍の念話帯域を維持する負荷が、老魔導士一人にのしかかっていたのだ。
アーレイは杖を握りしめたまま、全身の血管を浮き立たせ、滝のような汗を流して歯を食いしばっている。文字通り、一歩でも動けば魔法の均衡が崩れ、全滅する極限状態だった。
指揮官の沈黙は、通信用の念話帯域を通じて、即座に全軍へと伝播した。
ドーゴンが戦死したという事実と、指揮官が精神的パニックに陥っているという絶望的な空気。
その伝染は、前線で辛うじて踏みとどまっていた兎人族の部隊に、致命的な連鎖崩壊を引き起こした。
「ドーゴンさんが……あの不死身みたいなドワーフが死んだ……!」
「無理だ、やっぱり勝てっこないんだ! 魔王軍には勝てない!」
「逃げよう! 殺される前に、森へ!」
恐怖は、いかなる訓練よりも早く生物を支配する。
先遣隊を倒した時の高揚感など、とっくに消え失せていた。彼らの本能は「これ以上の戦闘は種の絶滅を招く」と判断し、生存のための逃走プログラムを強制起動させた。
太鼓のリズムに合わせて維持されていた長槍の密集陣形が、内側から瓦解していく。
武器を投げ捨てて後ろへ下がろうとする者。それを邪魔だと突き飛ばす者。
連携が崩れた瞬間、彼らは「軍隊」から「ただの肉の群れ」へと逆戻りした。
「おい毛玉ども! 陣形を崩すな! 盾の裏から逃げる奴は俺様が真っ二つにするぞ!」
狂戦士ゲンガイが怒号を上げるが、パニックに陥った群衆に言葉は届かない。
前線の壁が薄くなったのを、オーク重装歩兵の指揮官が見逃すはずがなかった。
圧倒的な質量による押し込みが再開される。
そのすべての負担が、最前線に立つただ一人――重装歩兵オリエールのタワーシールドへと集中した。
「がはっ……!!」
オリエールの口から、今日何度目かわからない大量の血が噴き出した。
装甲の軋む音が、彼女の骨が軋む音と完全に同化している。このままでは十秒と持たずに、彼女の肉体ごと防衛線が突破される。
「……クソガキが。一番大事なところで、思考停止してんじゃねえよ!」
オリエールは、血反吐を吐きながらも盾を地面に深く突き刺し、背後に控えていたゲンガイに向かって叫んだ。
「ここを三十分だけ死守しろ! 抜かれたらテメェの肉を削いでオークに食わせるぞ!」
ゲンガイが舌打ちをして前に出るのと入れ替わりに、オリエールは前線を離脱した。
彼女は血まみれの重装甲を軋ませながら、村の広場を抜け、千代がいる物見櫓の階段を恐ろしい速度で駆け上がった。
指揮所に飛び込んだオリエールが見たのは、床に丸まり、涙と鼻水にまみれて過呼吸を起こしている、ひどく惨めで滑稽な女子高生の姿だった。
「ひっ……はぁっ……わたしが、わたしのせいで……」
オリエールは無言で千代の胸ぐらを掴み、その細い体を強引に引きずり起こした。
そして、血と泥にまみれた硬い掌で、千代の頬を容赦なく殴り飛ばした。
肉と骨が激突する、暴力的な破裂音。
千代の体は床に叩きつけられ、口の中が切れ、鉄の味が広がった。物理的な痛覚が、過呼吸による脳の酸素不足を強引に上書きする。
「……痛いか。なら、まだ生きてる証拠だ」
オリエールは、千代を見下ろして冷酷に言い放った。
「いいか、指揮官。戦争じゃ人は死ぬんだ。あんたの采配がどれだけ完璧でも、運が悪ければ死ぬ。それが戦場だ。……あんたが泣いて罪悪感に浸っている数秒の間に、前線では私の内臓が潰れかけ、ウサギどもが背中から殺されようとしている」
オリエールは、千代の襟首をもう一度掴み、自分の血まみれの顔を近づけた。
「責任を感じるなら、泣くのをやめろ。あんたがここで思考を止めたら、ドーゴンの死はただの『犬死に』になる。あいつが命と引き換えに守った子供たちも、全員オークの胃袋行きだ。……全員殺す気か、クソガキ」
その言葉は、いかなる慰めよりも冷たく、そして鋭く、千代の意識の深淵を貫いた。




