82 白い手紙
「飲むと良い。気持ちが落ち着くよ」
教授はそう言って萌黄色の液体をコップに注いでくれた。
霊薬液の一種である。
見た目は青汁のようだが、飲んでみると、ミント味のアイスクリームのような味だった。ほうっと息をつく。
「――いや、でも、そういうのじゃないんです」
「そういうのではないか。そうか、そうか……」
ニーヘッグ・オーギャン教授。
還暦を過ぎた小柄な人物である。老人と呼ぶにはまだ若いが、好々爺という言葉が良く似合う。丸顔で親しみやすく、言葉遣いも態度も、気取ったところがない。
オーギャン教授の研究室には、俺とオーギャン教授の二人だけだった。八畳ほどの部屋の四辺はいっぱいの本棚で、机には金属製のよくわからない小物類やメモ帳、そして積み重なった本の山々が山脈を成している。
「寝ているときは精霊の声を聞きやすい」
「じゃあ、やっぱり精霊が――」
「かもしれない、としか言えないな。私は聞いたことがないからね。いや、それらしい笑い声は何度か聞いたことがあるが、果たしてそれがそうであったかどうかはわからない」
「何かこう、起きてる時でも最近は、心臓がドキドキするというか、落ち着かないというか――」
「胸騒ぎがする?」
「はい、そうです」
精霊学、魔術理学、魔法学――俺はこの一年ちょっとの間、オルメル魔導学院の聴講生としてオーギャン教授の講義を聴きに来ている。そして週に一度は、講義の後、教授の研究室に遊びに行っている。
「単なる体調不良、ではなさそうだがね。しかし、知っての通り精霊と言っても色々ある。テップスの息子の話は読んだね?」
「はい」
「我々が精霊と呼んでいるものの中には、人間を陥れることに快感を覚えるのもいる。邪精などと呼ばれているが、例えば、その中に病霊というのがいる」
「病気を運んでくる精霊の事ですか」
「病気を運んでくるという言い方が正しいかどうかはわからない。病気そのもの、という考え方もできる」
「はい」
「人間を病気にして、その弱った機に乗じて声を聞かせたり、夢を見させたりして人間を弄ぶ、ものによっては、人間を陥れる、そういう病霊もいる。君のそれも、病霊の類であるかもしれない」
「なるほど……」
ここ数日、体調がおかしい。
「悪い」のではなく、「おかしい」。
熱や咳、頭や腹などの痛みは全くない。ただ、落ちつかない、そわそわする。夜ベッドに横たわると、頭の奥の方で、ざわざわと何かが騒ぎ始める。その妙な感覚のせいで、最近はあまり眠れていない。
「嫌な感じがするのかね?」
「嫌な感じがします」
「破壊衝動などは?」
「ありません。ただ――焦るんです」
「原因不明の焦燥感」
「はい」
教授は俺の顔を覗き込み、キセルを吸った。
唇の隙間から、甘い煙が横に伸びる。
「精霊たちが、君に何かを伝えようとしているのかもしれないね。君の身の回りに何かが起きようとしている、もしくは、すでに起こっていることを」
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二人暮らしの一軒家。
夕方、学院から戻ると、クワルが夕食の支度をはじめていた。
秋トマトのスープに、米のバター炒め。スープはこの国でもメジャーな料理だが、米は全くマイナーな食材である。米料理などというものも、この国にはほとんど存在しない。
南に行けば米を作っている農家もあって、そこにはいくつか米の料理もあるが、都では、ド田舎の粗野な食い物という扱いである。そんな「米」を、わざわざ高い金を払い購入している。そのせいもあって、俺はかなり、「変わり者」だと、近所には思われている。
しかしクワルは、俺の食文化を受け入れてくれた。
それどころか、米を使った料理を毎日作ってくれて、最近ではオリジナルをどんどん開発し、米料理のレパートリーを増やしている。今やクワルは、白米のご飯とみそ汁を、当たり前のように作れる。
胃袋を掴まれた俺は、もうクワルなしの生活は考えられなくなっている。
「いただきます」
揃って夕食。
結局俺は、ドラガン将軍との決闘に勝利し、クワルを自分のものにした。娶ったわけではない。何憚ることなく、使用人としてクワルを傍に置けるようになった、というだけの話だ。
しかしこの世界、その「だけ」の権利を手に入れるためには、命をかけなくてはならない。日本という国がスーパーイージーモードであったと、つくづく思い知らされる。
食事中、クワルが「あっ」と思い出して、一枚の手紙を俺に渡した。
手紙らしいのだが白紙で、所々汚れている以外にはただの紙切れである。
「グリム様が帰ってくるちょっと前に、伝書鳩が届けてくれました」
「ふーん」
悪戯だろうか。いや、それにしては伝書鳩は高価すぎる。
紙を裏返してみたりして、文字を探る。
何も書かれていない。
差出人すら。
「なんだろう――」
と、俺は咄嗟に左胸を押さえて丸くなった。
「グリム様!?」
痛いのではない。
心臓の鼓動が、急に跳ね上がったのである。
冬だというのに汗がぽたぽた流れ落ちる。
――この手紙を読まなければならない――
俺の本能が、そう訴えている。
しかし手紙は、ただの真っ白で、インクの滲んだ跡すらない。
「今薬を――」
「いや、クワル、大丈夫。たぶんこれは――」
精霊の仕業だ。
最近の胸騒ぎと同じ感じがする。それがこの手紙を見て、触れて、一層強くなった。この手紙が、その原因なのかもしれない。
水を飲み、一息つく。
腹が減っていたのだが、今や食欲もない。
体調が悪いわけではないのだ。
ただ、眠れないほどのざわめきが、心臓を鷲掴みにしている。
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「顔色が悪いですね」
テラスにて。
ユランを訪問すると、ユランは俺を見るやそう言った。
完全に寝不足だった。
「これですよ」
俺は手紙をユランに差し出した。
テーブルに座り、召使いの用意してくれた紅茶を飲む。
「これは?」
「手紙です。昨日伝書鳩が運んできました」
「封文術が施されているのかな」
「いいえ、今朝そう思って学院に行きました」
「違った――とすると……この紙そのものが、あるいは君に手紙が届いたことそれ自体が、何かの合図だった?」
「フェアリーサインらしいものがあります」
「君に?」
「はい」
「いつからですか」
「一週間ほど前からです」
「この手紙が、君のフェアリーサインと関係があると?」
「間違いありません」
なぜか確信があった。
夜中の囁き、胸の高鳴り、焦り、そして白紙の手紙――それらは全て、俺に何かを教えようとしている。俺は一刻も早く、精霊のサインを読み取らなければならない。脅迫めいた義務感が、俺の心臓に刃を突き立てている。
「貴方は非常に高い魔力を持っています。霊刃測定法で185、僕は多くの魔術師を知っていますが、そんな数値を出した魔術師は他に知りません。ロッカさんでも、120でした。それにしたって、驚くべき数値です」
半年前に、魔力を測ってもらったことがあった。
185というのは、その時に出た魔力値である。計測器の故障だと、三度もやり直しをされたが、数値は変わらなかった。
「魔力の高い人は、精霊の声も聞きやすいと言われています」
俺は頷く。
そのことは、オーギャン教授の精霊学の講義で知っていた。人の心を掴んだり、未来を見通したりできる。災難から身を守ろうとする防衛本能が、無意識下で魔力を動かすらしい。
「ヨルムという占術師は知っていますか?」
「い、いえ……」
「かつては聖都の巫女をやっていたのですが、その力が災いして聖都を追放され、今はこの町の東のはずれに住んでいると聞きます。行ってみると良いかもしれません。彼女に会うことができれば、貴方の抱えている問題も、解決するかもしれません」
「行ってみます。住所を教えてください」
「町の東、ということしかわかりません」
「え?」
「向こうに会う気があれば会えるでしょう」
ユランの妙なアドバイスを受けて、俺は早速町の東に行ってみることにした。




