第十三章
『メルサ』のカウンターの隅で、坂上久志は一人スコッチのグラスを傾けていた。もちろんオーナーとしてではなく、常連客としてだ。
オーナーとしての坂上は表に出たことはない。
株主の名義は『御霊の会』教団になっていたし、店長ともメールや電話、あとは報告書を受け取るくらいだ。経営は今までも実質的には店長に任せてきた。
船上接待の時もオーナーは乗船名簿には載せない。坂上久志の名もだ。むろんこちらの取引は他人任せにはしないが、名前を残すほど愚かではない。
だがそんな小細工はもう必要ない。ヤバい仕事も終わりだ、と明るく考えた。
―――このクラブもさっさと売却できて良かった。
売却を考えていると漏らしたら、意外にも買いたいと申し出たのは店長だった。
表の『メルサ』の営業は順調で、顧客の質もいい。現金が用意できるなら相場の半額で譲渡すると提示したら、彼はスポンサーの宛てがあるとあっさり了承した。売買が済んだのは昨日で、現金と交換に権利証や実印を引き渡した。
『メルサ』も教団ももともとは白田と始めた事業だったが、白田も史も失って隠しておいた金が宙に浮いた状態になってしまった。幸い、史が手なづけていた小橋が教団を生かしておいてくれたので、教団と青山を利用した隠し資産のロンダリングを考えついた。二人は教団の地下に巨額の現金や大量の麻薬が眠っていたことなど知らない。
―――小橋はともかく、青山とはまだこの先も組んで金儲けができたはずなのに‥。
史といい、青山といい、なぜたかが妖し封じの元締めにすぎない四宮にこだわるのだろう? 坂上には理解できない。
まあ、青山が四宮に夢中になっていてくれたおかげで、この春以降こっそりと教団の儲けの大半を坂上の懐に入れることができたわけだが。金はみな、海外にある架空のファンド会社へ、いろいろなルートを使って少しずつ移した。
青山があの状態では、教団もこれ以上隠れ蓑には使えないし、数年は海外で大人しくしているのが上策だろう。
ほんとうは小橋を片づけてさっぱりとしたいところだ。しかし白田がいなくなったのでそれもできない。坂上は自分では手を下さない主義だ。小橋とは先日渡した金と明日の船上パーティで縁切りにする。
グラスの氷が溶けて、かたり、と音を立てた。
琥珀色の向こうに女の顔が映った。離れたボックス席で嬌声が響く。
ふと隣に腰を下ろす気配がして、びくっと坂上は振り返った。
「坂上久志だな。俺を知ってるだろう?」
坂上は男の顔をとっくりと眺め回した。
「脅かさないでほしいよ。‥もちろん知ってるさ。鳥島祐一、俺から女を寝取った男だ。」
鳥島はぐっと睨みつけて、ふざけるな、と小さな声で言った。
「ふざけてなんかいないよ。リズはあんたに夢中になって、俺を裏切りやがった。唯一信じてた女に裏切られた悔しさが、あんたに解るかい?」
「リズは‥おまえを裏切ってなんかいない。裏切ったのはおまえのほうだろう。‥‥教団にいくらで売りとばしたんだ?」
坂上はへえ、と嘲笑を浮かべた。
「何の話だか。あいつは勝手に失踪したんだぜ? てっきりあんたと駈け落ちしたんだと思ってたよ。」
「‥白田という男を知ってるはずだ。白田はおまえがリズを瞞して連れてきたとはっきり証言したそうだよ。」
「知らないな。元刑事さん、あんた、証拠もなしで憶測だけで物を言うと名誉毀損罪で訴えられるよ?」
鳥島は憐れむようなまなざしを坂上に向け、低い声で言った。
「‥一つだけ答えろよ。おまえ、リズがどんな死に方をしたか知ってるのか‥?」
「だから何の話だか‥‥」
「どんな目に遭うか知っていて教団に売ったのかと訊いてるんだよ。一緒になる約束を信じておまえについていった女がたどった末路を、知っているのかと。‥‥惚れていたんじゃなかったのか?」
「‥俺は何も知らない。リズは‥亜沙美はあんたに夢中になって俺を裏切った。その後のことはあんたのせいだろう? 死んだっていうならあんたが殺したんだ。俺のせいじゃない。」
鳥島は席を立った。
「それがおまえの答か‥。よく解った。」
ぼそりとつぶやくと鳥島は背を向けて、店を出ていった。
坂上はグラスを口にする。急に酒が苦くなった。
―――亜沙美か‥。バカな女だったな。
単純で、信じろと言えば何でも信じた。明るくて無邪気で、派手な外見のわりには慎ましくて世話焼きで―――何より優しかった。あのまま一生瞞されていれば死ぬこともなかったのに、と坂上は苦笑いを浮かべた。
―――そうだよ。鳥島祐一、あんたが殺したんだ。あんたが余計なことを亜沙美に吹きこんだから‥。
坂上はぐいっとスコッチを飲みほして、立ち上がった。
明日の船上パーティでは取引があるわけではない。以前、『メルサ』主催の普通の船上パーティに一度だけ参加した得意客が、どうしても船に乗りたいと申しこんできたのを断り切れずにセッティングしただけだ。
だがちょうどいいので小橋の目を眩ます煙幕に利用することにした。小橋にはさも取引があるよう見せかけておき、坂上は出航間際に下船し、そのまま空港へ直行するつもりだ。
ついでにこそこそと嗅ぎ回っている警察も出し抜けるだろう。
会計を済ませて店を出る。
真夏の熱帯夜がビルの谷間を埋めつくして、息苦しいほどだ。
―――ふん。こんな場所とはおさらばだ。こそこそと麻薬を横流しするケチな商売も。結局勝ったのは俺なんだ。だから‥最後は一人で笑ってやるさ。
坂上はポケットに手を突っこむと、背を丸めて歩み去った。
ブルーアイズ号は全長三十三メートル最大幅七メートル、二フロアデッキ、豪華な内装と洗練されたスタイルはさながら港に浮かぶ邸宅といった感じの大型クルーザーだ。
ウェディングも受けるという一階のホールは、ビュッフェ形式のパーティならば数十人は入りそうだった。
出航一時間前、坂上はいつものようにダークスーツにサングラスの格好で、スタッフの一人のような顔で船内に乗りこんだ。
厨房にはケータリングサービスのシェフが数名、忙しく立ち働いている。彼らも準備ができたら一名だけ残して下船するはずだ。その時に混じって下りる予定だった。
他には『メルサ』の手配した派遣のバーテンダーと給仕が一名ずついる。『メルサ』の制服は着用していても店のスタッフではないから、坂上の顔は知らない。
客はバイオリニスト夫妻の他に、友人が数名、更には余興としてマジシャンを呼んであると聞いた。バイオリニストはもともと実家が資産家なので、金に糸目はつけない。最近スランプ気味の妻のために、ひと晩で数百万の気晴らしくらい何てこともないようだ。
スタッフをつかまえ、『メルサ』のマネージャーみたいな顔で客は乗船ずみなのかと確かめると、既に全員地下のベッドルームに案内したという。出航と同時に花火とともに開始される予定のパーティに備え、着替えの真っ最中らしい。
小橋は一階のデッキにいて、ビールを飲んでいた。
妻も子も持たず、ただ金だけに異常な執着を示すこの警察官僚を、坂上は実はまったく好いていない。坂上自身もこの世は金がすべてだと思っているほうだが、あまりに貪欲すぎるのは見ていて反吐が出る。だが四宮史や青山芳明に比べれば、金さえ渡しておけば言いなりになるので扱いは簡単だ。
近づいて声をかけると、小橋はちらりとこちらを見て小さくうなずいた。
「日が落ちて風が涼しくなってきましたね。空も晴れているし、ナイトクルージングには絶好だ。‥またビールですか、たまにはシャンパンくらい飲んだらどうです?」
「シャンパンは好きじゃない。夏はビールがいちばんだよ。」
平静を装ってはいるが、どうも怯えているらしい。眠れないのか少しやつれたようだ。
「‥‥あんたは‥夢を見ないのか?」
押し殺した声で小橋は囁いた。
「夢? 何の夢です?」
「‥‥いや。いい。わたしの気のせいだろう。青山があんなふうになって‥次はわたしの番かと思うと、暗闇が怖くなるんだ‥。」
坂上は嘲笑を浮かべた。面の皮が厚いわりには肚の小さい男だ。
「むしろ青山さんが記憶をなくしてくれて、良かったじゃないですか? 何なら小橋さん、警察をお辞めになって隠居したらどうなんです? 金なら十分稼いだでしょう?」
「そんなことができるか‥! 警察を辞めたらすぐにでも、わたしは訴追される。権力は行使し続けなきゃ転落するだけだ。隠居なんて‥刑務所直行と同義だよ。」
「おやおや‥。それはたいへんなお立場ですね。同情しますよ。」
坂上は軽く微笑して、肩を竦める。小橋は不安げにこちらを振り向いた。
「まさかと思うが‥。こうなればあんたも一蓮托生だぞ? わたしを裏切れば刑務所に入ることになるんだ。解ってるだろうな?」
―――なんて陳腐なセリフ。独創性のかけらもない。
坂上はもちろん、と大袈裟にうなずいた。
「ぼくだって今更引き返せませんよ。どこまでも小橋さんにお伴します。そちらこそ裏切らないでくださいね。」
小橋は少しだけ安堵したようで、微かに頬笑んだ。
うっすらと屋内に灯りがともった。
ガラス扉ごしに、バーカウンターに腰を下ろす若い男が二人見えた。それぞれ白と黒のタキシードを身につけている。
腕時計に目を遣ると出航の十分前だった。引揚げ時だ、と坂上は腰を上げた。
「小橋さん。ぼくはいつもどおり、スタッフルームで大人しくしてますんで。今日のホストとは面識がありましたよね? あとはよろしく、適当に場に溶けこんでてください。」
ああ、と小橋は片手を上げた。
背を向けて地下フロアへ下り、反対側へ移動してタラップ口へと上がる。ちょうど下船するスタッフたちが賑やかに下りていくところだった。
彼らに続いて下りていこうとした時、不意に肩を叩かれた。
「『メルサ』のオーナーだった坂上さんでしょう? 初めまして、ご挨拶をしたいのでこちらへ来てくださいませんか?」
先ほどバーカウンターにいた白いタキシードの男だ。
『メルサ』のオーナーと呼びかけられて驚いている隙に、彼は手を上げてタラップを上げさせた。ゆっくりと桟橋が離れていく。
「ちょっと待て‥! まだ下りるんだから‥!」
「いいじゃないですか? あと一分もしないうちにショーが始まりますよ。あなたにも楽しんでもらいたいのでね。」
白タキシードの男は冷ややかに言った。細いくせに腕をつかんだ力はけっこう強い。
「いったい、あんたは誰だ?」
彼は大袈裟なしぐさで驚いた顔をした。
「おや。てっきりご存知だと思っていましたけど‥。あなたに代わって今度、『メルサ』の株主になった者ですよ。破格の値段で売っていただいて感謝しています。」
新しい『メルサ』のオーナー。つまりは店長が言っていたスポンサーなのか。だがなぜその男が坂上を知っていて、この場にいるのだろう?
坂上は離れていく桟橋を横目で見て、海に飛びこむチャンスを窺った。
経験から言えば―――わけが解らない時は危険な時なのだ。逃げるに限る。
男は黄昏に浮かびあがったやけに白い顔を綻ばせて、逃げられませんよ、と自信たっぷりに言った。
港はどんどん遠ざかっていく。
坂上が口を開こうとした時、花火の音が盛大に鳴った。
びっしりと濃い暗闇が坂上の体を一瞬のうちに包みこんで、何も見えなくなった。花火の音だけがドドーン、と響く。
―――なんだ‥? いったい何が起きている‥?
背中に冷や汗が湧いた。
拍手が聞こえて、自分が一階デッキの椅子の一つに腰掛けているのに気づく。反対側に小橋が座っているが、なぜか坂上には気づかないようだ。
デッキの真ん中に立つ、紅い髪の男がシルクハットを手にお辞儀をした。どうやら彼がマジシャンらしい。
彼はいきなり手に持ったステッキを上空へ放り投げた。
高々と上がったステッキはぱあん、と音を立てて弾け、夜空に花火を描いた。ばらばらと砕け散った火の粉が流星となり、シュッ、シュッ、と音を立てて船の外側の暗い海へ降りそそぐ。再び盛大な拍手が沸いた。
スポットライトの設備などないはずの暗いデッキで、マジシャンの姿はくっきり見えている。銀色の燕尾服に白のジレとタイ。薔薇を思わせる紅い髪、アメジストの瞳。蝋人形みたいに真っ白で端正な顔。
先ほどの男と似ている、と思ったが、白タキシードの男は坂上のすぐ隣にいて、にこやかにショーを観ている。それにしても夜とはいえ、真夏なのにこの冷気はどうだ?
扉を開け放した屋内から、淡いピンクのイブニングドレスを着た女がシャンパングラスを手にやってきた。隣の男と坂上に、静かに差しだす。
受け取って顔を上げ、女を見た。思わずたじろぐ。女は亜沙美に生き写しだった。
―――嘘だ‥。亜沙美‥?
こういうドレスを身につけている時の、濃い化粧顔ではない。部屋で一緒に過ごした記憶の中の、素顔の亜沙美にそっくりだった。
女は愛想良く微笑んで、会釈をし、室内に戻っていった。女性のコンパニオンは今日は呼んでいないはずだけれど、客の一人だろうか。
その間も幻想的なイリュージョンは続いている。
坂上はシャンパンを一気に飲みほした。
―――これは夢だ。その証拠にさっきから声が出せないじゃないか?
上空にオーロラが出現し、どこからか聞こえてきたピアノの音に合わせてオーロラから七色の糸がするすると下りてきた。
マジシャンが手を一振りすると、糸はマジシャンの手の中へと集まってくる。
最後にオーロラの中から、布と木でできた女の子の人形が下りてきた。黒い巻き毛、黒い瞳。花柄の可愛いドレスを着ている。
どこから照らしているのか不明なスポットライトの真ん中で、人形はダンスを始めた。
マジシャンは離れた位置で、七色の糸であやとりをしているだけだ。糸は別に繋がっていないし、同じ音楽に合わせた手の動きとダンスは微妙にくい違っては合い、ずれては合いしている。手拍子が響き始める。
やがて音楽がぴたりと止んで人形は暗闇で制止した。静寂が間を作る。
マジシャンがタクトを振るみたいに大きく両手を振った。
すると七色の糸もオーロラも瞬時に消えた。人形の顔がぶるぶるっと震えたと思うと、ばたり、と倒れた。
いきなり小橋が立ち上がった。
恐怖で青ざめている。
「嫌だ‥嫌だ‥! 闇に喰われるのは‥嫌だ! た‥頼む、俺の背中についているモノを取ってくれ‥!」
見れば小橋の背中には真っ黒な影法師みたいなモノが貼りついていた。
坂上は息をのんだ。
しかし誰も小橋の叫びなど聞いていないようで、再び起き上がった人形が可愛らしく挨拶する様子を見て、笑顔で拍手をしている。
坂上は戸惑いながら小橋を見守るが、小橋には坂上が見えないらしい。必死で泣き喚いているが、背中の黒いモノはどんどん大きくなるばかりだ。
テレビを消すようにマジシャンと客の姿が消えた。喚いている小橋と見ているしかできない坂上が、真っ暗な闇の中に取り残される。
鈴の音が微かに響いた。
金色の波紋がさざ波のように輪を描いて足下に広がる。
もう一度鈴が鳴った。余韻が深く空間に浸透していく。
「あなたの背中についているモノは、邪気と呼ばれるモノです。欲望に魂を喰われた人のなれの果て。このまま放置すればあなたもやがて人の形を失い、邪気になるでしょう。」
静かな声が小橋に話しかけている。
「選びなさい。人であることを捨てて邪気になりはてるか、青山や真宮寺のようにかろうじて人として生き残るか‥。」
「嫌だ‥。どっちも嫌だ‥。俺は‥俺が何をしたと言うんだ、青山のように訳の解らんモノを弄んだわけではないのに‥! 助けてくれ、頼む‥!」
小橋は泣きながら声のするほうを向いた。ぼうっと長い黒髪の、振袖姿の女が浮かぶ。
「‥‥あなたについている邪気は、あなたの所有物からついたんです。だからそれを捨てる潔さを持たない限り、祓っても祓ってもつきまといます‥。先ほどあなたが見たとおり、欲望を捨てられなかった人は自分の心の闇に喰われてしまいました。」
「どうしろと‥言うんだ?」
女の瞳は見ているだけの坂上さえ、背筋がぞくっとするほど冷ややかだった。あの瞳で見つめられたら、奥の奥まで見透かされてしまいそうな気がする。
小橋もそう感じたのだろう、怯えてがたがたと震えだした。
女は吐息を一つこぼし、じっと小橋を見据えた。
「この先も人として生きたいと願うならば、魂の邪気にまみれた部分を捨てねばなりません。あなたは‥まだ魂が半分は残っていそうですから、人生をまっとうできるでしょう。‥どうしますか? 罪を償う覚悟ができますか。」
「つ‥償う、何でもする、だから助けてくれ‥。頼む‥!」
女は鈴をリーンと高らかに鳴らした。金色の波紋がざわざわと揺れて、小橋の体を取りまいていく。金色の光に縛りあげられた状態になって、背中の黒いモノが苦しげに呻き、小橋も呻いた。
やがて黒い影は霧散した。息を切らせて喘いでいる小橋は、へたへたと座りこんだ。
突然、洋上の光景が戻ってきた。
賑やかな声と拍手がさざめく中で、紅い髪の男はにっこりと微笑んでお辞儀をしている。
「‥‥お楽しみいただけましたか?」
白タキシードの男が隣から耳元で囁いた。
思わずびくっとして振り返る。男はにっと微笑い、視線を船の反対側へと移す。坂上もつられて小橋を見た。
小橋の横にはあのピンクのドレスの女がいた。亜沙美ではない、と反射的に思う。不思議なことにまったく似ても似つかない女だった。
小橋はその女にすがりついて、何かしきりに謝っている。
女は黒いタキシードの男を手招きで呼んで、腰が抜けた様子の小橋を抱えさせた。そしてこちらをちらりと見遣り、白タキシードの男にブイサインを出すと、二人の後に続いて地下へと下りていった。
振り向くと白タキシードの男は苦笑している。
「あんたは‥何者なんだ‥?」
彼は坂上に冷たい視線を向けた。
「あなたは‥何も知らないのですね。ぼくが誰だかも、小橋が何に怯えているのかも。青山さんがしたことも何も知らないんだ。」
坂上はふん、と冷笑を浮かべた。
「何の話か知らないが‥。俺は無関係だよ。小橋や青山とは知人だった、それだけなんだから。彼らが何をしていたかなんて全然知らないんだ。」
「へえ‥。でも金は全部あなたの懐に入った。そうですよね?」
「だから何の話か解らない、と言ってるんだよ。しつこいな。」
彼は肩を竦めた。
「まあいいや。あなたを追求するのはぼくの役目じゃなくて‥彼の役どころだしね。」
「彼‥?」
男の視線の動いた先には鳥島祐一が立っていた。
「と‥鳥島‥? じゃ、こいつはあんたの‥。」
友人だよ、と白タキシードの男はにこっと微笑んだ。
「鳥島さん、あとはよろしく。見てたと思うけど、この男には小橋ほども良心なんてないらしいよ。法で粛々と裁かれるのがいいんじゃない?」
「そのようだな。‥坂上、警察が到着するまでの間、昔話でもしようじゃないか?」
警察が来る―――?
白タキシードの男と入れ替わりに鳥島は隣に腰を下ろすと、坂上をじっと見据えた。
「『メルサ』名義の資産はすべて警察が差し押さえた。貸金庫から出てきた鍵で、架空ファンドの取引記録から偽造パスポート、違法薬物の密輸入の記録まで一切を押収したそうだよ。脱税、密輸、詐欺‥。詳細はなお調査中だが、とりあえず薬事法違反容疑では逮捕状が出ているはずだ。証拠隠滅、逃亡の怖れがあるから拘置されるのは免れないだろうな。」
「ちょっと‥待てよ。通告もなく不法に個人の財産を差し押さえて、それで証拠だなんて通るわけないだろう? 証拠の捏造だ。」
鳥島は淡々とした口調で答えた。
「不法じゃない。現在の『メルサ』のオーナーから自主的に提供されたんだから。」
「は‥? そんなバカな、俺が‥‥」
ヤバい部分を処分したのは売買成立より三日も前だぞ、と口に出しそうになって慌てて噤んだ。
「おまえは処分したつもりでしてなかったんだよ。何一つ。‥なあ、坂上。幻術って信じるかい? おまえが以前組んでいた白田が得意としてた術だそうだ。」
幻術だと言うのか。確かにこの手で処分したはずが―――幻の記憶だと。
「‥白田なんて知らない。」
「それはよかった。白田はリズを‥亜沙美を殺した男だ。依頼人があんたじゃなかったなら、彼女も浮かばれるだろう。」
鳥島は淡々と続けた。
「‥リズはあんたに言われたとおりに俺に嘘をついた。それきり逢ってなかった。昨年の春、元同僚からあんたが高飛びしたと聞いて‥俺はてっきりリズも一緒なんだと思ってたよ。彼女はあんたと結婚する夢を信じてたからね。」
「‥‥結婚するつもりだった。心変わりしたのはあいつのほうだ、あんたのせいだよ。」
坂上はなぜだか無性に腹が立ってきた。
よりによって鳥島に追求される謂われなどない。リズを―――亜沙美を奪ったのは誰だというのだ?
「あんたに出会うまで、亜沙美は俺を疑ったことなんかなかった。そこそこの金をつかんでショボい仕事と縁を切ったら、俺はほんとに亜沙美と一緒になるつもりでいたんだ。なのにあんたが‥‥よけいな入れ知恵をしたあげくに、俺を裏切らせようとした。正義のつもりかよ? 冗談じゃねえ‥!」
鳥島の静かな表情にますます腹が立ってくる。
「俺がやってたのはたかだか処方箋なしで薬を売ったくらいのことだ。大枚はたいても欲しいって言うからだぜ? そのあとどうなろうが自分のせいだろう、俺の知ったことじゃない。なのにあんた亜沙美に、俺がまるで殺人犯だみたいな話を吹きこんだだろう? 亜沙美は‥あいつ、バカだから‥。俺がいくら説明しても無駄だった。二度と俺の話を信じなくなりやがった。全部あんたのせいだよ、鳥島。俺に言わせればあんたはエデンの園に現れた蛇だ。イブに知恵の木の実を食べさせたヤツ。」
「リズがおまえを信じなくなったから‥売りとばしたって言うのか。殺されるって知ってて、教団に連れていったんだろう?」
「知らないよ。いつ警察に駆け込むか解らない女の家で、それ以上一緒に暮らしていられないからな。しばらく海外に逃げるから、教団に預けてあるチケットと住所をもらって来る気があればあとから来いとメールした。亜沙美は来なかった。それきりだ。」
あの女を気に入ったから譲らないか、と史が言った。
亜沙美は警察にタレこむかもしれない危険な女だと言ったのに、史は大丈夫、洗脳してやるからと自信たっぷりに微笑んだ。じゃあ任せるよ、と―――答えた。
他には選択肢はなかった、坂上だって逆らえば命がなかったのだ。殺されると知っていたのかだって? 愚問だ、と坂上は口もとに嘲笑を浮かべた。
鳥島は小さく吐息をついて、坂上に向き直った。
「リズは俺に‥何度も何度も確かめたんだ。自分が教団の摘発に協力すれば‥おまえを見逃してくれるかと。」
切なげにまばたきをして、鳥島は唇を噛みしめた。
「日本の法律では司法取引はない。だが自首扱いなら起訴されても執行猶予がつく可能性があるし、あの時点ではおまえは教団に弱味でもあっていいように使われているだけだろうと思われていたから、場合によっては見逃してもいい、と俺は答えた。‥‥信じなくなったのはおまえのほうだよ、坂上。リズじゃない。何があってもおまえについていこうとした女を、おまえは殺したんだ。」
「ばかばかしい。今更そんな話をしてどうなると言うんだ? 俺が泣きながら亜沙美に許しを請う姿でも見たいのかい? ありえねえよ。バカにすんな。」
坂上は吐き捨てるような口調で叫んだ。
「あんたに解るかよ? こないだまで俺だけ見てたのに‥今じゃ四六時中他の男を想ってる女を抱いて寝る虚しさがさ? ‥今頃そんな話をするくらいなら、なんであんた、警察を辞めた時に亜沙美を連れていかなかったんだよ。そうすりゃあいつは死ぬこともなかった。亜沙美の気持ちを散々利用して、捨てたのはあんたのほうじゃないか?」
鳥島の顔が一瞬歪んだ。
ざまあみろ、と心の中で罵り続ける。どこからかサイレンの音が響いてくる。
隣に黒いタキシード姿の眼鏡の男がすっと立った。胸ポケットから警察手帳を出す。
「坂上久志。薬事法違反容疑で逮捕します。」
「‥‥黙秘します。」
坂上は素直に立ち上がった。両手に手錠がカチャリとはまる。冷たい感触が夜風にさらされてすうっとなじむ。
それから鳥島を振り向いて、嘲笑を浮かべた。
「最後に一つだけ親切心で教えてやる。青山の知人だって男から今日、電話があってね。青山が欲しがってた女の住所を教えろというから教えてやった。なぜ俺が知ってたかと言うと‥あんたが最近仲良くしている女だったからだよ。‥そいつはお世辞にも好感の持てるタイプじゃなかったし、急いでるようだったからさ、今夜あたりその女がどうしているかさっさと確認したほうがいいんじゃないのかな?」
鳥島はまじまじと坂上の顔を見返した。訳が解らないといった表情だ。
「‥‥誰の話だ?」
「さあね。親切は一つだけだ。名前まで教える義理はないだろ? ‥さっさと行こうよ、刑事さん。俺は忙しいんだから。」
坂上が言い終わるのを待たず、鳥島はがばっと立ち上がって小走りでキャビンのほうへと去っていった。
刑事はそちらへ何か言いかけてやめ、眼鏡をずり上げて坂上を見ると、行こう、と腕を取った。坂上はふふっと微笑して大人しく従った。




