第十二章
アンジュの事務所で玲と健吾が次のショーについて打ち合わせている時、クロゼットの上着の中で着信音が鳴った。
「茉莉花‥?」
玲はすぐに立ち上がり、すっとんでいって出る。そしてふた言三言話して切った。
健吾はほんわりと微笑んだ。
「音だけでよく茉莉花さんだって解りますね。着音設定してるんですか?」
「するまでもないんだ、これは茉莉花専用だから。」
戻ってきた玲は嬉しそうに微笑んだ。
「メールは何度かあるけど、電話は初めてだなあ。すごい前進。‥健吾、リハーサルさっさと終わらせようか。」
再び健吾は笑顔を向けた。
「楽しそうですね‥。どこかへ行くんですか?」
「うん、まあ‥。彼女のことだからきっと、仕事の話なんだよ。誰かと待ち合わせかもね、時間と場所をはっきり指定してたから。」
健吾は今度は不思議そうに首をかしげる。
「茉莉花さんは主人のことを‥十分好きだと思うけど。主人のほうからデートに誘えば断らないじゃないんですか?」
玲は健吾ににこっと笑った。
「強引に口説いて困った顔されるより、自然に少しずつ距離を縮めるほうが楽しいの。わくわくするだろ?」
次のショーのための台本に赤ペンを入れながら、衣装と小道具を選ぶ。
「つまり‥見ているだけで楽しいってことですか?」
「あけすけに言うなよ。ま、今のところ見てるだけしか許可されてないからだけどさ‥。じゃ、始めようか。」
それから二時間ほど綿密な打ち合わせをした。
イリュージョンのイメージに近い映像をプロジェクターで確認し、会場の奥行きと立体感を計算して、どの角度からどれくらいかと図面に描いて実際にやってみる。
「うん‥。いいね、イメージどおり。多少台本を手直しするかもしれないから、まだ何度かリハすると思うけど‥。最終は当日の朝、現場でだ。どう、最初から最後まで一人でも大丈夫そうかな?」
「大丈夫でなくちゃ‥。俺、頑張ります。今度のは絶対、成功させないと。」
健吾は緊張気味に強張った顔で振り向く。漆黒の瞳が常になく力強く瞬いている。
「よし。成功させようよ。」
玲は満足げにうなずいた。
待ち合わせた喫茶店に着いてみると、茉莉花と一緒にいたのは磯貝要と誠―――本名四宮誠だった。
玲の顔を見るなり立ち上がった要は、深々とお辞儀をして瑞穂の代理で来たと説明した。誠は祖父に言われて、弟の付き添いだという。
「ご当主の代理ということは‥そちらはひと段落したんですか?」
「はい。今、『懐古堂』さんにもお話ししたんですけど、本家の結界を今月十八日に張り直すことが急遽決定しまして‥。そうすればかなり、そちらへご迷惑をかけているトラブルなんかも減るだろうとお嬢さまは仰ってました。‥それから姫鏡の姉の宵闇は無事に保護できました。本体は失われてしまったんですけど、幸い魂は残ってて、東の池を本体にすることになりました。白崎さんにご心配いただいたんで、そう伝えてもらえますか。」
それはよかった、と玲も微笑んだ。
要の話では宵闇の主人は初穂で、姉の立夏を間違えて主人と思い、従っていたのだという。ところが立夏自身もどうやらかなり前から呪い人形に操られていたようで、初穂の魂を呼び出そうとしたあげくに失敗し、体を人形に明け渡すはめになったそうだ。
「遺体は『御霊の会』教団本部で発見されました。まるでゴム皮のようで‥人の体じゃないみたいでした。警察官の誠兄さんの前で何ですけど、旧南家に内々に引き取らせました。四宮孝彦の遺体と同じ状態だったそうですよ。」
誠は黙って要のほうへ向かい、手をひらひらさせた。聞かなかったことにするらしい。
「で、人形は確保できていないんですか‥?」
「はい‥。さっさと逃げだしたあとでした。」
要は微かに眉根を寄せて、心配そうな顔をした。
「ただ、禁術関連の文書、記録、術具、呪具などはすべて回収できたんですけど、宵闇の話にあった、前当主の血判証書が見当たらなくて‥。どうも人形が持って逃げているらしいんですが‥。本家直系の血判ですから、四宮の結界はたいていすり抜けられるし、先月のように古い封印を解くのにも使用できちゃったりするんで、すっごく危険なんです。だから現在、本家衆の総力を挙げて人形の行方を必死で探しています。」
誠は疑わしげだ。
確かに人形が逃げているとか危険とか、一般人の常識では理解し難い話だろう。
「話が前後しちゃいましたが、結局春からの騒動の大雑把な流れというのは、旧南家当主の立夏さまと青山さんが組んで始めたことのようです。」
持ちかけたのは青山で、彼は史の死後小橋の命令で『御霊の会』教団を掌握した際に見つけた大量の禁術関連の書や記録、術具などを餌に、真宮寺森彦と四宮立夏に本家乗っ取りを唆したと推測される。
青山芳明はもともとは十二才から本家で育った能力者だった。椎名や三橋の二つ下で、能力的にはやっとレベル三かどうか、といった程度だったが、学校の成績が図抜けて優秀だったので、先代当主の史が見こんで警察庁へ送りこんだ。
彼は長年四宮史の片腕として、警察庁で根回しをする苦労の多い役目を孤独に果たしてきた。小橋一也を懐柔したのも史の意向だ。
ところが史の急死のあと、本家との縁は薄れ、代わりに『御霊の会』教団が懐に転がりこんできた。そこでたまたま目にした椎名のレポートで、禁術の応用と組み合わせにより自分でもレベル五の能力者になり得ることを知ったのだ。
能力者は生まれつきのレベルで地位が決まる。それを超えられるという可能性は青山には何より抵抗しがたい誘惑であったのだろう。
四宮立夏や真宮寺森彦を動かしたのも似たような動機だ。
四宮立夏は能力的には自分より劣る妹の初穂が、本家当主夫人として自分の上に立っているのが許せなかった。初穂は四宮泉に直々に見こまれ、八才の時に史の許婚として本家に引き取られたため、姉妹として愛情を育む時間を持たなかったというのも影響したようで、嫉妬より憎悪に近い感情を抱いていたようだ。
春に本家を一時的に乗っ取った際、こっそりと入りこんでいた立夏はわずかに残った当主夫人の所持品から正装となる紋付きの着物を勝手に取りだし、身につけていた。それが宵闇を惑わす結果になった。
また真宮寺森彦は以前より、真宮寺家の継承を認められなかった恨みを本家に対して抱いていた。更に青山が提示した文書や術具の多くが本来真宮寺家の所持品であったことが彼の恨みを増幅し、やがては真宮寺一族の直系でありながらレベル一程度しか霊力を持たない自分への劣等感が、逆恨み的に四宮の姫たちへの復讐心へと取って代わった。
呪い人形の封印を解き、椎名のレポートを参考にして他人の霊力を奪い利用する傀儡の術を編み出したのは青山だ。恐らくは人形の指示どおりに―――ペットに餌を与えるような感覚で真宮寺と四宮孝彦、立夏を利用した。思惑どおりにいけば、彼らを通じて能力者集団である四宮を、陰から実効支配することができる。それが青山の野望だった。
春の奇襲が失敗に終わったのは誤算だっただろう。
実行役の真宮寺を失ったうえに、邪魔に入った者の素性は不明。精霊遣いと龍笛が糸を切ったことだけは判明した。
六月十五日の陽動は呪い人形と立夏が企てたものだ。
ついでに瑞穂の伝言だと厨房務めの女性を瞞し、椎名に精霊遣いと龍笛を現場に向かわせるよう指示を出させた。うまくいけば精霊遣いと龍笛を始末でき、しかも椎名に罪をなすりつけられる。青山はそう考えた。
「では青山参事官が内通者に仕立てるつもりだったのは、椎名さんだったんですね‥?」
「はい。疑わせて孤立させ、引き抜くつもりだったようです。」
要は神妙な顔で溜息をついた。
「結局青山参事官は、史さまになりかわりたかったみたいです。それで本家での史さまの片腕だった椎名さんが欲しかった。‥でもね、お嬢さまが椎名さんを疑うなんてありえないんですよ。お嬢さま方は俺たちとは格が違うので、人を見る時は魂を見ているのだとか。俺のような分家育ちならともかく、本家育ちなら解っていていいのに‥。」
要はコーヒーをひと口すすった。上着の袖が失った左手の残像みたいに微かに揺れる。
「‥祖父から誠兄さんを通じて今回も『懐古堂』さんにご協力いただいたと伺いました。春の件も含めてほんとに感謝しています、と瑞穂お嬢さまからの伝言です。ほんとはご自分で来たかったようなんですけど、お嬢さまは少々過労気味なので‥。本家の大結界が完成したら必ず『懐古堂』さんに正式にご挨拶に出向くのでと仰っていました。」
黙ってメモを取り続けていた誠が、玲のほうへ顔を上げた。
「春の襲撃事件で彼らの企てを阻止したのはあなただそうですよね? 今の要の話は、四宮立夏の死亡と真宮寺森彦の幼児退行が本家より明らかにされたために、やっと旧南家の面々が口を割ってその証言を繋げたものです。聴取に当たった兄の話では全員が非常に怯えていて、本家の庇護を切実に求めていたとか‥。でも聞く限り旧南家からあなたの名前は出てこなかったようです。なのにあなたは、本家の敵から狙われていると仰った。それはどういうことですか?」
「狙われてるって、堂上さん、狙われてたんですか‥?」
要はびっくりした表情で兄と玲の顔を交互に見た。
「同じ相手から狙われていると言ったんですよ。本家襲撃の邪魔をしたという理由だとは限りません。個人的なトラブルだとも言ったでしょ? 瑞穂ちゃんには内緒ね、要くん。」
玲は要に微笑みかけ、再び誠へ視線を移した。
「それより‥呪い人形は本家衆の方々に任せるとして、問題は坂上と小橋です。桂崎さんは警察では裁けない、と仰ってましたけど‥。自白でもあればいけますかね?」
誠は胡散臭そうに玲を見る。信用はほとんどないらしい。
「自白だけではどうも。物証もないとね。‥何か仕掛けるつもりですか? うちの桂崎にけしかけられたからって脅迫したりしないでくださいよ。」
玲はにこっと微笑んだ。
「違法行為はしません。ただね‥ちょっとしたアトラクションを用意してるだけです。磯貝刑事と桂崎刑事には招待状を用意してますので、よろしく。」
誠の顔が不安げに歪んだ。
要がかわりに身を乗りだす。
「何かするんですか‥? 残念だな、こんな腕じゃなきゃ俺も手伝わせてもらうのに。」
「ふふ。要くんは瑞穂ちゃんの許可がないとね、招待できないよ。‥ね?」
茉莉花はゆったりとうなずいたが、うつむいたままの横顔はどこか虚ろだ、
ふと茉莉花の膝にいたはずの桜の姿が見えないのに気づいた。じっと茉莉花を見つめてみる。だが桜がいなければ玲はただの人間だ。
「要くん‥。君って能力者だよね? うちの茉莉花は確かにここにいるのかな?」
え、と顔を上げた要はきょろきょろと回りを見回した。
「『懐古堂』さんなら、堂上さんが入ってきた時に入れ替わりに化粧室へ行って‥。そう言えばずっと戻ってきてませんね。」
「ええっ?」
誠が眼鏡をずり上げて、茉莉花をじっと見た。
「じゃ。ここに座っているのは誰‥?」
玲は思わず血の気が引いていくのを感じた。
茉莉花の腕を取って、思い切り弾いてみる。思ったとおり茉莉花に見えていたモノは淡いピンク色のシャボン玉に変わり、しゅわん、と弾けて消えた。
「うわっ‥! 何だ?」
「これは霊力で作ったシャボン玉です。気配を映すモノで‥普通の人間には本人に見えちゃう。ぼくも今は守護精霊と一緒じゃないので、瞞されてました。」
玲は携帯を取りだし、健吾を呼びだした。
「健吾? 今どこ? ‥近くに桜か茉莉花はいないかな?」
健吾には恒例行事みたいに現れた川井春奈を撒くために、別行動を取ってもらっていた。
健吾は上ずった声で、たいへんなんです、と囁いた。
「たいへん‥?」
「川井春奈の背中に‥雫じゃなくて怨霊そのモノがいるんです。だから強力にパワーアップしちゃってて‥俺じゃごまかしきれなくなってるんですよ。気をつけてください。」
「落ち着いて‥。俺を狙ってるのは初めからなんだから、問題ないよ。場所はどこ? 茉莉花と桜は?」
「‥‥茉莉花さんの気配があちこちにあるので、怨霊が困惑しているんです。桜さんの気配は読めません。桜さんと一緒にいるのが本物なら、怨霊にもつかめてないと思います。」
健吾は電話口で慌ただしくそう言った。とりあえず安心する。
「で、怨霊の狙いはどっちなんだろう? 俺、それとも茉莉花?」
「今は‥‥解りません。彼女の主人への執着は強烈な憎悪に変化したみたいなんですけど‥何だか唐突で‥。混乱しているせいで誰も彼も憎い、みたいに高まっちゃってて‥。」
「そうか‥。で、今どこ? ‥‥え?」
健吾の告げた場所はすぐ近くだった。五百メートルと離れていないだろう。川井春奈はまもなくここに来る。
「まずいな‥。こんな人混みで‥。」
「あの‥? どうしたんですか、いったい‥。」
不可解そうな磯貝兄弟を安心させるために、とりあえず業務用笑顔を向けると、玲は立ち上がった。
「ちょっとヤバい具合になってて‥。狙われてるって言ったでしょ、あれが近づいてるんです。ぼくは場所を変えますんで、また後日ご連絡します。」
店を出ると、既に百メートルほど前方に川井春奈の姿が見えた。
よろよろとおぼつかない足取りだ。まるでラリっているみたいなので、すれ違う人たちもあからさまに避けている。
茉莉花は、と見回すと、やたら何人もの茉莉花が人混みの合間に見え隠れしていた。
桜がいないとなんて不便なんだろう。
チッと舌打ちして、いちかばちか自分を餌にするしかないか、と腹を括った。
十メートルほどの距離に近づいたところで玲はおい、と川井春奈に声をかけた。彼女の虚ろな視線がこちらを見留める。そしてにたア、と不気味に笑った。
「堂上くん‥‥。探してたの‥。逢いたかったのよ、ずっと‥。」
「そう? じゃ、ついておいでよ。」
くるりと背を向けると、小走りでビルの谷間を進んでいく。川井春奈はにやにや笑いを貼りつかせて、待って、待ってよ、と追いかけてくる。
「健吾。近くにいる?」
健吾の姿が横にすっと現れた。
「はい、主人。‥次の角を左に曲がるとちょっとした公園があります。」
健吾とは川井春奈が暴発しそうになった場合について、あらかじめ打ち合わせ済みだ。
「公園ね。人払いできそう?」
「もう、しました。」
よし、とうなずくと玲はだっと駆けだし、全速力で左に曲がった。背後の春奈とはもう五メートルと開いていない。そのまま一気に健吾の手招きする公園へ走りこむ。
息を弾ませたまま振り向くと、生気の失せた虚ろな貌が再びにたア、と微笑っていた。
背中に悪寒が走った。が同時に腹の底からの怒りも湧いてくる。哀れな女への同情心など一片も感じなかった。
両手をさしのべて近づいてきた春奈を、玲は嘲笑を浮かべて拒絶した。
「近寄るなよ。母親殺しの汚らわしい手で俺に触るな。」
春奈はぽかんとした顔をした。
「母親って‥。あんなの、母親じゃないわ。自分が幸せになるためにって何もかも教団に入れ込んで借金つくって、結局あたしを教団に売りとばしたんだから‥。今度はあたしが幸せになるために体を捧げてもらったの。」
「へえ‥そんなふうに正当化してるわけ? お母さんの借金はせいぜい一千万、一方で君が浪費してる金はその数倍以上。全部自分のためだろ‥? 売春も麻薬売買の手引きも、汚い仕事全部、何もかも自分のためじゃないか。嘘をつくなよ。」
玲はせせら笑った。春奈の表情がすうっと硬くなる。
「だいたいが昔から嘘つきだったよね。『メルサ』の仕事以外でも、坂上に横流ししてもらった麻薬を何人に売った? 数え切れないだろ。この先君が幸せであり続けるために、いったいどれだけの人を犠牲にするつもり?」
「う‥嘘つきだなんて、堂上くんに言われたくない! あんたこそ嘘ばっかりじゃない、あたし、知ってるんだから‥!」
春奈の顔は怒りで赤く膨らんでいる。
「さあてね。君が何を知ってるつもりか解らないけど、俺は自分に嘘をついたことはないよ。だからはっきり言うけど、君が大嫌いだ。昔からずっと嫌いだった。卒業して二度と会わないですむとせいせいしてたのに‥。まったく迷惑だよ。さっさと俺の前から消えてくれないか。」
氷のように冷ややかな視線を向けて、玲はだめ押しの言葉を吐いた。
「できれば、永久に。」
春奈の体からどす黒い墨のようなモノがもやもやと立ち上り始めた。
暴発するのだろうか。玲は数歩下がって、冷たい視線を浴びせ続ける。
その目の前で春奈のガラス玉みたいに虚ろな瞳は、まるで抉られたみたいな単なる真っ黒な穴へと変わった。明るい栗色の短い髪が黒く変色し、するすると長く伸び始める。
フラッシュをたくようにぱっぱっ、と幾種類もの表情が現れては消え、最後は鬼女の貌が現れた。鬼女のつり上がった両眼から墨色の涙が頬を伝い落ちる。
「‥‥恨めしや、わが君‥。またも妾を‥退けめさるか‥。妾はただ‥愛しいお方を独り占めしたいと願うて‥邪魔をするおなごを一人二人殺しただけであるのに‥何ゆえ‥?」
これが怨霊の正体か。背筋がぞっとするなんて程度じゃないな、と玲は今にも震え出しそうな足に何とか力をこめた。
つくづくバカな女だ、とほんの少しだけ憐れみを覚えた。
こんな凄まじいモノを操れるとどうして考えたのだろう? 怨霊に比べたら人間の男を手玉に取るほうが遙かにたやすいじゃないか。なぜそれが解らなかったのだろう。
さて次の手だ。まだ春奈の魂は少しは残っているだろうか。自信はないが残っているほうへ賭けて、さっさとすませてしまおう。玲はズボンのポケットへ手を入れた。
突如、鈴が高らかになり響いた。
金色の光が幾重もの環を描いて、ちっぽけな公園全体に波紋を描きだす。波紋は鈴の音に合わせてたちまち、鬼女を縛りあげていった。
「ご主人さま‥!」
桜の声が耳元で聞こえたと思った瞬間、鬼女は黒い着物を着た市松人形に変わり、その足下で茫然自失してすわりこんでいる春奈の姿が見えた。
「まったくあなたという人は‥! なんて無謀なの、桜もいないのに自分で立ち向かうなんて‥! 怖いもの知らずにもほどがあるわ‥‥」
振り返ると目をつり上げた、鬼女さながらの剣幕の茉莉花が立っていた。全身から金色の光が炎のようにゆらゆらと沸き立っている。
―――無事だったか‥。
玲は心の底から安堵した。しかも久しぶりに聞く強い叱声だ。
「無謀なのは君のほうじゃないか。俺に黙って何してたんだよ? ‥ほんとムカつくよ。あんなシャボン玉で瞞されちゃうなんて。」
茉莉花は少し眦を下げて、悪かったわ、とつぶやいた。
「怨霊が変化して、凄い速さであなたを狙ってくるのに気づいたの。それで‥何とかしようと思って‥‥。」
「彼女を混乱させて、自分のほうへ引きつけようとしたんだろ? シャボン玉なんかそこらじゅうにばら撒いてさ。悪趣味だよ、あんなの。誰より俺がいちばん混乱したじゃないか。健吾がいなかったら冷静でいられなかったよ。‥‥ところでこいつは何?」
ついこみあげた想いを素直に喋ってしまった。照れくさいので急いで話を変える。
「‥‥人形よ。たぶん真宮寺棗。」
「真宮寺‥棗? 本家が探している呪い人形か。」
金色の縛めをほどけずに、人形は歯がみをして悔しがっている。
「川井さんが呼びだした怨霊は真宮寺棗だったのよ。青山さんという人は‥ほんとうにひどいことをするわね。人形の封印を解いただけじゃなく、最初から川井さんを使って呪い人形に魂を与えるつもりだったみたい。」
「ふうん‥。それでこれをどうするの? 本家に引き渡すの、それとも君がこの場で封印するつもり?」
「‥‥滅するのがいいと思う。今の世に存在してはいけないモノだから。」
滅すると聞いて、人形はがたがた震え始めた。いや、いやだ、とすすり泣いている。
しかし茉莉花は切れ長の瞳を冷ややかに光らせ、人形を見据えた。
「あなたはもう死んだ人なの。恨みを捨てて成仏しなさい。あなたの人形には、散々人を喰らった罪を償ってもらう。」
鈴の音がだんだんと高く大きくなり、空間を震わせ始める。
その時抜け殻のように転がっていた春奈の体がむくむくっと起き上がった。
気づいた時には、光る物を手にした春奈が茉莉花に突進していた。とっさに玲は自分の体を間に入れ、全身で春奈を抱きとめた。
ずんと重い衝撃が腹を突く。
「堂上‥くん? なんで‥あたし‥あたしは‥。」
わずかに残っていた春奈の魂が、玲の腕の中で意識を取り戻したようだった。
握りしめていたナイフから手を離し、怯えた顔でよろよろと後ずさりする。そのままどしんと尻餅をつくと、すすり泣きながら玲を見上げた。
玲は冷ややかに見下ろす。
一瞬だけ視線が合い、堪えきれずに自分から目を伏せた春奈は、玲の腹に突き立ったナイフにじっと目を留めたかと思うと、今度は大声でけたたましく笑い出した。
体じゅうから憎悪に満ちた黒い靄が、凄まじい勢いで立ち上ってくる。
「あは‥あははは‥! いい気味、あたしを‥あたしを‥」
言い終わらないうちに、漆黒の闇が羽を広げて彼女をのみこみ、あっと思う間もなく、一陣の風を遺して川井春奈の姿は跡形なく消えてしまった。
玲はふう、と息をついて腹を押さえた。
「‥自分の闇に喰われちゃったか。何とか助けて‥やろうとしたのにね‥。」
ふと見ると茉莉花が青ざめて立ち竦んでいる。
「あ‥‥」
名前を呼ぼうとしているのか、それとも声が出ないのか。
玲はにこっと微笑んで、腹に刺さったナイフをぐいと引き抜いた。ナイフの先から、血がわずかに滴っている。
「ちぇっ。やっぱり既製品じゃこの程度か。次は特注品にしよう。」
ナイフを放り投げると茉莉花に近づき、フリーズ状態の強張った肩にそっと手を置いた。
「平気。ちょっとかすっただけ。ほらね。」
シャツをめくりあげて、下に身につけている防弾防刃インナーを見せる。
「狙われてるのが解ってて、何も対策してないはずないじゃん? 暑かったけどね。」
茉莉花はインナーの切り裂かれた部分を覗きこみ、震える指でその下の素肌に触れてきた。それから自分の指先に付着した真っ赤な血を、茫然と見つめる。
おもむろに両手で顔を覆うと、立ち竦んだまま声を出さずにさめざめと泣き出した。
鈴がいっせいに高音で鳴り響く。
茉莉花の体の震えに呼応して、金色の波紋がうねりを上げて公園じゅうを駆けめぐる。背後で人形が、断末魔の悲鳴をあげて、がらがらと崩れ落ちる音がした。
それでも鈴の音の波紋は鳴り止まなかった。小さな公園どころか辺り一帯を破壊しそうな勢いだ。伽羅の微薫が漂い、健吾が妖力を上げたのを感じた。
「茉莉花、茉莉花‥。落ち着いて。」
髪をかきあげて耳元で名を呼ぶと、茉莉花は小刻みに体を震わせながら、涙に濡れた顔を上げた。
必死な瞳が無防備なままで見つめてきて、玲の胸を轟かせる。何と言うか―――めちゃくちゃ可愛い。
「死んじゃうかと‥思った。」
「死なないよ。冗談じゃない。あれからまだ一度もキスの許可が出ないのにさ。‥今キスしてもいい?」
返事の代わりに彼女は無言でひしと抱きついてきた。
だが二人の周囲では金色の波紋が暴風雨のように荒れ狂い続けていて、健吾が必死で抑えているもののいつまで保つか解らない状態だ。確かに茉莉花の霊力は半端じゃない。
刺激しないよう、玲は非常な努力で劣情を胸の奥へ押しこみ、震え続けている背中を優しく撫でるだけで我慢した。
だんだんと鈴の音が低くなり始める。
金色の光がやんで、普通の公園の光景が戻ってきた。すっかり日が落ちて、夕闇があたりを押し包んでいる。
茉莉花は気恥ずかしげに腕の中から抜け出て、足下の人形を見下ろした。
「ああ‥。ここまでするつもりじゃなかったんだけど‥。ちょっと頭に血が上って‥。」
人形の残骸は粉々に破壊され、黒く朽ちた単なるゴミにしか見えない。
慎重に検分していた茉莉花は、しまった、とつぶやいて唇を噛んだ。
「真宮寺棗の魂を逃がしてしまったみたい。ここに細い霊力の跡が見えるわ‥。わたしがつい、動顛したせいで‥。」
「でももう、人形がないんだから悪さはできないよね? 本家にあとは任せよう。」
玲がメールを送信している間に、茉莉花は人形の残骸に『懐古堂』の札を貼り、公園の空間を仕切り直した。
「‥すぐ来るって。じゃ、俺たちは帰ろうか。」
並んで歩き出すと、玲のほうをちらりと見て茉莉花はためらいがちに訊ねてきた。
「あの‥。さっき、川井さんを助けたかったって言ってたでしょ? ごめんなさい‥うまくできなくて‥。」
「できれば助けてやろうと思った、って言ったの。君が助けたがってたから何とかしたかっただけ。別に俺自身には彼女に何の感情もないよ。怨霊に喰われる前に俺に向かって暴発すれば、気がすんで成仏できるかなって思ったけど‥。結局自分の心の闇に喰われちゃったね。」
茉莉花の手を探って、繋いで歩いた。
「彼女には通じなかったかもしれないけどさ。俺はね、君のそんなお人好しなところが好きだよ。俺にはないものだからよけいに大切にしたいと思う。だからさ‥。」
「‥‥だから?」
「困った時に、俺より先に若さまや鳥島さんに相談するのは禁止。それからシャボン玉を俺に向けて使うのも禁止。あとね‥。」
「まだあるの?」
いつもどおりの呆れ顔に、玲はにやっと微笑った。
「今夜はこれだけでいいや。一年ぶりの泣き顔を見られたし‥何より自分から抱きついてきてくれたしね。」
茉莉花はぶんと耳まで赤くなってうつむいた。う、と言ったきり黙っているのは、返す言葉が見つからないのだろう。だが手は振りほどかなかった。
迷子の魂は―――戻りかけている。指先の温もりにそんな気がした。
真宮寺棗はふわふわと夜空を漂っていた。
早くしなければ夜鴉に見つかってしまう、その恐怖が全身をわななかせる。
金色の光に包まれ、木と布でできた体が破裂したら、何もかもが解らなくなった。なぜ再びこの世に舞い戻ってきたのか、何を望んでいたのか。もうすべて、どうでもいい。
―――あの冷ややかなまなざし。
残っているのは魂の奥を焼かれるような強いまなざし。依代の女と一瞬共鳴した、胸を引き裂かれるような絶望。しかしなお燻る想い。
あの女は自分の心の闇が生みだした憎悪にのみこまれて消えた。
その途端、昨夜より女を監視していた夜鴉の羽が、闇のモノとなった憎悪を瞬時に切り裂いて闇に戻した。
棗は怖ろしくて逃げだした。あれが永い時を経てよみがえったあげくの末路か。そう思い知ったら怖くて怖くてたまらなくなった。
どこへ行けばよいのか。いつまでも逃げられはしない。儚く頼りない今の状態ではどうせ暁の光に照らされればひとたまりもないだろう。
夜空の月に導かれるまま、棗は四宮本家のほうへ向かった。
―――冷ややかなまなざし‥。懐かしい気配‥。
近づくほどに空っぽな胸に慕わしい気持ちが渾々と湧きあがってくる。
いつのまにか棗の姿は黒い着物を脱ぎ捨て、鮮やかな牡丹色の小袖姿に変わっている。尼のように肩口で切り揃えたぼさぼさの髪が、高く結った艶やかな黒髪に。恐怖は少しずつ薄れて、晴れやかな気分さえ覚える。
ふっくらとした上弦の月の下に、そっとたたずむ姿が見えた。
恋しさが喉まであふれて、棗は樹影に隠れて名を呼んだ。すると懐手をした総髪の男が静かに振り向いた。
「棗か。」
「はい‥。煕さま。お会いしとうございました。」
四宮煕は苦笑いを浮かべた。
「今宵は月が美しい。五百年ぶりに逢ったというに、何ゆえそのような影の中にひそんでいる? ‥まだわたしを恨んでいるのか。」
冷めたまなざしは、先ほど棗の胸を焼いた凍った鋼のような冷たさとはどこか違っている。冬の夜に凛と注がれる寒月の光。冷たいとばかり感じていた月光に含まれる、ほのかな温かさに、棗は焦げついた胸が癒されるのを感じた。
光の中へおずおずと出る。
煕は切れ長の瞳をじっと棗に据えて、つくづくと眺めた。
「その姿は出会うた頃の可憐なそなたを思い出すな‥。棗、そなたを鬼女に変えたのはわたしか? ならばもう許せ。闇の中は息苦しくて辛いであろうよ。わたしを許して、そなたも楽になれ。」
「‥‥恨みは先ほど浄化されました。彼の者は妾を滅しようとはせず‥魂の成仏を願ってくれました。それゆえに妾はここに辿りつくことができたようです。」
棗はうつむいたまま、粛々と話した。
はらり、と一枚の証書が懐から地面に落ちる。結界をくぐってここまで棗を連れてきてくれたものだ。
お返しします、と棗はしずしずと頭を垂れた。
「どうせ暁までも保たぬこの身。煕さま、最後のご慈悲を妾に賜りませ。どうかその手で妾を滅してくださりませ。」
「‥‥それが真の望みか?」
棗は恐る恐る目を上げた。そして合掌し、静かにうなずいた。
「ならばかなえよう。」
四宮煕の掌に淡い銀色の光が生じ、真円を描いた。もう何も怖くはなかった。ただゆっくりと眠りたいだけだ。
「‥‥破邪。」
まばゆい光が閉じた目蓋からあふれるほど身のうちに注がれていく。愛しい腕に抱かれていた時と同じ感覚が全身を燃え上がらせる。
真宮寺棗は最後に煕を見つめ、にっこりと微笑んだ。そして跡形なく消滅した。




