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99 砂漠の王は笑う

ここに来るのは何度目だろう。


アレクセイから縁組話を聞かされた一か月後。

私とエルヴィンは、星冠宮(アストラリア)の控えの間で呼び出しを待っていた。


星冠宮。静謐と緊張、格式が重なり合う空間。


初めては、何も分からず緊張していた。次に来たときは、黎明星の乙女として。舞踏会で熱狂に包まれた。そして、その後は、両親が見つかるかもという期待にあふれていた。今は――自分の運命が定まる予感がしている。


控えの間の鏡に映った自分の姿は、否応なくこの緊急事態を意識させた。


私が身にまとっているのは、十七の誕生日にエルヴィンが贈ってくれたもの。エルヴィンの瞳と同じ深い碧は、肌を白く見せ、薄紫の髪を際立たせる。腰の曲線は落ち着いて見え、首筋は柔らかく、肩は静かに艶を帯びている。その下のふくらみも、品位を保ちながら確かな存在感を主張していた。


――もはや、匂い立つような絶世の美女と言って差し支えない。あれから手足も少し伸びたし、体つきは一層女性らしくなったから、もはや二十歳ぐらいに見える。いつの間にか「道具として使うに足る存在」になってしまった。婚姻という政治の装置に組み込まれるに、実にふさわしい商品に。


◇◇◇


侍従が来ると、形式通りの挨拶をしたあと、わずかに声を落とした。

「本日の御前は、皇帝代理として第一皇子殿下が務められます」


虚星を退けてから皇帝陛下の体調は戻られたと聞いている。なのに、アレクセイが今も皇帝代理を務めているのは、きっと次代を睨んだ政治的判断なんだろう。


侍従が、続けた。

「ご案内は、中庭にて」


中庭?

謁見の間ではなく?


エルヴィンと視線を交わしたが、彼も何も言わなかった。理由は、行けば分かる——そんな顔をしていた。


◇◇◇


星冠宮の中庭は、帝国の庭師たちが丹精込めて整えた美しい空間だ。整然と刈り込まれた生垣、噴水の音、白い石畳。晴れた空の下では、ただ清らかで静謐な場所のはずだった。


――はずだった、のだが。

今日は衛兵たちが無言で外周を固め、アレクセイが中央に立っている。その顔には、いつもの冷静さに加えて、かすかな緊張の色があった。


「アリア、エルヴィン。よく来たな」

「……アレクセイ、中庭とは。どういうことだ」

「……見れば分かる」


短い答えだった。


私は空を仰いだ。


最初は、遠くの雲の影かと思った。

次第に、それが動いていることに気づく。

そして、影が形を持ち始めた瞬間――


「っ……」


翼だ。巨大な、翼。一頭ではない。編隊を組んで、こちらへ向かってくる。陽光を受けて金の鱗が鈍く輝き、羽ばたくたびに風圧が波のように押し寄せる。


竜だ。

本物の、竜が、空を飛んでいる。


「……えっ」


思わず声が出た。竜って、この世界に、いるの?


エルヴィンが、私の心の声を呼んだかのように言う。

「あれが、飛竜……」


アレクセイが、空を見上げながら声を発した。

「見事なものだな」


先頭の一頭が、白い石畳めがけてゆっくりと高度を落とした。翼が大きく広げられ、風が庭全体を薙ぐ。生垣が揺れ、噴水の水面が波立つ。着地の瞬間、地面がかすかに震えた。


続いて茶の竜、赤の竜、橙色の竜。次々と色とりどりの竜が降り立ち、一種異様な雰囲気が場を支配する。


金の竜の背に乗っていた人影が、竜の首をひと撫でした。竜は、まるで大型犬のように大人しく首を垂れる。人影は軽やかに地に降り立った。


鋳造された硬貨のような金の瞳。陽に磨かれた褐色の肌に、赤褐色の髪が映える。背は高く、肩幅があり、着地してもなお歩調には一切の乱れがなかった。黒と鈍い金属色を基調にした装束は、軍装に近いが、不思議と粗野さはなく、彼の高貴な生まれを感じさせた。


先頭に立つ黄金の瞳が、こちらを向いた瞬間だった。


「……ああ……」

掠れた声。


その人はためらいもなく私の前に来ると、片膝をついた。石畳に膝をつく音が、いやにはっきりと響く。


「私の妻となるべき運命の乙女よ」

顔を上げ、まっすぐに私を見る。

「私、カディル=アル=ハディル=ザフィールはそなたに結婚を申し込む」


――は?


思考が追いつく前に、空気がざわめいた。


アレクセイが一瞬、凍りついたように息を止める。

エルヴィンも、反射的に半歩前に出かけ――すぐに踏みとどまった。


その瞬間。


「カディル様っ!!」

鋭い声。


スパンッ


乾いた音が、中庭に響いた。

男の頭が、わずかに横に揺れる。


ん?今、なんか殴られたように見えたぞ。それも、スリッパで。つるっとしたビニールっぽい質感の。


男を制止したのは、すぐ後ろに控えていた男だった。黒く長い髪を後ろで束ね、眼鏡をかけている。整った顔立ちだが、その表情は冷静そのものだ。


彼は、スリッパらしきものを振り回しながら、


「外交」

スパンッ


「場」

スパンッ


「立場」

スパンッ


容赦のない言葉と衝撃を、男に突き立てる。


「……っ」


男は目を瞬かせ、ようやく我に返った。

「――失礼した」

深く、一礼。そして。

「軽率だった。ここは、他国の宮廷だったな」


いや、宮廷でもどこでも、いきなり初対面の女性に求婚するのはおかしいと思いますけど……。


凍りついた空気を切り裂くように、アレクセイが口を開いた。

「陛下。今の言葉は、正式な外交手続きとしては受理しない。――よろしいな」


男は一拍置いて、力強く頷いた。

「それで構わぬ。今のは、ただの個人の願望だ」


だが、と言わんばかりに、再び私を見る。砂漠を照り付ける太陽のようにぎらぎらとしている。え……怖い、この人。いくら惚れやすいとしても、こんなところでいきなり求婚しちゃだめでしょ。というか、そもそも一体、誰なの?


「――さて」

アレクセイは咳払いをひとつ。


「アリア、こちらは、ザフィール鋼盟(こうめい)国より来られた使節団の方々だ。この方はカディル=アル=ハディル=ザフィール陛下。鋼盟国の盟主であられる」


ザフィール鋼盟国。

エリドゥ帝国の南西に位置する軍事大国だ。国土のほとんどを砂漠が占めているが、科学と魔導を組み合わせた独自の技術で、目まぐるしい発展を遂げている、と何度目かのお茶会でエルヴィンから聞いた記憶がある。確か最近、盟主が変わったはず、つまりこの人が新しい王様ってことかな……。


私は視線を逸らさぬまま、ほんのわずかに顎を引き、礼を示した。

「お初にお目にかかります、ザフィール陛下。アザル公爵家のアリアにございます。ザフィール鋼盟国では、砂漠に咲く青い花があるとか。強い土地に根づく美しさ――とても印象深く存じます」


ザフィール陛下は、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「アテ砂漠に咲くトーチカは、我らの帰る場所だ。どんなに乾いた土地でも根を張り、季節が巡れば必ず咲く。――そなた、ただの“聖女”ではないようだな」


アレクセイが、陛下と私を交互に見てから、少し疲れた顔で私に声をかける。

「黎明星の乙女アリア。本日より、そなたにザフィール鋼盟国使節団の応接を命じる」


嗚呼、やっぱり、この人が私の婚約者候補なんですね……。私は、暗雲垂れ込めまくる自分の今後を想像して、心の中で大きくため息をついた。


対照的に、ザフィール陛下には豪快な笑みが宿った。

「そなたに応接してもらえるとは、実に光栄だ」


無能と呼ばれた妹の、新たな試練が始まろうとしていた。

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