高校入学と部活入部。
桜の花が花弁を散らすこの季節、僕は音丘学園に入学した。
「よおっ!」
僕は押された勢いで前のめりになりこけそうになった。
後ろを振り返る。
「何だ、お前か」
僕の背中を叩いた奴は木田治だ。
「お前の背中は相変わらず無防備だなあっ」
治はそういうと口の端を吊り上げ、歯を見せながらハハハと笑った。
「無防備って、某殺し屋じゃないんだから常に警戒している奴の方がおかしいよ」
「そうかなあっ」
治は首を傾げながら真剣な様子で疑問の表情を浮かべながら言った。
「そうだよ。お前は色々格闘技に長けているしさ、小さい時の育った環境の影響があるしさ、お前は特別なんだよ」
「ほほう」
治は特別という言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた。
治は特別という言葉が大好きなのだ。治は生まれ育った環境のせいで小学生の時から特別と言われ続けて来た。それは中学に進んでも変わらなかった。生徒達はもちろんのこと先生も治のことを特別扱いしていた。
治は小さい時、アフリカで生まれた。治の親父は日本人なのだが、仕事の都合上、アフリカに転勤になったのだ。
治の母親も日本人で、治の父親が転勤すると一緒にアフリカへと渡った。
間もなくして治の母親は子を身ごもった。そう後に治と名付ける子である。
そして一年後治が生まれた。
治が1歳の時、父親と、母親はジャングルに仕事の調査に出かけた。母親は治をおんぶ紐で治を背中に背負いながらジャングルを父親と一緒に調査していた。
その時だった、ドコドコドコドコ! と音が聞こえたのは。
嫌な予感を感じて周りを見回した時には既に時遅しだった。
目の前にゴリラが現れていたのだ。
そのゴリラは図鑑やテレビなどの映像で見たことのあるゴリラとパッと見は一緒だった。だけど、一つだけ違った点があった。それは体格だ。普通ゴリラは1、5mから1、8mぐらいと言われているが、そのゴリラは8mぐらいあった。
治の父親はあまりの恐怖に腰を抜かした。治の母親も同様だった。
ゴリラの視線は一つだった。治の母親の後ろに向かって注がれていたのだ。
そう治である。治はその時、8mゴリラによって誘拐されたのだ。
後に、8mゴリラから治を助け出した時、なぜゴリラが治のことを誘拐したのかが分かった。
治の顔がゴリラそっくりだったからだ。
8mゴリラには子供がいて、その子供のゴリラが治と瓜二つだったのだ。
8mゴリラは治を見て、自分の子供がさらわれたと勘違いしたのだろう。
2年後、治は助け出された。だけど治はまったくと言っていいほど体に異常な点は一切なかった。怪我も一つもなかった。8mゴリラはちゃんと治のことを大切に育ててくれていたようだ。
軍隊や警察、治の父、母が、8mゴリラを発見すると8mゴリラは申し訳なさそうな顔をして治をそっと両親に返した。どうやら治が自分の子供ではないと気づいたようらしかった。自分の子供と治とを見比べて体格や毛などで判断したのではないだろうか。
8mゴリラは麻酔銃を撃たれるでもなく、のそのそとジャングルの奥深くへと帰って行った。
8mゴリラのその後は、誰も知らない。
そんなこんなでゴリラに2年間も治は育てられ、その結果、身体能力が一般の人よりも遥かに上昇し、危険察知能力や、第六感など様々な能力を身に付けることが出来た。だが、忠告しておかなければならない、治と同じようにジャングルでゴリラに育てられたからと言って治と同じように身体能力や様々な能力が身につけられるとは限らない。これは8mゴリラの子供にくりそつで適応力も上手い具合あった治だったからこそ開花した能力なのかもしれないのだから。良い子の皆さんは真似しないでね。
そして治は、両親と共に日本へと帰ってきた。
治はゴリラに育てられた子供として一躍人気になった。
CMにも引張りダコで、一時超人気子役にもなったが、治はあっさりと業界を引退した。
「なあ、何で芸能界を引退したの? 人気絶頂の時に……」
僕は疑問を抱き、治に聞いた。
治は切なそうな表情を一瞬だけ見せた後、言った。
「やっぱり普通の人生を送ってみたいと思ったんだよね。今までが今までだしさ」
「でも治は『特別』に憧れているんだろう?」
「それとこれとは別、別に芸能界にいてちやほやされているからって特別とは限らないしね。俺は普通の生活を送りながら特別な何かを感じたいんだよ」
「ふーん。よく分かんないけど。まあいいや」
「そう言うお前はどうなんだよ。盾 強固」
「僕は特別なんて特に意識しないね。特別を意識して自分を目に見えない壁っていうかオーラで無意識に覆っちゃうのが嫌なんだよね。それに人間ってそもそも特別な存在じゃない?」
「何か、哲学的な話だね。まあいいや」
僕達はそうしてだべりながら歩いていると。
「あっ!」
治が目を見開いて大きな声を上げた。
「どうした?」
「おい、あれ!」
治が目で示した方向へと顔を向けるとそこには桜に周りを囲まれた大きな学校があった。
「あれが音丘学園か!」
僕の青春の一ページ目ががゆっくりとめくれた気がした。
校門を抜け満開の桜並木の坂を登る。
「でかい学校だなあ」
治が感嘆の声を上げた。
学校の建物入り口の所にどのクラスになるのかが紙で張り出されていた。
「お前と同じクラスだったらいいな」
「そうだな」
僕と治は自分の名前を探した。
「「あった」」
僕は治と同時に叫んだ。
僕達は1年2組で同じクラスだった。
クラスごとに白い看板が立てられており、僕達はその看板の前まで行った。
入学式が始まるまでは、まだしばらくあったので僕達は他に知り合いがいないか探した。
ちょうど、僕が振り返った時。
ドン!
「キャッ!」
まだ10歳前後と思われる少女とぶつかり、少女は地面に倒れこんでしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
「は、はい。だ、大丈夫です」
少女はあたふたとしながら答えた。
「君、こんな所で何をしているんだい? ここは高校生が来る所だよ?」
「ううう……。私、今日から高校生です」
治の問いかけに少女は頬をぷくっと膨らませながら言った。
どう見ても10歳ぐらいにしか見えないのだが、着ている制服を見ると、どうやら本当に高校生らしい。
それにしても銀色のロングで目は黄色くて、筋肉などはあまりついてなく、スポーツなどはやっているようには見えない。表情もどこかあどけない。ランドセルを背負っていたら10人聞いたら10人とも彼女が小学生だと間違えるだろう。
「1年2組はここでいいのでしょうか??」
「うん。そうだよ。そこに看板があるだろう?」
治が言った。
「あ、本当です。ありがとうございます」
彼女はホッとした表情でそう言うと、ポケットから何かを取り出した。そして彼女はそれを自分の口へと近づけると、小さな口を大きく開けて、ぱくりと一口食べた。
黄金色の断面図が中から姿を現した。
「や、焼き芋?」
僕はびっくりして彼女に聞いた。
「は、はい。私、焼き芋大好きなんです!」
彼女の目は爛々と輝いている。
「で、でも何で今焼き芋?」
「え、えっと。私今日、入学式だというのに寝坊しちゃって……。それで朝食を食べる暇がなくて。それで昨日の夜に作っていた焼き芋をポケットに忍ばせて持って来ちゃったんです」
「でも、だからと言って持って来てまで食べなくても……」
「私、朝、昼、晩きちんと食事を取るのが習慣なんです。ずっとそれでやってきたので何か一回でもそれを破るとなんだか不安な気持ちになりそうで……」
「へえー。習慣づけているんだ。偉いね。もうどれぐらいの期間続けているの??」
「……っかです」
「え? 聞こえないよ。もう一回言って」
「3日です……」
「み、三日??」
「は、はい」
「全然習慣づいてないじゃん!」
「すいません」
ずいぶんと天然な子だなあ。
しばらくすると、僕達のクラスを受け持つ担任とおぼしき男が1年2組と書いてある看板の前に来た。
「俺が1年2組をこれから1年担当する教師だ。よろしく。1年2組の生徒は皆集まったか? もうすぐ入学式が始まるから俺が呼ぶ順番に並べよ」
先生は言うと、生徒の名前を順々に呼びだ。
するとぞくぞくと生徒が列になって並び始めた。
僕と治も呼ばれたので前の生徒の後ろに並んだ。
しばらくすると、1組の担任が生徒を誘導し移動をし始めた。続いて2組の僕達の担任が僕達を誘導した。その後も3組、4組、5組と順に続いて行った。
入学式は体育館で行われた。
体育館には2年生と3年生がすでに着席をして待機していて、僕達が入場すると先生や生徒、親が拍手をして僕達を出迎えてくれた。
入場して席に座ると、国歌斉唱や新入生の名前読み上げ、校長先生による式辞が行われた。
「なあ、意外と普通の学校だな」
PTAの挨拶の時、隣の席に座った治が僕の耳元にささやくような小さな声で呟いた。
「そりゃあ、そうだよ。入学式に何を求めているんだよ」
「いや別に、何を求めているっていうわけじゃないけど、高校生にもなったしさ、何かががらりと変わるんじゃないかと思っただけだよ」
「そんなわけないだろ。入学式はどこに行ったってそれほど大差はないんじゃないかな?」
「ふうん。そんなもんかね」
そして校歌斉唱が始まった。
ヘビメタ系の音楽だった。
式が終わると、僕達新入生は自分のこれから1年過ごすクラスへと向かった。親とは別々に帰ることになっていたので、もう僕の親は帰っている途中かもしれない。
教室の掲示板に自分の座る席が記されていたので、そこを確認する。僕の後ろの席が治だった。
席に座り待機していると先生がやってきた。そして先生がこれからの予定を僕達に配り、その日は午前中で家に帰ることになった。
「これからどんな高校生活の青春の一ページが待っているんだろうな」
下校中、治が鞄を肩にかけ、両腕を頭の後ろに組みながら言った。
「まあ、そんなに高校生活に期待しないほうがいいんじゃない?」
「馬鹿、最初っから下を向いて歩いていてどうするよ、もっとこれからの生活に期待して虹を発見する為に真直ぐ前を向いて歩いて行こうぜ」
「それもそうだな。足元にも注意しながら前を向いて歩いていくか」
僕達はそんな会話をしながらその日、家へと帰って行った。
ピンポーン!
インターホンの映像に治が映った。
「来るの早いよ!」
「すまん、予定より早く家に来てしまった」
しょうがないな。
僕は治を家へと上げた。
「あら、治ちゃんいらっしゃい、すぐに強固の準備できるみたいだからお茶かコーヒーでも飲んでちょっと待っててね」
母親が治をリビングへと連れて行く。
僕は急いで、制服に着替える。
今日からさっそく授業が始まる。
教科書やノートを確認し、僕は鞄のボタンを閉めた。
「おい、準備出来たぞ」
僕がリビングに行くと、治はリビングのソファーで足を組み、コーヒーを片手に持ちながら今日の長官を広げ文字を追っていた。
「うむ、そうか。ご苦労」
「何、人ん家のリビングで王様みたいにくつろいでんの??」
「そうか、ここは強固の家だったか……。あまりにも落ち着く空間なんですっかり自分の家だと勘違いしてしまったよ」
「ふふふ。強固、いいことじゃないですか。まるで自分の家のようにくつろげる空間だなんて」
「まあ、そうだな。治とは親友で家族みたいなものだからな。変に気を使われて、こっちが神経を使うよりはいいかもしれないな」
「そうだろ、そうだろ。じゃあ、マダムコーヒーおかわり」
「お前は、くつろぎすぎだ!」
そんな漫才みたいなやりとりをした後、僕と治は家を出て、学校へと向かった。
僕達が通う音丘学園は生徒数が2000名を超えるマンモス校だ。
学校までは僕の家から、バスで駅まで行き、40分電車に乗って駅を降り、さらにそこから徒歩15分ほどの場所にある。
電車に乗っている最中、僕と治はこれからの学校生活について会話をした。
「なあ、お前は学校生活どうする予定だ?」
「どうする予定もくそもないだろう。ただ真面目に学校に通って勉強をするだけだよ」
「かぁーっ。お前は本当に淡白な奴だなあ。もっとあるだろう? 高校生になって彼女を作りたいとか、何か部活に入りたいとかさ」
「あー、そういうことか。でも今の所はまだ未定だな。まあ部活は何かいいのがあれば入るかもしれないけれど……」
「お前はもっと欲を出した方がいいと思うよ。たぶんこんな自由に色々と若さに任せて出来る時は今ぐらいじゃないの? 年をとったら守りに入って行動力は落ちたり、仕事を始めたら社会に飲み込まれて、自由気ままに出来なくなると思うんだよな。俺達今が一番輝いている時だとは思わないか? 老婆心からお前に忠告しておくよ」
「お前はどこのお爺ちゃんだよ!」
まあいいや。こいつの突拍子のない言動はいつものことだ……。それにしても、彼女、部活……かーー。
僕は電車の薄汚れた窓に映る自分の顔と、流れていく田園風景を頬杖をつきながらぼんやりとした表情で眺めていた。
初めての授業はやはり全てが新鮮で、特別な雰囲気に感じられた。
生徒達も皆、どこか初々しく生徒間達にある微妙な距離感が奇妙な異空間のような雰囲気を醸し出していた。
「いいねいいね。この雰囲気、全てが新鮮に映るね!」
休み時間、治が言った。
やっぱり人間っていうのは皆、似たようなことを考えるのだろう。ゴリラに育てられた治でさえ僕と同じようなことを考えていたのだから。
先生も、流石に年配の先生は慣れたものだが、新米と思われる教師はやはり僕達と同じように初々しく緊張気味の面持ちに感じられた。
午前の授業が終わり、初めての昼食の時間だ。教室内では一人で飯を食べている人がほとんどである。数人で一緒に食べているグループはにこやかな表情でワイワイガヤガヤとやっている。たぶん同じ中学の出身や知り合いなのだろう。
「なあ、所で朝の話の続きだけどさ、お前クラブ活動とかどうする? 何か入りたい部活とか少しは思い付いた?」
「いや、授業中ちらっと考えてはみたんだけどな、まだ思いつかないや。やっぱり生で部活動を見てみないとな」
「生で? おお、なるほど。部活見学か。いいねいいね!」
治が身を乗り出し、目を輝かせながら言った。
「気になった部活を一回見てみて、出来るならちょっとでも体験入部してみてから入るかどうか決めようかなと思っている。まあ、結局帰宅部になる可能性も否定は出来ないが」
「またお前は、帰宅部なんてことを言って、まあお前が少しでも高校生活に対して意欲的になったような気はするから助言をした俺としたら嬉しいが」
「たしかに治の言うことも一理あるかもしれないと思ってな」
「一理どころか100理あるよ!」
「またお前は調子に乗って……」
そうして僕達は昼休みに話した結果、クラブ活動を見学することに決めた。
「そういえば、入学した時さ、教科書と一緒に学校案内のパンフレットとは別に部活動のパンフレットを貰ったよな」
「ああ、そういえば。その時は部活動にほとんど関心なかったから中身はパラパラとめくったぐらいだったけど。そうかそれを見ればいいのか」
「今持ってる?」
「ああ、たしか鞄のチャックの中にしまっていたはずだ」
「それを見ながら見学しようか」
「そうだな。お前のは?」
「俺のは家に置いてある」
「そうか、じゃあ、僕のパンフレットを見ながら行くか」
僕はパンフレットを机の上に出した。
「改めて見てみるとずいぶんと分厚い冊子だなあ」
僕が言うと、治はたしかにと相槌を打った。
「俺もまだ中身は全部見たわけではないけど、かなり部活動の種類は豊富だったぜ」
「そうか」
僕はさっそく冊子の一ページ目をめくった。
一ページ目は吹奏楽部だった。
説明に部員数と部活動の実績や合宿遠征などが事細かに記されており、部員と顧問の先生の集合写真が映っていた。
「はえー。200人ってすごい部員数だな」
僕は思わず感嘆の声を上げた。
中学の時は折り紙部に入っていた僕はその数字だけを見てもどんな練習風景なのか想像すら出来なかった。ちなみに僕が中学時代に入っていた折り紙部は部員数3人の少数精鋭部隊だった。とはいっても、折り紙大会で地方予選敗退だったが。
「うおー。全国大会で毎年賞を獲得しているのか。去年は銀賞だったらしい。うわー、夏合宿はアメリカに2週間も行くのか。まさしくエリート部活っていう感じだな。どうする? 一回見てみるか?」
「いやー。吹奏楽はやめておくよ。楽器も全然引けない初心者だし、全国優勝を狙う部活に入っても足でまどいになるだけだし。練習も朝から晩まで寝る暇も惜しんで練習してきつそうだし。俺はもっとまったりゆったり出来て、でもほどほどに刺激もあって脳内からアルファー波が出るような部活に入りたいんだよ」
「そんな部活ねえよ!」
治に突っ込まれた。まさか治に突っ込まれる日が来るとは……。
でもまあ、冗談は抜きにして吹奏楽部はたぶん全国から推薦でより集めた実力者ばかりのような気がするので、やめておく。中学の時、どこかの風の噂で聞いたことがあるからだ。なんたって学校名に音が入るぐらいだからな。音楽には特に力を入れているんだろう。
僕は黙って次のページをめくった。
次のページの部活は和太鼓部だった。和太鼓を叩いている躍動感のある男女の写真が掲載されていて、僕は少し興味が湧いた。
「すごいな。和太鼓部なんてものまであるんだ」
「どうする? 見に行くか?」
治が言った。
「そうだな。後で見学してみるか」
その後も僕は冊子をパラパラと流し読みするようにめくっていった。
野球、バスケ、テニス、卓球、サッカー、ハンドボール、ソフトボール、水泳部、水球、セパタクロー、弓道、アーチェリー、陸上、ラクロス、カバディー、バレー、剣道、柔道、柔術、合気道、書道、華道、折り紙、合唱、美術、文芸、落語、ボクシング、空手、レスリング、フェンシング、サイエンス、アマチュア無線、アニメ、ボウリング、アウトドア、料理、クイズ研究、漫画、アロマテラピー、カヌー、盆栽、茶道、ルービックキューブ、登山、少林寺拳法、ムエタイ、スキー、相撲、囲碁、将棋、ゴルフ、ゲーム、忍者、ヨット、手品、作詞作曲、暗号、お笑い、演劇、写真、映画研究、競輪、博打予想、ライフル、カルタ、フットサル、モデル、ボランティア、探偵、助っ人、ドミノ、野草部、太極拳、馬術、お菓子、新種生物発見部、などがあった。
「パラパラめくっただけでもすごい数の部活があるな」
治は、はあとため息を吐き出すばかりだ。
「本当だな。これだけの部活の中から自分が入る部活を選ぶのは至難の技だな」
「ああ。これは体験入部するだけで1年経っちゃうよ」
「やっぱり始めは見学するだけにするか」
「そうだな。そうしよう」
放課後になり、僕達は部活動を見学することにした。
「どういう順番で周るか?」
「どこにどの部活があるか分からないから、建物の端から端まで順に巡っていこう」
「そうだな」
僕達は一度、外に出ると建物の右から左の順に見学することにした。
やはり先ほどはパラパラしか冊子を見ていなかったので、全然見たことも聞いたこともないような部活があり、僕達はその日、僅か10の部活しか見学することが出来なかった。
「思ったより、部活を見学することが出来なかったな」
「ああ」
「どうする? やっぱり中学の時と同じ部活にするか? お前は折り紙部で、俺は空手部に」
「折り紙作るの嫌いではないけど、やっぱ新しいことにチャレンジしてみたいよな。お前は空手部の方がいいんじゃないか? 個人で全国優勝の経験もあるし……」
「俺もお前と一緒だよ。高校になったら新しいことをしようと思っていたんだよ。だから生徒数が多くて、部活も色々あるこの学校を選んだ。まあ案内で見たパンフレットより更に部活が多くて、衝撃を受けたけどな。それになんと言ってもお前がこの学校に行くって言っていたから、それが決定的な決め手になったよ」
「それはどうも」
「俺ってさゴリラに育てられてさ、やっぱりどこか皆距離を置いているって感じてたんだよな。給食でバナナが出た時とかさ、クラスの皆が俺に「バナナあげるよ」とか「私はいいから治君がバナナ食べなよ」とかいっつも言われてたしさ。まあたしかに俺はバナナ好きだよ? 給食に出されたバナナ一本ぐらいじゃ満足出来なくていいなあ、皆のバナナ欲しいなあなんて思いながら、皆の給食のバナナを見つめていたけどさ」
「脅してんじゃん!」
「いや脅してないよ。本当にただ単にバナナが食べたかっただけだよ」
「でもお前は自分が思っているより眼光は鋭いし、空手でも全国トップだったし、幼少期の育ての親がゴリラだったし、お前に見つめられたら正直お前のことをよく知らない奴はびびると思うよ?」
「そうかなあ。でもお前は大丈夫じゃん」
「俺はお前と小学生の時からずっと一緒だったしな。お前に不審者から助けてもらったしな。それからだなお前に対して恐怖を感じなくなったのは」
「ああ、あの時か、ってそれまでは俺に恐怖を感じてたのかよ」
「いや正確に言うと恐怖じゃないとは思うんだけど、なんていうか俺もゴリラに育てられた人とどう接していいのか分からなかったからさ、お前の心の底の部分の性格みたいなのが分からなくてさ。お前自身じゃなくて、どう接したらいいかに対する恐怖というか戸惑いの感情を感じていたんだよ」
「なるほどな」
「でもお前が、僕の目の前に現れた通り魔兼、露出狂の不審者を追い払った時からかな、お前に対する安心感や信頼感を感じるようになったのは」
「そうか」
今でもあの時の恐怖を覚えている。
小学2年生の学校の帰り道のことだ。途中までは上学年の生徒達と帰っていたのだが、上学年の人達と別れ、そこからは家まで一人、暗い道を帰ることになっていた。親は仕事でいないし、迎えに来ることは出来なかった。道は田舎道で視界は悪く、車の通りも数少ない。時間帯は午後5時ぐらいだっただろうか。僕は自分の家までそんなに遠くないことに安心して、田舎道で蟻んことかを探していたと思う。
その時だった。僕の目の前の景色が濃くなったのだ。なんだろうと思っていたら、後ろに何か気配を感じたんだ。目の前の景色が濃くなったのは僕の後ろにいた誰かの影のせいだとその時、気づいたんだ。
「おじさん……誰??」
「私? わたすはへんちくりんなおじさんです」
そのおじさんは自分のことをへんちくりんと呼んだ、本当にへんちくりんあおじさんだった。
顔にはマジックで目とか髭とかそばかすとか、色々書いていて、口元には子供用のマスクをしていて、そこから口がはみだしていたんだ。その口には赤い赤い、口紅が塗られていてそれは頬の辺りまで線が引かれていた。
「ねえ、坊や??」
「なあにへんちくりんなおじさん」
「わたす……綺麗??」
おじさんはそう言うと、、子供用のマスクを取った。そしてポケットからキラリと光る何かを取り出したんだ。
「え? な、何それ……?? まさかナイフ??」
「そうだじょー、そうなんだじょー」
いきなり口調を変えたおじさんはナイフを自分の口の端に差し込むと両端をナイフで切り裂いたんだ。
口の両端からぽたぽたと流れ落ちる大量の血を見て、小学生の僕はどうすることも出来ずただただその場に震えているだけしか出来なかったんだ。そしてへんちくりんなおじさんは自分の羽織っていたコートを広げたんだ。コートの下には洋服や下着は付けていなくてすっぽんぽんだったんだ。
そこで初めて僕は思ったんだ。このおじさんやばい、尋常じゃない。イッチャッてる。ファッキンクレイジー野郎だってね。で、僕はついそれを口に出してしまったんだよ。
「あ、そ、そういえば僕用事があったんだ。じゃあ僕用事があるから帰るね。さようならファッキンクレイジーおじさん……あっ」
「な、ななななななななんだと、今なんって言った?? ファッキンクレイジーおじさんと言ったか?」
「言ってないよ。ダスキンクリーンおじさんって言ったんだよ。おじさんダスキンで働いているような清潔感のあるおじさんだと思ってさ」
「嘘をつくな。健康診断の聴力検査で48年間一度たりとも引っかかったことのないこの私の耳が聞き間違えたとでもいうのか? お前は私の一番嫌いなファッキンクレイジーおじさんという言葉を口にしてしまったんだよ。もう君はただでは帰さないよ」
「そ、そんな……」
おじさんはナイフの先端を僕の方に向けたんだ。
もうだめだ。僕は頭の中が真っ白になったんだ。神に祈る余裕すらなかったよ。
「ちょっと、待ったーー!」
その時だったよ。治が夕日を背にまるでテレビドラマに出てくるヒーローのように石垣の上から姿を現したのは。
治は石垣から大きくジャンプをし空中で一回転をして地面に着地したんだ。
そして治の方に向き直ったおじさんの股間目がけて思いっきり右足を振り上げたんだ。
股間を強打して悶絶するおじさん。治はそのおじさんに持ってきた縄で、亀甲縛りをしたんだよね。当時はその縛り方の名前を知らなかったけどね。そしてそのまま110番してファッキンクレイジーおじさんは逮捕されたんだよね。
僕は覚えていたことを治に全て話した。
「ああ、たしかにそんなことがあったなあ。それからか。お前が俺のことを信頼するようになったのは……」
「いや、今の話は僕が小さい頃見た夢の話だよ! 実際の話じゃないよ。なんで実際あった事件みたいな言い方をするの?」
「え? 実際の話しじゃないのか?」
「違うよ! どれだけ人の話しに影響されやすいんだよ」
「ははは。お前は普段冗談なんてあまり言わないし、お前のことを俺も信頼しているから本当のことだと思ったよ」
僕はそれを聞いて少し照れてしまった。
「それにしてもお前が俺のことを信頼するようになったのは夢の中の出来事がきっかけってことか? まあ現実で大して好きじゃなかった人が夢の中で良い人だったりすると現実のその人に対する気持ちが好きに変わったりすることあるしな。まあ結果オーライっていうことか」
治はハハハと笑いながら言った。
そうして部活見学初日を終えた僕等は談笑しながら家へと帰って行った。
そうしてその後僕達は、約10日間部活見学に精を出した。
「これが最後の部活かな……」
僕は学校の一番左端の建物の最上階まで見た後、呟いた。
「ああ、そうだな。ずいぶんと見学だけで時間がかかってしまったな。結局の所体験入部は一つもする時間がなかったが……」
「うんそうだね。後はどの部活にするか決めるだけかー」
僕は視線を宙に向け、思考に耽った。
「お前は何かいい部活見つかったか?」
「うーん。いいと思った部活はいくつかあるよ。新種生物発見部とか、カバディー部とかさ。何か今までに体験したことがない経験が出来そうでさ」
「そうか」
「治は? 何かピンと来た部活あった?」
「ピンととまではいかないけど、やっぱり体を動かすスポーツ系は性分なのか見ていて楽しかったな」
「そうか。じゃあ、後は家に帰ってじっくりと考えるだけだ……」
「おう。じゃあ家に帰るとするか」
僕達は4階の建物から階段を使い一階の出口に向かうことにした。
階段の所まで着くと、僕の視界にトイレが入り、急になんだか催してきた。
「あ、ちょっとトイレ行って来る。先に出口に行っていていいよ。すぐに行くから」
僕は治に言った。
「いいよ別に。ここで待ってるから」
治は階段の角の所に背中を預けた。
「そうか。じゃあすぐに戻るから」
僕はトイレへと駆け込んだ。
トイレに入った瞬間異様な雰囲気を感じた。
トイレ独特のアンモニアの臭いとは別に、なにか夜の森を一人歩いている時に感じる気配や恐怖のようなものを感じたのだ。
突如、トイレの入り口の上部が音を立てた。
「え? 何これ……。シャッター? トイレにシャッターが付いているの? っていうか何でシャッターが下りてきているんだろう。故障かな。早くここから出よう」
すると僕の横から顔がにゅっと現れた。
「うわぁーー!!」
僕は驚いてトイレの床にすっ転んでしまい、腰を強打してしまった。
「いててててっ!」
僕が痛みに気をとられていると、シャッターが地面まで下り、入り口は完全に封鎖された。
すると先ほど僕の横から顔を出した男が僕の目の前に完全に姿を現した。
しかし、トイレの電気は点いていなく、外から入ってくる光のみなので、その表情は翳っていてうっすらとしかうかがい知ることは出来ないが、性別は男だというのは雰囲気で分かった。
身長は小学生低学年とも思えるぐらいの身長だった。小学生がこの学校に無断侵入したのだろうか? しかし、ぼんやりとだが、見える顔はとても小学生の者とは思えないような、年季の入った顔に感じられた。つまりの所、おじさんのような老けた顔に感じられたのだ。それはまるで映画などに出てくる世界征服をたくらむ悪い科学者のような雰囲気を感じさせた。この得たいのしれなさはどこかで感じたことがある。僕は思考を巡らせた。すぐにそれに思い当たった。ああ、そうだこの得たいのしれない恐怖は昔夢で見たあの、へんちくりんおじさんと同じなんだ。
僕は過去のトラウマが再び甦って来て、足がガクガクと振るえ恐怖から身動きが取れなくなった。
その時、その男はポケットから何かを取り出した。
あ、あああっ。一緒だあの時と、夢でへんちくりんおじさんに脅された時と一緒だ……。あの時は、治が助けてくれたんだよなあ。あっ、そうだ。治だ。治がいるじゃないか。僕は力の限り声を張り上げて言った。
「治ー、治ー。助けてくれーー」
目の前にいる男が取り出した何かのこちらへと向け、何かの動作をしようとした。ナイフか? いや、それとも拳銃か??
僕は目をつぶり、歯を食いしばった。
その瞬間。
ドボゲボベコボコドンガラガッシャーン! という大きな音と共にシャッターが勢い良く吹っ飛びトイレの壁に激突した。治が助けに来てくれたのだ。
と、同時にパーン、パーン!! という甲高い音がトイレの中に響き渡った。
やられた! 撃たれた!
まるで時間が止まったかのような感覚。もうこれで僕の人生は終わりなのか。
音が鳴り止むと、シーンと、まるで教会かどこかにでもいるかのような静寂がトイレの中を支配した。
「い、生きている?」
僕は訳が分からずに辺りをキョロキョロと見回した。
その時、目の前にいる男が僕達に向かって言った。
「音部へようこそ!!」
男はポケットからクラッカーを取り出すと、僕達に向けて勢い良く糸を引張り甲高い音を鳴らした。。
「音部? 音部って……?」
現状が理解できず放心状態の僕は呟くような口調で言った。
すると僕の悪い科学者みたいな男は不思議そうな顔をした。
「えっ? 君、ここが音部の部室だと知った上で来たんじゃないの?」
「し、知らないよ。ここが部室だなんて。僕はただ、トイレに行きたかっただけなんだよ」
「そうか、やっぱりな。ふふふ、うふふ。そりゃあそうだよな。ここトイレだもんな。はははは」
男は下を向きまるで壊れた人形のように笑った。
「おいおい、一体どうなっているんだ? お前はこいつに襲われたんじゃないのか?」
治が言った。
「うん、僕も初めはそう思って無我夢中で治の名前を叫んでいたけれど、なんか違ったみたい」
「そうか。それならよかったよ。それにしてもすごいアンモニア臭だな……」
治は右手の親指と人差し指で鼻をつまみながら言った。
「じゃあ、帰るぞ」
治が僕に言った。
「うん。あっ、でもシャッター壊しちゃったけど大丈夫?」
僕は悪い科学者みたいな男に言った。
「良くないよ。ちっとも良くないよ。このシャッターは年に一度の部費を元に僕が作ったシャッターなんだよ。それを君達は壊してしまったんだよ」
「え、ええっ? このシャッター部費で買った物だったの? っていうか君が作ったの? すごいね」
「そうだろ。すごいだろ。僕はすごいんだぞう。でも君達がシャッターを壊してしまったから、また来年の部費が出るまで待たないといけないけれど……」
「そ、それはごめんよ。でも君もいけないと思うんだよね。僕がトイレに入った瞬間いきなりシャッターを閉めるなんて……」
「トイレじゃないよ。部室の扉だよ。僕はただ君達を監禁、いや歓迎したかっただけなんだよ。おもてなしの、いやオモテナシの心でやっただけなんだよ」
「監禁って言った、君監禁って今言ったよ。しかもなぜおもてなしが片言なんだよ」
「言ってないよ監禁なんて。まあそんな些細なことはどうでもいいじゃないか。重要なのは君達が部室のシャッターを壊したという一点のみなんだよ。どう責任を取ってくれるんだよ」
「どうって言われても。僕達に責任はないと思うし」
「おいおい。いつまでこんな茶番に付き合っているつもりなんだよ。もういい加減帰ろうぜ」
治が言った。
「そうだね。もう帰るか。それにしても部員は君以外に何人いるの?」
僕が聞くと、男はあからさまに動揺し、口笛を吹く物真似をしてその話題をそらそうとした。
「ねえ、もしかして君以外に部員はいないんじゃないの?」
「ギクッ!」
「ほら。自分でギクッ! とか言っているし。なんだよ。部員君だけか。じゃあ、シャッターのことなんてまったく気にしなくていいよね。たしか部員は5人いないと部として成立しないって先生が言っていたからね」
「うるさいうるさいうるさいうるさい」
「じゃあ、何でここは部として成り立っているんだ?」
治が言う。
「たぶん始めは5人以上いたんだと思うよ。それで皆どんどんと止めていってしまったんだと思う」
僕が言うと、男はトイレのタイルの上にがっくりと膝をついた。
「そうだよ。この部は去年作られたばかりの部で、元は5人いたんだよ。でも今年になって皆いなくなってしまった。悲しいよ。僕は……」
男は嘆くように言った。
「なんで皆いなくなってしまったの?」
「皆、卒業したからだよ」
「そうか、じゃあ、去年君以外皆三年生だったんだね。君は今2年生? それとも3年生?」
「僕? 僕は3年生だ。去年も、今年もね?」
「去年も今年も? という事は君留年?」
「先輩に向かって君はないだろう。だがそうだ。僕は留年したんだよ」
「へえっ。そうなんだ。この学校進学高だからね。僕も勉強頑張ろう」
「君、何か勘違いしているようだね」
「え? 何が?」
「別に僕は勉強が出来なくて留年したわけではないんだよ」
「そうなの?」
「うむ。僕は本当は勉強をやろうと思えば学年一位をとれるんだ」
「本当? じゃあ何で留年なんてしたの? ま、まさか……」
「そう、そのまさかだよ。僕が留年した理由、それは僕がまだ音部にいたかったからなんだよ」
「嘘だろ!」
治が驚いて声を上げた。
まさか部活をまだやる為に留年をしたとは、こんな人物が本当にいるとでもいうのだろうか。
「君名前は?」
僕は言った。
「山坂だ」
「山坂先輩か」
人生には色々な坂があるとだれかお偉いさんが言っていた。上り坂、下り坂、まさかだ。だけど、僕の頭の中の辞書が新たに更新された。上り坂、下り坂、まさか山坂だ。
僕は治と共にその場を後にした。
その日の夜、僕の頭の中には音部と山坂先輩が頭から離れなかった。
次の日の授業中も音部のことが気になり、僕は授業に集中することが出来なかった。
「おいおい。お前大丈夫かよ」
治は僕の異変に気づき、僕に優しい声音で話しかけてきた。
「ああ、大丈夫だ」
「悩みがあるなら俺に打ち明けろよ」
「ああ」
その日の放課後、僕は治と一緒に下校し、治と途中で別れると何を血迷ったのか、学校へと再び足を運んだ。
「何やってんだ? 僕は……」
頭では自分の行動がおかしいことが分かっているのに、体が頭とは逆の行動を起こす。
僕はまるで二人羽織をしているかのような奇妙な違和感を感じながら学校へと急いだ。
音部が気になって仕方がなかった。
留年してまで音部に所属している山坂先輩。一体音部の何が彼をそこまでさせるのだろうか。僕はどうしても音部の活動内容が見たくて仕方がなかったのだ。
学校に着くと、階段を二段飛ばしで駆け抜け、すぐに音部のあるトイレへと向かった。
僕はトイレ、もとい音部の部室へと駆け込むと、いの一番に山坂先輩の下へと向かった。
「せ、先輩!」
「ああ、君か。何か用?」
「部活見学に来ました」
僕は大声で山坂先輩に言った。
「部活見学? ま、まさか君、音部に興味を持ったのかい?」
山坂先輩は僕の言葉を聞くと途端に目を爛々と輝かせた。まるで親にクリスマスプレゼントを貰った瞬間のような純粋な目の輝きに、僕は驚いた。山坂先輩って気づかなかったけど、綺麗な目をしているんだなあ。昨日は腐った魚の目のようなドロドロした目に見えていたけれど、それはもしかして僕の見当違いだったのかもしれないな。音部の部員は今、山坂先輩以外には誰もいないし、昨日僕達が音部の部室に来た時の反応から見て、音部には誰も部活見学に来ていなかったのかもしれない。そうだよな。そんな状況だったら昨日の山坂先輩のようにふてくされて、死んだ魚のような目になってしまうのも仕方がないかもしれない。でも、本当の山坂先輩の心はこんなにも無邪気でまるで、少年のようで、心優しい人なのかもしれないな。僕の山坂先輩に対するイメージががらりと音を立てて変わっていくのを感じた。
「ようこそ、部活見学へ」
山坂先輩はそう言うと、トイレの用具入れから透明のグラスを取り出した。そのグラスの底一cmぐらいには茶色い液体が入ってあるのが見えた。そしてそのグラスにトイレの蛇口から水を注いだ。そして水をグラスの8分目ぐらいまで注ぐと、そのグラスを僕に向かって差し出した。
「どうぞ。つまらないものですが」
僕は山坂先輩から水の入ったグラスを受け取った。
なんだろう? 何かのジュースの元かな?
僕はトイレの水だったこともあり、少し嫌な気分を感じたが、嫌な気分を感じた自分を恥じた。
何を考えているんだ? 僕はクズか? せっかく山坂先輩が僕の為にジュースを用意してくれたっていうのに、僕は本当になんて男なんだ。
僕はそう思い、一気にグラスの中の飲み物を口へと運ぼうとした。しかし……。
「く、くっさーー!! おえっ。おええっっ!! ゲボゲボゲボー」
僕はその飲み物のあまりの臭さについ、えずいてしまった。
な、何だよこの飲み物は、臭すぎるだろう? いくらトイレの水だからってこの臭さはないだろう。この部室には強烈なアンモニア臭が漂っているがそれがまるで草原の爽やかな風に感じられるほどの、このグラスの臭さだ。僕の目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からはよだれが、ついでに僕は下からも少しもらしてしまい、ズボンがじっとりと濡れてしまっていた。おかしいよ。この飲み物は流石におかしいよ。
すると、山坂先輩は顔を少し下に向け、チッと小さく舌打ちをした。
ま、まさか。まさかだけどこの飲み物毒かなんかじゃないよね?
「山坂先輩。まさかこの飲み物毒かなんか入っていないですよね?」
「毒? 毒なんて入っている訳ないじゃないか。僕を見くびるなよ!」
「でも、何でこの飲み物こんなに臭いんですか?」
「ああ、この飲み物は健康に良いけど、臭いが臭いものを集めに集めて濃縮ジュースにしたものだからね。水で薄めないと臭いで口まで運ぶことすら出来ないから水で薄めるけど」
「何で、そんな飲み物を作ったんですか?」
「愚問を……。そんなのは決まっているじゃないか。この部室は臭くてストレスが溜まり、体に良くないから健康に良くて、この部室に負けない臭さの臭いのジュースを造ったまでさ。まあ、僕も飲んだことないけど」
「飲んだことないんかい!」
「それに君にこのジュースを飲ませてあまりの臭さでもし失神したら、その隙に君の親指を借りて入部届けに判を押させようとしただけだよ」
「最低だよ! あんた最低だよ!」
やっぱりさっき僕が思っていたことを訂正する。やっぱり山坂先輩は純粋で無邪気な少年じゃなくて、ただの悪役科学者だ。
「まあ、嘘だけどね」
山坂先輩が言った。
僕は山坂先輩を見ると、何か心の底でたくらんでいそうなあくどい表情にどこか見えた。
読めないし分からない。山坂先輩が心の底で何を考えているのか。
僕の心の中はまるで巨大迷路にでも迷い込んだかのように思考が混乱してしまった。
僕は混乱した頭を振り払うかのように頭を左右に大きく振った。
何回か頭を振っていると、だんだんと冷静になってきた。どうやら多少なりとも効果はあったようだ。
冷静になってくると、僕はなぜ自分がここに来たのかを思い出してきた。
そうだ。音部の活動内容が気になってしょうがなかったから僕はここへ来たんだった。あやうくこの臭気漂う部室と先輩に身も心も惑わされる所だった。ふうっ。
僕は先輩に聞いた。
「先輩、僕はこの先輩がいる音部の活動内容が知りたいんです。先輩と雑談する為に来たわけでも、ジュースを飲むために来たわけでも、入部しに来たわけでもありません」
「そっか。分かった。じゃあ、この部活動の活動内容を教えよう」
「ありがとうございます。先輩」
「先輩か。良い響きだね。でも、僕のことは先輩じゃなくて、山坂先輩、もしくは黄門先輩と呼んでおくれ」
「え? じゃあ先輩の名前は山坂黄門と言うのですか?」
「ああ」
「珍しい名前ですね」
「そうだろ。親が必死になって考えてくれたんだよ」
「そうですか。じゃあ、これからは肛門先輩って呼びますね」
僕は言いながらにたりと笑った。
「おい、お前。今、違うこうもんを想像して名前を呼んだだろ!」
「い、いえ。そんなことはしていません」
「いや、嘘だね。俺には分かるんだよ。今までの経験があるからね。俺の名前を別のこうもんを想像しながら呼ぶ奴は顔がどこか笑っていたり、馬鹿にしたような顔をしたりしながらその名を呼ぶんだからな。今謝れば許してやる。だが、お前が正直に白状しないなら、この部活の活動内容はお前に金輪際教えんからな」
「そ、そんなーー」
「どうする。正直に言うか? それとも言わないでこのまま手ぶらでここから帰るか?」
「すいませんでした。お尻の方の肛門を想像しながら、先輩の名前を呼んでいました」
「うむ。素直でよろしい。俺は素直な奴は嫌いじゃないよ」
「ありがとうございます」
やはりこの先輩は鋭いし、会話のペースを握るのが上手い。あなどれない先輩だ。夢で見たへんちくりんおじさんの怪しくて、恐ろしくて、謎の変質者兼露出狂のイメージと先輩の第一印象がどこか似通っていたのも頷ける。
僕は自分の心をキュッと引き締めながら先輩の言葉が発せられるのを待った。
「音部。それは世界に存在するあらゆる音を組み合わせ、芸術的にして、音の可能性を追求する部活動だ」
黄門先輩は静かな声でゆっくりと話し始めた。
「あらゆる音を組み合わせ、芸術的にする?……」
「ああそうだ。音は何を使ってもいいんだ。例えばそこら辺に落ちているちぢれ毛を切った時のブチっという音とか、排泄音とかげっぷとかおならとか何でもね」
「そ、そうなんですか。でも例えがとても汚いですね」
「汚いだと? 汚いと思うのは人間の傲慢さの表れではないかね。例えば木から落ちた葉っぱが汚いか?」
「い、いえ」
「うむ。じゃあ、蒸気機関車が走る時に出る音は?」
「格好いいと思います」
「だろう? それとまったく変わらんのだよ。木から落ちた葉っぱが汚くなくて、なぜ人間から落ちたちぢれ毛が汚いと言うんだ? なぜ蒸気機関車が走る時に自然と出る音が格好よくて、人間から自然と出るげっぷやおならは汚いと言うんだ?」
「そ、そうですね」
熱のこもった声で音について語る黄門先輩の勢いに押され、僕はいつの間にか頷いていた。
「でもちぢれ毛は葉っぱのように色とりどりではないですし、げっぷやおならも臭いですし」
「じゃあ、ちぢれ毛の色が色とりどりになったりげっぷやおならの臭いが爽やかになったら君は綺麗やすごいと純粋に思うようになるか?」
「あー、それでもどこか抵抗があって純粋には思わないかもしれないですね」
「そうだろう。それこそ、人間に植えつけられた固定観念だ。現象は同じなのに人間の発するものは汚いと思う。それはつまり音として見ると純粋に音を評価していないで、差別しているということになるんだよ」
「な、なるほど」
「音部の活動にはそんな差別は一切合切存在しない。ただ純粋に音だけを求め、研究し、組み合わせ芸術の高みまで引き上げる。こんな素晴らしい部活は他に存在するとでも言うのかね」
「まあ、他の部活には他の部活の良さがあると思いますので。例えばスポーツでは健康で丈夫な体を鍛えられたり、個人や集団で生きていく上での団結力やチームワークなども向上するし、ライバルと競い合い、上を目指すことで例えば自分の中にくすぶっていたフラストレーションなども発散させて自分をいい方向のエネルギーに持って行くことも出来ると思いますし」
「ぐ、ぐぬぬっ」
「それに文芸部とか漫画部とかでも自分で作品を作り、それを人に見せて、仮に喜んでもらえたとしたらそれで人の喜びにも貢献出来るだろうし。まあその逆もあるだろうけれど。新種発見部だって、新種の発見に貢献出来るし、例えば犯罪とかをする部活じゃなければ、どんな部活だって自分の糧になると思うんですよね」
「な、なるほど。だが、仮に暗殺部があったとしたらどうする? 暗殺でも人に見つからないように隠れて行動するスキルはアップするぞ。それに拷問部があったら、色々な拷問を考える為に創造力が向上すると思うぞ」
「すごい例えですね。流石肛門先輩です」
「そうだろう。流石俺だろう」
ほっ。どうやら肛門先輩って呼んだのは今回はばれなかったみたいだ。黄門先輩は鋭いようでけっこう抜けている部分があるのかもしれないな。
「でも、実際に暗殺したり、拷問したりしたら捕まってしまいますし、社会のルールから逸脱してしまい、社会で生きていく為に何の役にも立ちませんよ。人間の存在としても成長するどころか退化して腐っていくんじゃないでしょうか」
「ほう。続けろ」
「部活動の目的が今よりも良い方向に自分を持っていく濾過の意味があるとしたら、良い部活は自分を綺麗な水にするし、悪い部活は自分を濁った水にすると思うのです」
「ふむふむ」
黄門先輩は何やら意味ありげな思案顔で考え込んでいる。
「水が綺麗だと、魚は住めますが、水が汚染されていると魚は住めません。暗殺部や拷問部は仮にあったとしたら自分の心の水を汚染させる部だと思うのですよ」
「ほうほう」
黄門先輩はフクロウのように相槌を打っている。
「あ、以上です」
「そうか。なるほどな。だが、心が綺麗なだけでは世の中生きて行けないんじゃないか? 世の中には心の腐った奴が五万といるぞ。いや五万だけじゃないぞ。70億人もいるぞ」
「全人類の心が腐っちゃった!」
「ナイス突っ込み! でも事実として世の中に腐った奴はいるんだからな」
「そうですね。腐った奴は世の中に腐るほどいますね。綺麗な水の所に汚染水をわざとぶちまけるような奴が。だから、用心深く注意して自分を守って、自分の心に汚い水が入るのを防ぎ、常に水を綺麗に保ってるようにする努力を怠らないようにしなくちゃならないんですよ。それだけだとずっといたちごっこのままだから、自分の身を守りつつ、自分の水だけじゃなくて相手の水も少しでも綺麗に出来るようにするべきなんですよ」
僕がいつの間にか先ほどの黄門先輩のように熱弁を振るっていると、黄門先輩が僕のことをじっと見た。
「ど、どうしたんですか? 黄門先輩」
「お前、良いよ。ナイスだよ。俺はお前みたいな奴を待っていたんだよ」
「えっ? えっ?」
黄門先輩に急に褒められ、戸惑っている僕の両手を黄門先輩は力強く掴むと言った。
「お前は間違いなく音部のヒーローになる! 俺の目に狂いはない。お前音部に入れ! 異論は認めない!」
「ええっ! そんな!!」
まだ音部の活動内容を聞いただけで、心の整理も何一つついていない状況なのに。だけどそんなことは黄門先輩には何一つ関係なかったようだ。
ガシャン!!
何の音だろう? 僕は音がした自分の手の辺りに視線を向けた。
手錠がかけられていた。僕はわけが分からないまま、顔を上げると黄門先輩の意図を探るべく黄門先輩の見た。
先輩はまるで猛毒で漆黒の花が満開に咲いているような笑みを浮かべ言った。
「音部入部おめでとう! これからよろしくな!」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
僕は頷いてしまった。逃げ出そうと思えば逃げ出せたのかもしれない。だけど、僕はそうしなかった。なぜだかは分からない、逃げられなかった場合のことを考えたのかもしれないし、逃げ切れたとしてもその後が怖かったのかもしれない。それとも、もしかしたら、もしかしたらだけど黄門先輩のあの黒々と輝いた猛毒の花のような笑みに心が魅せられてしまったのかもしれない。
まあ理由は完全には分からなかったが、結果的には僕はその場から逃げなかった。そして先輩が持ってきた入部届けにサインをして拇印を押した。
僕はその日から音部に入部することになった。
無事入部届けを済ませると僕は黄門先輩に聞いた。
「黄門先輩、まずは何を僕はすればいいのでしょうか?」
「そうだな……」
黄門先輩は思案顔で上を向き、トイレの、いや部室の蛍光灯を見るともなしに見ている。
その時、部室の外の廊下からコツコツと人の足音が響いてきた。
足音は僕達のいる音部の部室の前辺りで、止まった。
「あれ、誰かこの部室に来たのかな? もしかして僕みたいにまた入部希望者が来たのかな? まあ、僕は入部希望で来たわけではなかったけれども……」
言いながらも僕の胸はわくわくどきどきで、心の中がまるで冒険でもしているかのような高揚感を感じた。
すると、部室の前の廊下にいると思われる誰かが喋り出した。
「トントントン! トントントン! 誰かいらっしゃるのですか?? トントントン! トントントン! 誰かいらっしゃるのですか?」
よく響くアルトボイスの男性の声だったが、僕は一瞬にして違和感や嫌悪感を感じた。扉を叩くトントントンなんてノックするような擬音を口に出していたからだ。僕は一瞬でこの今、僕達に呼びかけている人はおかしい人なんだって思った。
その人はそれを数回繰り返した。
「部長、何か変な人が部室の前にいますよ。どうしますか? 無視しますか? もしかして入部希望者かもしれないですけれど」
僕は部長に聞いた。
部長の黄門先輩は下を向いて、部長の顔色が青ざめていた。
「ど、どうしたんですか部長? 顔色が悪いですよ」
「い、いや別に……」
直後、さっき廊下で喋っていたと思われる男がゆっくりと部室内を確認するかのように姿を現し音部の部室へと入って来た。
「ふふっうー。相変わらず臭いトイレだー」
「ここはトイレじゃない! 音部の部室だ!」
僕はあまりの無礼な態度に激怒した。
男は身長180cmぐらいあるだろうか、顔は高校生としては老けて見え20代後半に見えるが顔は整っていて、スタイルはよくスラッとしている。パッと見の第一印象はパッと見爽やかだけど、癖のある俳優と言ったところか。
「部長も何かガツンと言って下さいよ!」
僕は部長に言った。
しかし部長は俯いたまま何も喋らなかった。そんな、さっきまではあんなに生き生きとした表情で僕に対して色々と悪事を行っていたのに……。さっきまでの部長がまるで嘘のようだ。
「さっきまで僕に手錠をかけたり、毒らしき野菜ジュースを飲ませようとしたりした部長はどこにいったんですか。どうしたんですか部長!」
部室に入って来た男は僕の話を聞いた後、はあっとため息を大きく吐き出した。
「まだそんなことをやっているのか。黄門よ!」
僕はそれを聞いて堪忍袋の緒がブチンと切れた。
「何、部外者である一見学者が黄門部長のことを呼び捨てにしているんだ! あんたは一体何様なんだよ!」
部長は僕の肩に手を置き、首を横に大きく数回振った後、言った。
「あの人は先生だ」
「えっ?」
そう言われて僕は改めて部室に入って来たその男を見た。
まあ、そうだよね。制服も着ていないし。背広だし。背広の胸ポケットに笹本って名前が書いてあるし。誰がどうみても先生だよね。高校生には見えないよね。でも何で先生が音部の部室なんかにくるのだろうか? あっ。もしかしてこの先生は音部の顧問かなにかかな?
僕が思っていると笹本先生はゆっくりと口を開いた。
「おいおい、いつまでこんな茶番をしているつもりなんだ? もう音部は今年から廃部になっただろう?」
「え!?」
そう、音部は去年いた先輩方がいなくなったので、今年から廃部になったのだ。
そんな、そんな理不尽なことがあっていいのか? せっかく、せっかく僕のやりたいことを見つけたっていうのに……。でも、もう廃部なら仕方がないよね。だって存在していない部活なんだもん。存在していない部活がある所にいつまでもいる意味はないよね。時間は有限なんだ。タイムイズマネーだよ。
僕は黄門先輩、いや、先輩なんて言う必要はないよね。僕を騙していたんだから。
僕は黄門先輩改め、黄門と笹本先生が言い合っているのを横目で眺めながら、音部の部室、もといただのトイレを後にした。
~~ 完 ~~
「これで終わりじゃないよ。もうちょっとだけ続くのよ」
「↑誰だよお前は!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
僕がトイレを後にすると、黄門先輩がトイレから急いで出てきて僕の腕を力強く引張った。
「何をするんですか?」
「ちょっと考え直してくれよ」
「考え直すも何も僕は、部にすらなっていない、部室すらもないただのトイレにこれからも通うつもりは毛頭ありません!」
「だから俺の話をちゃんと聞いてくれよ」
「ちゃんと聞いた所で音部が部として認められる訳でもないですし、トイレが音部の部室になるわけでもないですし。おすし」
僕がそう言ったところで先輩がポケットから銃を取り出し、僕に突きつけた。
「だから、聞けって!」
すごんだ先輩の表情はまるで、これから自殺でもするかのような鬼気迫った雰囲気を漂わせていて、僕はそれ以上反論することが出来なかった。
「ど、どうぞ」
「今は、俺とお前しか部員はいないけれど、部員が5人集まればちゃんとした部として認められるんだ。だから、まだ現段階では音部ではないけれど、音部になれる可能性だってまだ残されているんだよ」
な、なんと。
僕はそれを聞いて、心の中に希望の光がどこか差した気がした。なんだかんだ言っても僕は音部に興味があったのだ。
「やりましょう。部員を集めましょう!」
僕は先輩の両手を自分の両手で包み込むように握りながら言った。
「おお、やってくれるか」
「はい!」
ちょうど、笹本先生がトイレから出てきた。
「なんだお前達まだいたのか。早く帰れ。いつまでもこんな所にいてもしょうがないだろう」
「先生! 俺、絶対に音部を復活させますから。廃部になんて絶対にさせませんから」
黄門先輩は言った。
先生はそれを聞いて鼻で笑った。
「ふんっ。5人も部員を集められるとでも思っているのか? そこにいる奴を除いてあと三人もだぞ」
「やります!」
先輩は気迫のこもった声を上げた。
先輩の気迫のこもった声を聞いて僕もその声に続き「僕もやります!」と声を上げた。
「まあ、せいぜい無駄な足掻きをするんだな。あと一つ言っておくが、部活の部員集めの期限はあと2週間しかないからな」
先生は言うと、僕達の横を感情のこもっていない無表情の顔をしながら通り過ぎた。
先生が通り過ぎると僕はため息と共に呟いた。
「あと、期限は2週間しかないのか……」
すると先輩は僕に怒鳴るような声で言った。
「あと2週間もある」
黄門先輩の力強い声を聞いて僕は先輩についていこうと心からそう思った。
残り約2週間か。
昨日、笹本先生に言われたことを僕は次の日の授業中思い出していた。
あと2週間弱で残りの三人の部員を集めなくてはならない。集められなければ音部は完全に廃部になってしまう。でも一体どうやって人数を集めようか。
そんなことを漠然としながら考えていたら、僕の頭に何かぶつかる物があった。
何だ?
僕は頭に当たり床に落ちた物を見た。
消しカスだった。
こんなことをする奴は一人しかいない。治だ。
治は僕の座っている席の後方に位置している。
僕は治の席をそっと振り返る。
すると治は口を動かし、口パクで『どうしたんだ?』みたいなことを言っていた。
僕が授業中、がらにもなく深刻そうに考え込んでいるのを見ていたのだろう。あいつはあいつで僕のことを心配してくれているんだな、と思い僕は少し嬉しくなった。
僕は親指を一本立てて、『大丈夫』という意味を込めて治に向けた。
治はそれを見て安心したのだろう。僕に向けて顔を崩し、笑顔を見せた。
そうだ。治がいたな。これで部員は一人獲得したも同然だ。治は高校生活で刺激を求めていたし、僕のことも気にしてくれている親友だ。僕が音部に入ったとなれば当然治も音部に興味を抱くだろう。僕は頷き、残りの部員をどうやって集めようかと再び考え始めた。
授業が終わり、休み時間に入ると僕は真っ先に治の下へと向かった。
「おい、治」
「何だ?」
治は僕が少し強い口調で名前を呼んだことにどこか驚いたような顔をした。いつもは僕から治に話しかける時は、けっこうまったりとした落ち着いた口調で、あるいはだるそうな口調を使っているから驚いたのかもしれない。その口調を使えるのはお互いにそれだけの仲だという証でもあるのだが。
「お前、部活に入る気はないか?」
「部活? ああ。入る気はあるよ。ただまだ決まっていないだけで。新種発見部に入ろうかなとか思っていはいるけど」
「新種発見部? そんな部活に入ってどうするっていうんだよ。どこか海外の人があまり探索していない密林とかなら分かるけれど、この日本でそうやすやすと新種が見つかるとは思わないけどな。ちなみにその新種発見部は今までにどれぐらいの新種を発見したことがあるんだ?」
「うーん。今まで部活は3年活動していて見つけた新種は1つだけだって聞いたな」
「ほら見ろ。3年も活動をしていてたったの1種類しか見つけたことがない部活に入ったって、面白くないんじゃないか?」
「どうなんだろうな。俺も新種発見部の活動はあまり知らないからな」
「でも、なんでその部活廃部にならないんだろうな」
「なんか、テレビで新種が発見されたって特集されたらしいよ。だから、校長が新種が発見されればされるほど、テレビで我が校が取りざたされ、我が校の宣伝になるかもしれないからって、校長先生のじきじきの命により新種発見部は残っているらしいよ」
「はー、そうなんだ。まあ、たしかにそれなら納得は出来るな」
「それより、お前はは何か入りたい部活はあるのか? 俺に聞くって事は何か良い部活を見つけたのか?」
「流石、治だな」
「おお。本当に何か良い部活を見つけたのか。何の部活だ? 教えてくれよ。興味あるな」
「聞きたいか?」
「ああ」
「本当に聞きたいか?」
「ああ、本当に聞きたいな」
「本当の本当の本当に聞きたいか?」
「本当の本当の本当に聞きたいな」
僕はそろそろ治に教えようと思った。治が少し苛立っているのが分かったからだ。ちなみに治はいらいらすると、ゴリラが威嚇する時に行うドラミングをし始める。幼少の頃、巨大ゴリラに育てられた治ならではの癖だ。
「僕が入った部活は音部だ?」
「音部?」
「ああ、この間お前も部室に行っただろ?」
「え? 行ったっけ?」
「行ったじゃないか。あのトイレが部室の所だよ。お前が入り口のシャッター扉を飛び蹴りで壊したあの」
「ええ? あの部活? あの部活に入るの? って言うかお前、さっき部活に入ったって言わなかったか?」
「ああ。言った。僕は音部の部活にもう加入したんだ。もう正式な部員なんだ」
「嘘だろ。あの変な先輩がいる部活だろ? お前何か騙されているんじゃないのか?」
「黄門先輩のことを悪く言うな。僕の部活の先輩だぞ」
「え? あの人黄門って言う名前なの? 名前までどこか狂っているな……」
珍しく治が戸惑っている。こんな治を見たのは、小学校の時、学校に隕石が落ちてきた時以来だ。
ちなみに隕石は治の目の前1メートル先に落下した。小さな隕石で治他、学校の生徒達には怪我などは奇跡的になかったが、その時以来だ。治が少し取り乱したのは。
「治ももう一回音部の部室に言って、黄門先輩の話をちゃんと聞いてみろよ。絶対興味が湧くと思うぞ。黄門先輩は音部にまじで人生を捧げているような感じだからな」
「そうか」
治は肘を突き、丸めた拳の上に顎を乗せ、真剣に何かを考えているようだった。
「分かった」
治がゆっくりと口を開いた。
「分かったって?」
「俺もう一回音部見学に行ってみることにするよ」
「本当か?」
「ああ」
よっしゃー。
僕は拳を握ると心の中でそう叫んだ。
そして放課後、再び僕は治と音部のあるトイレへと向かうこととなった。
音部の部室へと着くと、部室内から奇妙な得たいの知れない音が聞こえてきた。
「「グッエーーッツボッ」」
「な、何だよ。この不可解な音は……」
治は眉間に皺を寄せて言った。
「本当だ。何の音だろう? いや音なのか、何かの生物の鳴き声なのか……」
僕達は恐る恐る慎重にまるでどこぞやの家政婦のように、部室の中を覗いた。
部室の中には黄門先輩が直立不動で立っていた。
黄門先輩は部室内に設置された背の低い小さな金属製の棚から何かを取り出した。
「ジュ、ジュース?」
僕は黄門先輩に聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
黄門先輩はそのジュースのキャップを力を込めるようにして開けた。
その途端、プシュっという炭酸が抜ける時の音が聞こえた。
「あっ、あれコーラだ」
目の焦点がようやくジュースに合い、僕は黄門先輩が持っているジュースがコーラなんだとようやく理解した。
「コーラか。でも一体コーラをどうするつもりなんだろう?」
治が冷静な表情で呟いた。
「コーラなんだから、飲む以外にはないだろう」
「それもそうだな」
僕達の会話通り、黄門先輩は左手を腰に添え、コーラのペットボトルを持っている右手を口元へと運ぶと、まるで銭湯上がりに飲む牛乳のように一気に喉の奥へとコーラを押し込んだ。
ゴキュッゴキュッという喉の音が僕の耳に届く。
「美味しそうに飲むなあ。黄門先輩は」
「それは認めよう」
僕達がそんな会話をしていると、突如あの音が響き渡った。
「「グッエーーッツボッ」」
!!?
その音の出所に僕は視線を向けた。
その音は黄門先輩の口から洩れていた。
「げ、げっぷ?」
僕は驚いて言った。
治のことをちらりと見ると、治は目を点にして呆然としていた。
「なんだよ。あのげっぷは……。あんなげっぷ聞いたことないぞ」
治は首をぶんぶんと横に振っている。
たしかにあんな激しいげっぷは生まれて初めて聞いた。例えるならあのげっぷはどこかのロックミュージシャンが奏でるシャウトのようだと僕は思った。
僕は純粋に感動した。自分の心の中の奥底に潜む感動という名の鐘が盛大に鳴らされた気分だ。
僕は本当に嬉しくて、知らず知らずのうちにレゲエダンスのような動きを刻んでいた。
僕が目を爛々と輝かせていると、黄門先輩が僕の羨望の視線を感じ、僕に気づいたようだ。
「そこで何をしているんだい?」
「あ。え、えっと。ちょっと部室内から奇妙な音が聞こえたからなんだろうと思い、覗いてみたんです。そしたら先輩がすごいげっぷをしていたんで……」
「なるほど。それで、そこにいるこの間来た君はまたここに何しに来たんだい?」
「俺ですか。俺はこいつに誘われてもう一回、今度はちゃんとこの部活を見学しようと思い来たんだ」
治が言った。
「そうか」
黄門先輩は感情を出さない平坦な口調で言った。
「ところで先輩は何でコーラを飲んだりなんかしていたんですか? まあ、コーラを飲むのに理由はないでしょうけれど」
「ああ。俺はただコーラを飲んでいただけではないんだよ。俺は音部の活動を行っていたんだよ」
「え? 活動を?」
「ああ。俺はコーラを飲んで、げっぷを出していただろう?」
「はい。すごい心震えるげっぷでした」
「おお。分かってくれたか。俺は今、げっぷの音について研究しているんだ」
「げっぷの音ですか」
「うん。まだまだ成功しているとは言い難いけれど、まあ最初に比べればげっぷの音は確実に芸術の域へと進んでいることは間違いないだろう」
「なるほど、げっぷの音を研究ですか」
「俺はいずれこのげっぷの音で、人々を感動させ号泣させたいんだ」
黄門先輩は熱い思いを僕へとぶつけてきた。
僕は先輩の熱い思いを受け取り、僕も何かしなくちゃと漠然と思ったが、今の僕には何も出来ることがなかったので、そのジレンマに悩んだ。
「どうだい? 治。先輩の音はすごいだろう?」
「うん。たしかにげっぷであそこまですごいのは聞いたことがないな」
「そうか。それは嬉しいな。ところで君達は何か自分しか出せない個性的な音を出せることが出来るかい?」
個性的な音かー。僕は小学生の時、ピアノ教室に通っていたからピアノしか出来ることはなかった。でも、それは楽譜を見ながら弾くだけで、自分で作曲したりするわけではないので、個性的とは言い難かった。
僕はそれを黄門先輩に伝えた。
「なるほどー。ピアノかー。ピアノも立派な音だよ。個性がないなんてとんでもないよ。ピアノの音だって弾く人によって十分個性が出るよ。ピアノのことよく知らないけど」
黄門先輩はなんか適当なことを言った。
「俺の個性的な音かー。俺にしか出来ない音。俺にしか……。あっ。あった」
治は言うと、胸の前に水平に曲げた両腕を持ってきた。拳は握られていて掌の方を自分の胸へと向けている。
治は小さく「ウホッ」っと言った。
直後、治は自分の胸を軽快なリズムで叩き始めた。
「ドラミングだ」
僕は呟いた。
「ドラミング?」
「はい。ゴリラが威嚇する時にする行動です。実は治は幼少の頃、ゴリラに育てられたんです」
「ゴリラに?」
黄門先輩が方眉を上げた。治のことに興味を少し持ったようだ。
「はい。なので、治はイライラしたりするとドラミングをするんです。今回は意識的にドラミングしているようですが」
「ほう。面白い素材だ」
黄門先輩の目の奥が暗黒色に輝いた。
そして。
「おい。治君?」
「はい。何ですか?」
治はドラミングを止め、ぶっきらぼうな口調で黄門先輩に答えた。
「君、音部に入りなさい。これは命令です」
黄門先輩は強い口調で治に命令を下した。
「イエス、ミスター黄門!」
治は力強く頷いた。
一体何が起きたというのだろうか。
あの治がいきなり黄門先輩の言葉に従ってしまった。
「さあ、治君。ここに君のサインを書いてくれ」
「イエス、ミスター黄門」
治は先ほどと同じようにまるで軍で上官に従うかのような口調で黄門先輩に言った。
サインを書き終えると、黄門先輩は高らかにまるで壊れているかのように笑った。
「先輩。治に何をしたのですか?」
「うん? ああ。これは催眠術だよ。俺は前からそういうのに興味があってね。色々と勉強していたのだよ。催眠術をかけることが出来たのはこれが初めてだよ。今まで1000人以上の民に催眠術を試したことがあるけれど、一度も成功した試しがなかったからね」
「そうなんですか。でも民って……」
「おっと失礼。失言だったようだね」
黄門先輩は口を歪めて笑った。
それにしても本当に先輩は恐ろしい人だ。この人は僕の憧れの先輩であり、部活に関しての情熱などは信頼しているけれど、もしどこかこの先輩のエネルギーが間違った方向性に向いたらと思うと僕の背筋がぞっとした。この人は音部がないとだめな人なんだ。音部という自分を解放するエネルギーの向け所がなければ、この人はもしかしたら世界征服なんか企んでいたのではないだろうか。
僕がそんなことを考えていると、治がはっと我に返ったような表情をした。
「あ、あれ? ……。俺一体何をしていたんだろう?」
どうやら治は催眠術にかけられていた時の記憶がないらしい。普通催眠術というのは解かれた後、自分がかけられた記憶があるというのを聞いたことがあるので、先輩が治に催眠術をかけていた時の記憶を削除したのだろう。
僕は先輩に末恐ろしさを感じながらも、どこか羨望の感情も抱いていた。
「治。これから僕達、音部の部員として共に頑張ろうな!」
僕は治の右手を取ると、ぎゅっと治の手を強く握った。
「え? どういうこと?」
「治君。君はもう音部の部員になったんだよ」
黄門先輩が言った。
治は驚いた表情をしたが、すぐに「まっ、いいか」と呟いた。
治は感情が高ぶりやすく、慎重な性格ではあるのだが、時として流されやすい性格でもある。何で自分がいつの間にか音部に入部したのか分からなかった治だが、僕が入部していることと、握手をしたことでその場の雰囲気に流されたのだろう。
「でも、まだ部員はあと二人足りませんよ」
僕は黄門先輩に言った。
「そうだな。俺が誘っても今まで誰も部員になってくれなかったからな~。君達二人は友達とか当てはないのか?」
「そうですね。この学校で中学生の時の同級生は治だけですし、知り合いの人はいませんね」
「そうか。まだ入学したばかりだけど、クラスで仲良くなった奴はいないのか?」
「今の所いませんね」
「そうか。別に男以外でもいいんだぞ」
「男以外ですか。でも男以外でも知り合いの人はいないですし」
僕が言うと、治が顔を上に向けて何か思案深げな顔をした。
「あいつはどうだ?」
「え? 治は誰か心当たりの人がいるの?」
「ほら、あいつだよ。あいつ。入学式の日に出会ったクラスメイトの女だよ。芋を食っていた」
「芋? あ。ああ、そう言えば彼女がいたね。クラスメイトになってからはまだ一度も話していないけれど」
「どうだ? 彼女を誘ってみるというのは?」
「いいね。彼女もまだ部活に入ったというのは聞いたことがないし、性格的にも優しそうだし、礼儀も正しいし、彼女とだったら上手くやっていける気がするよ」
「ほう。君達にそんな知り合いがいたのか」
「知り合いっていうほどの人ではないんですけど、彼女はすごい真面目そうで優しい人なので部員になってくれたら僕は嬉しいです」
「君、彼女にホの字なのかい?」
「そ、そんなことないですよ。た、ただ。女性部員がいれば音部も今よりもっと華やかになるかもしれないと思っただけどすよ」
「ふふふ。君はごまかすのが上手いな」
黄門先輩は悪代官のような笑みを浮かべ言った。
「じゃあ、早速勧誘に行くか!」
治が声を張り上げて言った。
「さあ、行ってきたまえ! 我が下部達よ!」
黄門先輩が両手を広げ言った。
治は一瞬怪訝そうな表情をしたが、いちいち反論するのも馬鹿らしくなったのだろう。黄門先輩に後ろを向きながら右手を上げ、行ってくるの合図をすると僕と一緒に音部の部室を後にした。
「でもさあ、もう放課後だし、あの女の子もうクラスにいないんじゃないか?」
自分のクラスの1年2組に向かう途中治が言った。
「ああ、そういえば」
もう外は薄暗くなり始めていた。時刻は5時半だ。
僕達は半ば諦めモードの中、教室へとたどり着いた。
教室内は電気が付いていなかった。
「ほらっ、やっぱりもう帰ってしまったんだよ」
治が言う。
「うん。そうだね」
ここへ来る途中も、誰一人として生徒達とすれ違わなかった。
薄暗く、静寂に包まれている学校内の教室に生徒が残っているはずがない。
僕達はドアを開けることなく、踵を返し教室内を後にしようとした。
その時。
『ブッ!!』
教室内から盛大な音が聞こえてきた。
「な、何だ? すごい音が教室から聞こえたぞ。何が起きたんだ? まさか爆弾か? テロリストでも教室内に潜んでいるのか?」
治の神経が一瞬にして張り詰めたのを僕は感じた。
「ど、どうする治。教室を開けるか? それとも先生を呼ぶか? 警察を呼ぶか?」
「教室を開けるのは危険かもしれない。もしかしたら開けた瞬間に、爆弾が作動して教室が爆発されるかもしれないぞ」
「そうだな……」
僕達が真剣に話していると。
ガラガラガラガラ!
突如として扉が勢い良く開かれた。
「そこで、何をしているんですか!」
教室内の扉から顔を覗かせたのは、入学式の日に出会ったあの女の子だった。
僕は突然姿を現した彼女にびっくりした。
「うわぁ、びっくりしたぁ!!」
「こっちの方こそびっくりしましたよ。まさか男子が教室の外から教室内の様子をこっそり聞き耳立てていたなんて!」
「い、いや。別に聞き耳を立てていたわけじゃないんだよ」
「じゃあ、何をしにここへ来たというのですか? あれですか? あの噂に聞く、放課後女子の縦笛をこっそり舐めるというあの行為をしに来たのですか?」
「ち、違うよ。僕達の話を聞いてくれよ!」
僕が言った時、彼女は何か思い出したような表情をした。
「あっ。あの入学式で出会った、このクラスの並ぶ位置を教えてくれた人?」
「今、気づいたのか」
僕は少しだけほっとした。
「でも、とても残念です。紳士な方だと思っていたのに、まさか変態さんだっととは……」
「だから僕の話を聞いてくれよ」
「何でしょうか、変態紳士さん」
まあいいや。別に変態紳士でも。
「僕は君を探しに来たんだよ。ある理由があってね」
「私を探しに……ですか? まさか、こっそり盗聴するだけでは飽き足らず、私に直接手を出そうとしていたのですか?」
彼女は僕を怒った顔で睨んだ。
しかし、彼女はまるで小学生のような体格だったので、あまり怖くは感じなかった。むしろどこか小動物のようで可愛く感じた。
「違うよ。君ってまだ部活に入っていないだろう? たまに君の事を見ると部活の冊子を見ているし。放課後もすぐに帰っているし」
「何でそんなに私のことを見ているんですか? やはりあなたは盗聴ストーカーさんなのですね」
「もういいよ別にそれでも。ただ君がまだクラスに馴染めていないようだったから気になっていただけだよ」
僕が言うと、彼女は少し下を向いて俯いた。
「そ、そんなことないです」
彼女の返信が全ての答えを物語っていた。
「それにしても、教室内からすごい爆発音みたいなのが聞こえたんだけど、一体何があったんだ?」
治が彼女に深刻な顔をして聞いた。
すると彼女は、さも当然というような顔をして言った。
「あれはただのおならです」と。
「た、ただのおなら?」
「はい。あれはただのおならです。芋を食べたことによる生理現象です」
僕は開かれた教室内を覗く。
彼女の席には食べかけと思われる焼き芋とまだ手をつけていない焼き芋全部で3、4個置かれていて焼き芋の皮のカスが机の隅にまとめられていた。
「君、教室内で焼き芋を食べていたの?」
「はい。家に帰ろうと思っていたのですが、お腹が急にすいてしまって……。家まではけっこう遠いですし。それなら教室で食べてから帰ろうと思ったのです」
「君はいつも焼き芋を持ち歩いているの?」
「はい。家が農家でさつまいもは腐るほど、あるのです。秋に収穫して保存しているさつまいもが」
「そうなんだ。でもただのおならっていうのはどういうこと?」
「人間、ご飯を食べたらうんちをします。これは誰にでも当てはまります。別に恥ずかしいことではありません」
「う、うん。そうだね」
「はい。人間だけじゃないです。魚だって、幼虫だって、羊だって、生きとし生けるあらゆる生き物はうんちをします」
「う、うん」
「人間だもの」
彼女は詩人のように語り出した。
「それと一緒です。私はお芋を食べました」
「うん」
「だから、腸が刺激を受けておならがしたくなりました。ただの生理現象です。マナティーだってジュゴンだっておならはよくします」
「うん」
「だからおならをしました」
「そ、そうか」
「私は教室内に誰もいないことを注意深く観察しました。教室の外にも、私がお芋を食べ始めた時は誰もいませんでした。だから私はおならをしたのです。ただおならの音が予想よりも大きかったのは自分でも驚きましたけど」
「そ、そうか。それならば特に問題はないね」
僕は彼女に言った。
彼女は僕が言うと「分かってくれたようで嬉しいです」と笑顔で言った。
「私はお芋のこととなると、人ががらりと変わってしまうんです。よく二重人格と言われています。お芋を食べていると、だんだんと人格が変わっていくのが自分でも分かるのです。たぶん幼少の頃からお芋と共に育ってきたからでしょう。お芋は私にとって唯一の友達と言っても過言ではないのです。私はとてもお芋に感謝しています。自分の食べるお芋には必ず、名前を付けますし、食べる前は感謝の意を述べてから食べます」
「そうなんだ。お芋に名前を付けるんだ。ちなみにさっき食べていたお芋の名前はなんて言うの?」
「あのお芋さんは、トムと言う名前です」
「トムか。良い名前だね」
「ありがとうございます」
僕と彼女が会話をしていると、彼女はふと、我に帰ったような表情をした。
「あっ、ど、どうも。今までの言動色々とどうも失礼しました。私お芋のことになると本当に人格が別人のように変わってしまうんです。で、今ようやくお芋の成分が体に吸収されて、人格が少し戻った所です」
「そ、そうなんだ。それにしても面白い体質だね」
「すみません。でも私、本当にお芋を愛しているんです。これだけは絶対に引き下がれないです。別に誰がお芋のことを馬鹿にしていても、私はお芋のことを愛し続けます。どんなことがあっても私は一生お芋と友達でい続けます」
「すごい愛情だな」
治が感心したように言った。
「はい。ありがとうございます。それにしてもどうして私に会いに来たのですか? ある理由というのは一体なんなのでしょうか?」
僕は彼女との会話で忘れていたが、それを聞いて自分がここへ来た目的を思い出した。
「君に部活に入ってもらいたいんだ!」
僕は力強い声で彼女に言った。
「部活? 部活ですか」
彼女は少し意外そうな顔をした。
「てっきり、告白か何かだと思っていました」
「こ、告白?」
「はい。二人で私のことを取り合いでもしているのかとてっきり思っていました」
「そ、そうか」
彼女は、そうですか。告白じゃなくてただの部活の勧誘ですか、と小さな声で一人ぶつぶつ呟いていた。
「所で一体何の部活の勧誘なのでしょうか」
「うん。それはだな……」
僕は音部の部活について事細かに彼女に説明をした。
彼女は僕の話を聞きながら少し興味がありそうな表情でほうほうと聞いていた。
僕が話を終えると、彼女はまだ悩んでいるような表情をしていたが、その後、僕の方をじっと見つめると言った。
「部活見学をしてもよろしいでしょうか」
僕は「もちろん」と快く答えた。
よし、これで彼女も部活に入ったも同然だ。音部の部室に行けば部長である黄門先輩が彼女に催眠術をかけてくれるだろう。そうすればもう彼女は知らず知らずのうちに音部へと入ってしまうことになる。
僕は心の中でくつくつと笑った。なにか僕の心の奥底から悪魔が芽生えつつあるのをどこかで感じていた。だんだんと僕は黄門先輩に近づいているんじゃないのかなんて思ったりもした。
部室に着くと、黄門先輩の濁った目が少しだけ大きく開かれた。
「ほう。彼女がそうか」
「はい。彼女が僕のクラスメイトの名前は……何だっけ?」
「え? 私の名前を知らなかったんですか? ひどいですうっ!」
彼女はぷんすかぷんすかと頬を膨らませ冗談とも本気とも取れないような表情で怒っている。
「私の名前は佐伯 美礼です。相性はみーちゃんと呼ばれています。覚えておいて下さいね」
「承知!」
僕は言った。
治も首を縦に何度か振って頷いた。
「先輩!」
僕は先輩の瞳を見つめて合図を送った。催眠術をかけてくださいという石を込めて。
僕の瞳を見た先輩は、僕の瞳の意図に気づいたのか。「ああ」といったようにな肯定の頷きを数度した。
数十秒後。
先輩は催眠術のコツを掴んだのだろう。催眠術は見事に成功した。
みーちゃんは目を充血させ、一心不乱な様子で入部希望用紙に自分の名前を書いた。
「まさか、こんなに催眠術が上手くいく相手が二人もいるなんてな」
先輩も驚きを隠せないようだ。
するとみーちゃんは言った。
「えっ? 私催眠術なんかにかかってないですよ」
「でも、入部届けにサインしたじゃない」
僕がいうと、彼女は首を横にぶんぶんと振った。
「違いますよ。私はこの部活、主にこの部室が気に入ったんです。このアンモニア臭漂う部室が。何か落ち着くんですよねー。この臭い。私の部屋の臭いにそっくりで」
「そ、そうなんだ。君の家の臭いにそっくりなんだ……」
僕は唖然とした。部屋がアンモニア臭いってどんな部屋だよ。
「ちなみに、我が家にはトイレが5つあります。その内の一つが私の部屋です」
「トイレが部屋なんかい!」
どうりで臭いはずだよ。
「でも、私の部屋は私しか使っていませんよ。もちろんトイレも。部屋自体も8畳と比較的広いですし」
どんな家だよ。トイレが5つもあってトイレを部屋にしていて8畳部屋って。逆に行ってみたくなったよ。
まあ、でもなんであれ部員が増えたのには変わりがないからな。
僕は彼女に向かって手を差し出した。
「ようこそ、音部へ」
彼女は差し出された僕の手を見て、少し恥ずかしそうにえへへと笑った後、僕の手をそっと握った。
部活集めあと残り1名。
期限が徐々に迫ってきていた。
残り約一週間になっていた。
黄門先輩は毎日下校時刻に、校門で帰宅部の人達に催眠術をかけていたが上手くいっていないようだった。結局の所、黄門先輩の催眠術にかかったのは治ただ一人ということか。やはりゴリラに育てられたことが催眠術にかかりやすい原因なのだろうか。まあ、そんなことは今はどうでもいいが。
僕達はみーちゃんが部活に入った後、すぐにもう一人の部員集めを開始したが、全然上手く行かなかった。
僕達も校門の所で手作りの音部の勧誘のチラシを配ったりしたが、効果はどうやらなかったようだ。音部の見学に来る人は誰一人としていなかったからだ。
そうして、日が沈み、今日もまた何の収穫もない一日が終わった。
「あーあ。あと一人、どうしても集まんないな」
僕は愚痴をこぼした。
「諦めちゃだめだよ」
みーちゃんが、半分に割った焼き芋の断面に小さな口でかじりつきながら言った。
「そうだよ。まだ慌てるような時間じゃない」
治がどこぞやのバスケ部員のようなことを自分の胸を叩きながら言った。
「くっくっく」
黄門先輩は強がっているのか、負け惜しみなのかただただ、支配者のように不敵に笑みを浮かべ不気味に笑っていた。
なんか色々とぐだぐだだなあ。これからどうしよう。
その時。僕達の頭上に影が差した。何だ? 何事だ?
僕達は空を一斉に空を見上げた。
僕達の上空を遮り、僕達の目の前に姿を現したのは奇抜な格好をした人物だった。
「オハヨー」
いやただのオウムだった。と思ったけれど身長は一メートル以上あったのでただのオウムではやっぱりなかった。
僕はその巨大なオウムを前にしてただただ恐怖しか感じなかった。
「ピ、ピーちゃん?」
すると治が声を震わせながらオウムに向かって言った。
「ソウダヨ、ピーチャンダヨ。オサムヒサシブリダネ。ボクサミシクナッテオサムニアイニキチャッタンダヨ」とオウムは言った。
「ピーチャン!!」
治はオウムの元へと駆け寄るとオウムの体に抱きつき頬ずりをした。
治の知っているオウムだったのか……。
僕はその光景を不思議な様子でまるで観察するように眺めていた。
「ピーチャンとはどこで知り合ったんだい? 見たところ普通のオウムじゃないみたいだけれど」
僕が言うと治はピーチャンと出会った時のことを話し始めた。
「俺がピーチャンと出会ったのは俺がゴリラに育てられていたジャングルでのことだ。なあピーチャン?」
「何でピーチャンに聞いているんだよ」
「生憎その頃の記憶は俺にはあまりないのでね。これは俺がピーチャンに聞いた話なのだけれど」
「記憶ないのかよ。適当だな」
「まあそう言うなって。俺がはっきりとピーチャンのことを記憶しているのは中学時代だ。中学時代に木に登って遊んでいたとき俺は足を踏み外して木から落ちたんだ。その時颯爽と姿を現して俺を助けてくれたのがピーチャンだったんだよ」
「そうなのか。ピーチャンが助けてくれたのか」
「ああ。まあその時は、助けてくれた鳥がピーチャンだっていうのは分からなかったんだけどな。ピーチャンが俺を助けた後言ったんだよ。『治に会いたくてここまで来ちゃった』って」
「へえー。いい奴じゃないか」
「ああ。だけどその時は俺はピーチャンのことは何も覚えていなかったので何だこの鳥は、と思って多少警戒はしたけどな。その後ピーチャンと話をしていると、ピーチャンは俺がピーチャンのことを覚えていなかったっていうのを知って、ぴーぴーぴー鳴いたっけな」
治は、ハハっと笑った。
「ふうん。でも、その後ピーチャンはどこに行っていたんだ? さっきの口ぶりからするとまた随分と久しぶりに会ったかのような口調だったけれど」
「ああ。そうだな。あの後、またピーチャンはジャングルに帰って行ったんだよな。それからは今日までピーチャンには会っていない」
「そうなんだ。なあ、ピーチャン。どうしてまたジャングルからここまで来たんだい? 本当にまた治にただ会いに来ただけなのかい?」
僕が聞くと、ピーチャンの顔がくしゃっと歪んだ。
「グジュグジュ。ホ、ホントウハ、イイタクナカッタンデスゲド、ギ、ギイデグレマズガ?」
ピーチャンは涙と鼻水まみれの、ぐずついたような声で話し始めた。
「ジ、ジズハ、ワダヂノ、オガアヂャンガ、ナグナッデシマッダンデス」
「ピーチャンの母親が亡くなったの?」
「バ、バイ」
「そうなんだ。それは悲しかったね」
僕はピーチャンの頭を優しく撫でた。
ピーチャンは潤んだ瞳で僕のことを下から見上げている。
「ア、アナダハ、ヤザジインデズネ」
「そんなことないよ」
僕達が会話をしていると、治がピーチャンに言った。
「ピーチャン。それよりこれからどうするんだい? また、ジャングルに帰るつもりかい? それともしばらくこの町にでもいるつもりかい?」
すると、ピーチャンは首を横に何度も振った。
「ワ、ワカラナインデズ、ワダヂハコレカラドウズレバイイノカマッタクワカラナインデズ。アタマノナカガコンランシテイデ」
ピーチャンはまるで鳩が首を動かすような動作で視線をあちらこちらへと挙動不審に向けている。
それを見かねたのか、治が不意に言葉を発した。
「なあ、ピーチャン。しばらく家に住まないか?」
「ピ、ピーー??」
ピーチャンは初めてとも言える鳥らしい鳴き声を発した。とても驚いているように僕には見えた。
「オサムサンノイエデズカ? ソ、ソンナコトデキマゼン」
「どうして出来ないんだよ。俺のことが嫌いなのか?」
治が少し、眉に皺を寄せてピーチャンに言った。
「チ、チガイマズ。タダオサムザンニシツレイガカカルトオモイマシテ」
「何言っているんだよ。俺たちの仲だろ?」
治は憤慨した様子で言った。
「ソ、ソウデスカ。ソレハトテモウレシイデス。デ、デモ。オトコトオンナガヒトツヤネノシタデクラストイウノハマダココロノジュンビガトトノッテイナイノデスガ」
ピーチャンは頬をほんのり桜色に染めながら言った。
「え? 何? ピーチャンってメスなの? へえー」
治はピーチャンの頭から足まで全体を舐めるように見た。
「ソ、ソンナニミツメナイデクダサイ。ハ、ハズカシイデス」
ピーチャンはまるで初恋の少女が意中の殿方に告白するかのように顔を下に向けて足をクネクネさせてもじもじとしている。その様子は鳥でありながらも、とても可愛らしく僕の目には映った。
「大丈夫だって。別に恥ずかしいことないよ。それに俺達、種がまったく違うし」
治が言うと、ピーチャンは少し残念そうに「ソ、ソウデスネ。シュガチガイマスモンネ」と小さな声で呟いた。
「ワカリマシタ。ワタシオサムサントコレカラシバラククラシマス」
ピーチャンは俯いていた顔を上げると、治に言った。
「よっしゃー。ピーチャンよろしくな」
「ピ、ピー」
ピーチャンは日本語を喋るのを忘れ、ただただピーピーと鳴き、喜んでいるようだった。どうやらピーチャンは驚いたり、喜んだりし過ぎてて我を忘れると、日本語を話すことを忘れ、普通の鳥のように鳴くらしいということが分かった。
それにしてもただのオウムじゃないとは初め見た瞬間分かったけれど、まさか治の知り合い、いや知り鳥だったとは。でもそれならば納得がいく。だって治は8メートルゴリラに育てられていたのだから。8メートルゴリラが住んでいる土地ならば一メートルオウムがいたって全然おかしくはないだろう。それにしても世界は、科学が進歩し、船で世界を旅できて、飛行機で空を飛べて、車や、電車、さらには宇宙にすらも手を伸ばしている人間だけれど、まだまだ人間は自分たちが住んでいる世界についてあまり知らないのではないだろうか。巨大なゴリラやオウムが存在しているなんてな。もしかしたらもっと凄い生物がこの世のどこかには潜んでいるのかもしれないな。世界はまだまだ未知に満ち溢れているのかもしれないな。
僕はそんなことを考え、胸がときめくのをどこか感じた。




