其の拾弐『魔界』
**********
世界が明転した。感覚的には二日ほど眠っていた気分だが、空に船が浮かんでいるので、そうではないな、と思う。
目線を横に動かすと、近くの木にロッヅェ君がもたれかかっているのが見えた。力なくうなだれて、前髪が表情を隠していた。「ロッヅェ君――」呼びかけて、やめる。よく見ると彼の服には、誰のものか分からない血が、飛び散っていた。
そこで、自分の傷が消えていることに気づく。そう言えば痛みもない、と考え、腹筋だけで身体を起こす。まず両手、次に身体、脚、という順で見ていく。怪我はおろか、傷痕すら残っていなかった。代わりに、錬金術で錬成した時にできる、古い体細胞の破片らしきものが服の中に入っていた。
「……なるほど」
段々理解してきた。なるほど、そうなるとロッヅェ君は少なくとも、一人倒したことになるかな――。と推理する。そう言えば涼川君がいないな。確か、僕が気絶する前にいたはずだ。どこにいるんだろうか。
一番考えられるのは船内にいることだ。しかし、治療してもらったとはいえ単身でまた船に戻るのは気が引ける。ここはロッヅェ君が起きるのを待つか――。僕はロッヅェ君の方を、ちらりと見た。
「ッあ!?」
膨張した黒い影を落としたロッヅェ君の手が、目の前に広がっていた。もたれていた木を蹴り、こちらに飛んできたのだとすぐに理解する。
何故いきなり攻撃してくるんだ――、回避よりも先に、頭に浮かんだのはそれだった。ロッヅェ君の左手が僕の頭を鷲掴みにする。かろうじて見える左目から、ロッヅェ君の目が黒いことに気づく。普段の三白眼が、全て黒に塗り変わっていた。
「ッ……ロッヅェ君!」
掴む左手を強引に引き剝がし、すぐ近くにあった木の棒を掴み、振り下ろす。木の棒は彼の頭を叩き割るように落ち、骨が砕ける音がした。ロッヅェ君は倒れ、そのまま動かなくなった。
肩で上下させながら、僕はロッヅェ君を見下ろした。
「……終わってないなら先に言ってよ」
多分、見た目からして『終狂詞』を使ったのだろう。敵味方関係なく、強引で単純な力でねじ伏せるラストワードを。大の字でうつ伏せで地面に倒れるロッヅェ君を見ながら、そう思った。
「って、死んでないよね……?」
いくら治癒力が高くても、いくら死ぬ方法が分からなくても、頭蓋骨を砕かれて無事なはずはない。僕は恐る恐るながらも、ロッヅェ君の安否を確認し始めた。
だが、結論から言うと、彼は無事だった。ただ、目を覚ますまで十分ほどかかったので、その間かなり心配だったのは内緒である。
「……悪いな」
どうやらラストワードの効力は切れたらしい。いつもの三白眼をしていた。
そして、開口一番、謝罪の声が聞こえたのを、僕の脳は理解した。僕は謝罪の言葉に、うん、と言いかけて、うん? となる。
「何が『悪い』って言ってるんだ?」
「終狂詞」
ああ、と僕は納得する。そして、少しわざとらしく笑いながら「結果オーライだって」と彼の肩を叩いた。
ロッヅェ君は、先ほど木にもたれていた時のように、地面を見つめている。やはり、前髪が彼の顔までの視線を邪魔する。
「……悪い」
もう一度、同じ声が聞こえた。僕は何かを言おうとしたが、すぐに口を閉じる。こんな時のロッヅェ君は、放っておくのが一番いいからだ。下手に会話をして、更に狂われたらたまったものではない。
僕はそう判断して、ロッヅェ君の隣に座った。青々とした草が、僕の鼻をくすぐった。
しばらく、何も話さない。
僕は空を見ていた。正確には、例の船だ。大きな穴が船底に空いているにが分かる。それを無視して、大きくオールを動かす姿は、何かの虫のように見えた。
しばらく、そうしていた。唐突に、背を叩かれる。反射的に振り返ると、視線の先に涼川君がいた。
髪が濡れ、どころか身体中が濡れている。足の裾から水が垂れていた。伸びた髪からポツンポツンと水滴が落ちていた。
「……生きてたのか」
涼川君が嫌味を吐いた。しかし、こんなことはもう既に慣れてしまっているので、気にしない。
「倒した?」僕は尋ねる。
「ああ」
一つ、首を縦に振る。それだけで大体どんなものだったか、理解できた。よく見ると、右手に愛用の方天画戟が握られており、刃には赤いものがついていた。一度水の中に入った後に戦ったんだな、と僕は推測した。
涼川君は、隣で地面を凝視しているロッヅェ君を一瞥して、次に空を仰ぐ。
「毘沙門天は?」
「殺しかけた」口だけを動かして、即答する。
「そうか」
涼川君はロッヅェ君の襟をぐい、と掴み、僕に視線を投げかけた。「船、壊しに行くぞ」とロッヅェ君をボロ雑巾のように担ぎながら言う。
「使えなくても、武器くらいにはなってもらう」
吸血鬼としての異常な治癒力を知った上で、酷いことに使おうとしているな、と悟る。ロッヅェ君が少し顔を青ざめさせたが、涼川君は全く気にしていないようだった。
**********
「で、この船は一体、どこに向かっているんだろうか」
涼川君に引きずられながら、ロッヅェ君は言った。――船の中、船底に空いた穴から入り、先端部分に向かっているところだった。
「そりゃあ、何かしたいからだろ」涼川君が言う。
「だから、何かって何だよ」
「それは――」
と、涼川君は立ち止まり、その場で口ごもる。何か考える時の、彼の癖だ。ロッヅェ君は立ち上がらず、座った姿勢のまま、涼川君の後ろに立つ――ロッヅェ君の視線の先にいる――僕をじっと見ていた。
僕は目を何となくそらした。
「何も目的がないわけじゃない。空に船を飛ばすくらいだからな」
淡々とロッヅェ君は述べた。涼川君はまだ何も言わない。
「俺らに倒されても、まだ船は動き続けている」
「それは、自動操縦だから……じゃないかな」
僕は鼠を倒した時に立っていた部屋を思い出す。左右に揺れる赤い針を。
「お前らしくもないな。俺が言いたいのは、何で『自動操縦であった』か、だ」僕を見据えて、言った。
「……この先が、か?」
不意に涼川君が言った。顎にかけていた手を下ろし、こちらに目をやった。
「そうだろうな。どこに行くかは知らんけど」
ロッヅェ君はそこで欠伸をした。
「まぁどこに行くにしても、宝はあるだろうし敵はもういなさそうだがな」
「いや」
涼川君が言葉を遮った。僕とロッヅェ君は彼の顔を覗き込む。その表情は、歪に歪んでいた。――まるで、まだ残っているお菓子を見つけた子供のようだった。
「この先は、魔界の入り口だ」
「神綺の世界か……。なるほど、確かにそうかもな」
いたな、そんな奴。涼川君がさらりと言うが、僕は今、その名を聞いただけで全身の毛が逆立ったのを感じた。悪い意味で、だ。
「確かに魔界行きだな。この船」
そんなロッヅェ君の呟きも、聞こえないほどに僕は怯えていた。
**********
船の先端部。僕が最初に乗り込んだこの場所は、やはり僕が来た時と同じで、何もなかった。しかし、遥か前方に、紫とも赤ともつかない色をした、空中に開いた洞穴のような穴が見えていることだけは、その時とは違っていた。
僕の膝が少し震えているのを見て、ロッヅェ君が笑ったが、それさえ気にならない。というより、気にする余裕すらない。
まさか、またここに来ることになるなんて、思ってなかった。
「嫌なら帰れよ、英治」
是非ともそうしたいところだが、今帰ったら確実に魔理沙に弄られる原因になる。船の姿が見えているじゃないか、落としてこいと言ったじゃないか、とでも言われることだろう。そんな無茶ぶりに付き合わされる僕の身にもなってほしい。
「魔理沙に殺されるよ……」
「なら諦めろ。運命だと思え」
「……ロッヅェ君のとこの長女が運命操作したわけじゃないよね?」
「何故バレたし」ロッヅェ君は驚いた表情をした。
「え、本当?」
「冗談」
気がつけば、もう既に船の先が数cm、魔界への穴に入っていた。
**********




