前田利家の死 家康の陰謀
慶長4年 元日前田利家は秀頼公を抱き伏見城で諸侯の年賀を受けた。
秀頼が15歳になるまで利家が大坂城で教育するという秀吉の遺言のためだ。
太閤秀吉がいなくなった今、幼い秀頼公の伝役ということは豊臣家の最高権力者である。
信長公が本能寺で倒れた後、秀吉も信長公の幼子、三法師の後見役として権力者の地位を確立した。
目の前で、秀頼を抱いている前田利家公を諸侯たちは見て加賀百万石の前田利家の地位を感じ始めている。
覇権を狙う、徳川家康、
すべて秀吉のために人生を捧げてきた石田三成も心中穏やかでない。
家康の心「うううっ・・利家さえいなければ、豊臣は手中にできるのに・・」
家康は爪を噛んだ
家康はしばしば爪を噛む
怒り、動揺など、強い感情が起こると大量のアドレナリンが体中を走り
自分を抑えきれなくなる
爪を噛んでそれを抑えているのだ。
家康も若くない 56歳である 戦国時代の平均寿命は30~40歳ぐらいではなかったのだろうか。
家康には時間がない焦る気持ちもわかる。
朝鮮から部隊が撤退完了を待ち、1月5日になって秀吉の喪が公表される。
秀頼、淀君 前田利家 石田三成など諸将が大坂城に入った
家康は秀吉の遺言どうりに政務のために伏見城に入った。
大きな力が二分化されたのもそのときからである。
家康は動いた。
大名同士が姻戚関係を結ぶことを禁止していたが、伊達、福島、蜂須賀など次々と姻戚関係を結んで勢力を拡大していった。
1599年1月
前田利家四大老、五奉行が使者を送り詰問したが、いうことをきかない。
前田利家「家康殿、豊臣家は大名が勝手に縁組するのは禁止している。五大老、五奉行で合議するようにしてもらわなければ困る!」
合戦、野戦の実力は、家康のほうが利家より断然上である。しかし、秀頼公の守り役という絶対的な権力のバックアップがある以上、ここで家康が刃向かっても大儀がない。
豊臣家全体から言えば、この時点の戦力では家康は勝ち目はない。
家康「なにをいいましょうか。私は、秀頼公恩為に姻戚関係を結んでいるわけです。力をつけて、秀頼公に刃をむける諸将がいるなら、私が打ち滅ぼしてやりましょう。私は、太閤殿下に秀頼公をお守りすると約束しました。どうか、お心察してくださいませ。」
まさに、狸芝居である。
利家「以後、気をつけなされ。」
家康は、深々と頭を下げた。
次に、五奉行に同じように姻戚を結んだことを詰問された。
三成が詰問する
三成「豊臣家に無断で姻戚関係をむすぶとは、言語道断 以後 許しませんぞ!」
三成は、秀吉あっての三成である。秀吉という強大な力の後ろ盾を失った今、ただの役人である。
徳川250万石VS石田21万石である。格がちがいすぎる。
家康「許しませんぞ?許さないというのならどうされるのでしょうか。この家康の首でも討ろうとでもいうのでしょうか」センスで、自分の首を打つ仕草をする。
前田利家に詰問されたときとはまったく態度がちがう
家康は、三成から視線をはずした、数分沈黙が続いた
数分だが数時間にも感じられる重い空気であった。
家康は心の中で「この辺でいいだろ今は、」
家康は突然態度をかえた。礼儀正しく座りなおした。
家康「三成殿、失礼を申しました。秀頼公を思う気持ちは同じでございます。今後姻戚関係を結ぶときは五大老、五奉行にご相談いたします。」
三成「以後、よろしくおねがいします」
三成はこのとき、自分の非力さと家康の天下取りの野望を感じた
早く手を打たなければと焦った・・・
三成「 内府(家康)めが・・・・・・許すものか・・」
三月三日 前田利家が病死し
一気に天下の形勢は、うごいた・・