:巨星、墜つ 〜獅子の咆哮と、夢のまた夢〜
1597年5月 秀吉は病床についた。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』
一五九八年、八月十八日。
かつて戦国を遊び尽くし、天下の頂を極めた豊臣秀吉は、この句を遺して波乱の生涯を閉じた。
黄金の茶室も、難攻不落の大坂城も、愛息・秀頼に遺そうとした輝かしい未来さえも。死を前にした英雄の眼には、すべてが朝露のように儚く、実体のない「夢の中の夢」として映っていたのだろうか。
だが、その枕元で平伏する石田三成にとって、これは夢ではなかった。
主君の亡骸を前にして、三成が握りしめていたのは、全大名に血判を迫って築き上げた「誓書」の山だ。
(……たとえこれが夢であろうとも、私はこの『現実』を守り抜く)
三成のその決意をあざ笑うかのように、城内に淀んだ空気が満ちていく。
徳川家康。
秀吉の死を看取ったその男の瞳には、すでに死者への敬意など微塵もなかった。
【現代:築地・波除の風】
「――せいや、さー! せいや、さー!」
突如として、視界が激しく揺れ、色彩が溢れ出した。
鼻を突く死臭は、一瞬にして香ばしい醤油と焼き魚の匂い、そして初夏の湿り気を帯びた「祭りの熱気」に塗り替えられる。
そこは一五九八年の伏見ではない。
現代、東京。中央区築地・波除稲荷神社の例大祭。通称「つきじ獅子祭」の真っ只中だった。
「ちょっと兄ちゃん、ぼーっとしない! ほら、中落ちの軍艦きたよ!」
妹のユイカが、保冷剤を首に巻いたまま、大盛りの皿を差し出してきた。豊洲の大学病院ICUで、さっきまで死線に立つ患者を看ていたとは思えないエネルギーだ。
「……ああ、悪い。ちょっと、変な夢を見てたみたいだ」
「夢? こんな賑やかな中で? 幸せなやつね」
ユイカが笑い飛ばすと、隣で冷えた缶ビールを煽っていた母・紀子が、店先に並ぶマグロの柵を鋭い目で見つめながら口を挟んだ。
「あんた、一丁目の銭湯の常連さんに聞いたわよ。最近、夜中にうなされてるって。あんまり仕事(壁紙貼り)しすぎなんじゃないの? ほら、この赤身。市場の連中が『今日の一番だ』って太鼓判押してたやつ。食べな、血が足りてないんだから」
紀子の言葉には、月島一丁目の路地裏、銭湯の湯気の中で培われた確かなネットワークと、鮮魚への絶対的な自信が宿っている。
「ナオト、夢の内容は……大きな戦か何かか?」
父の一成が、祭りの半纏を羽織って笑いかけてきた。普段は証券会社の部長として数字に追われる父も、今日は月島生まれの「石田さん」の顔だ。
「……ああ。なんだか、凄くリアルな戦だ。ただの、変な夢だけどな」
ナオトは無理に笑い、冷たいビールを喉に流し込んだ。だが、その鉄のようなマグロの味は、夢の中で見た「誓約が引き裂かれる音」と、どうしても重なってしまう。
目の前では、巨大な「千貫宮神輿」と「獅子」が人の海を割りながら進んでいく。担ぎ手の中には、金髪をなびかせて獅子を担ぎ上げる外国人女性たちの姿もあった。本祭りならではの、神輿と獅子三基が揃う圧倒的な迫力。
「この『波除』の名を忘れるなよ、ナオト」
一成が、波除の鳥居を見上げながら静かに言った。
「江戸の初めに、荒波を鎮めてこの地を築いたのは、名もなき民たちの執念だ。たとえ誰かに裏切られようが、波に飲まれようが、俺たちはこうして祭りを続けてきた。理不尽を跳ね除ける力が、この街にはあるんだ」
その言葉に、ナオトは自らの胸の奥で、何かが静かに熱くなるのを感じていた。
【歴史:牙を剥く狐】
しかし、祭りの喧騒の裏側には、常にあの「伏見の闇」がべったりと張り付いている。
ナオトの意識の端で、家康の老獪な「釈明」が蘇る。
一五九八年、冬。
家康は、秀吉が厳禁とした「大名同士の私婚」を次々と強行した。
三成ら奉行衆の激しい追及に対し、家康は平然と、そして慇懃無礼にこう言い放った。
「誓紙(掟)とは、あくまで太閤殿下ご存命中の形式に過ぎぬ。今は天下安泰のため、有力大名を豊臣に繋ぎ止める婚姻こそが最善の策。これは私的な縁組みであり、政略ではない。すべては良かれと思っての措置にござる」
理屈を並べ立て、最高実力者・前田利家に対しては一転して低姿勢を見せ、「相談するつもりであった」「独断ではない」とはぐらかす家康。
そして追及が極限に達すると、あっさりと「不作法であった」と謝罪。形式だけの誓紙を差し出し、時間を稼いでみせた。
「……謝罪さえすれば、すべてが許されると?」
三成の掌の中で、かつての主君が遺した血判状が、乾いた音を立てて震えていた。
法という正義が、力を持つ者の「言葉の魔術」によって骨抜きにされていく。
書類で守れる時代は、終わった。
築地の空に響く獅子の咆哮が、四百年前の三成の、静かな、しかし決死の覚悟と共鳴する。
歴史は今、この「偽りの平和」という名の薄氷を踏み抜き、関ヶ原という名の巨大な渦に向かって、加速を始めたのである。




