天才子役、天城玲奈
日曜日の夜、天城家ではいつものように大河ドラマの放送が始まる少し前からテレビがつけられていた。
玲奈の父はすでに録画を確認しており、母も夕食の片づけを終えている。数週間前の初回放送では両親のほうが落ち着かなかったものだが、毎週同じ時間に娘の出演作を見る生活にも、少しずつ慣れてきていた。
ただし、今日だけは玲奈自身も普段とは違っていた。
ソファに座っている姿こそいつも通りだが、番組が始まる前からテレビへ向ける視線が外れない。これから放送されるのは、何日もかけて撮影した榊原家の落城だった。
「玲奈、緊張してる?」
母に尋ねられた玲奈は少し考え、それから素直に頷いた。
「ちょっとだけ。撮ってるときと、テレビで見るのは全然違うから。どこが使われてるのかも知らないし」
撮影中は藤乃として目の前の相手だけを見ていた。宗景と別れる場面なら父を、水城演じる志乃との場面なら母を、源吾たちと城を出る場面なら家臣たちを見ていたため、完成した物語全体がどう見えるのかは玲奈にも分からない。
やがて番組が始まった。
物語は、榊原家へ敵軍接近の報せが届くところから動き出した。慌ただしく城内を走る兵士たちとは対照的に、宗景は評定の場で冷静に命令を出し続ける。その一方で、志乃と藤乃は奥へ戻り、女中たちと避難の準備を始めていた。
玲奈は黙って画面を見ていた。
撮影した順番とは違う。宗景たちの戦況、城壁を守る兵士、志乃と藤乃のいる奥の部屋が交互に映されることで、城全体が少しずつ追い詰められていく様子が作られている。
若い女中の千代が恐怖で手を震わせる場面になると、藤乃が近づいた。
『お名前は?』
『は、はい。千代と申します』
画面の藤乃は、怖がっている女中を励まそうとはしなかった。自分の荷物を手伝ってほしいと頼み、隣へ座って一緒に作業を始める。
そのあと志乃から怖くないのかと尋ねられた藤乃は、強がることなく答えた。
『……怖うございます』
母の隣で、玲奈は画面を見つめた。
自分の演技なのに、不思議な感覚だった。
撮影したときには、藤乃が怖いと思っているから怖いと答えただけだった。しかし編集された映像では、その直前に怯える千代の姿が映されている。そのため、藤乃自身も怖がっているのに、周囲を安心させるために平静を保っていたことが、撮影時よりはっきり伝わってきた。
「……ここ、こんなふうになったんだ」
玲奈が小さく呟くと、母も頷いた。娘の出演場面だから見ているという感覚は、いつの間にか薄れていた。
物語はさらに進んだ。
城の守りが破られ、宗景が藤乃を逃がすことを決断する。そして、父と母が娘へその決断を伝える場面が始まった。
テレビの前で、玲奈の父が無意識に姿勢を変えた。
宗景から城を出るよう告げられた藤乃は、すぐには泣かなかった。父と母が残り、兄の景親も残ることを一つずつ確認したあと、自分も榊原家の娘なのだから残りたいと訴える。
『お前が残ることは許さぬ』
宗景の声が、静かに響いた。
そこからの場面には、派手な音楽がほとんど使われていなかった。
父娘の声と、遠くから聞こえる戦の音だけが残されている。
『……それでは、父上たちとは、もうお会いできないのですか』
藤乃が尋ねる。
宗景は答えない。
その沈黙だけで、藤乃は答えを知る。
画面いっぱいに映された少女の目に涙が溜まり、一筋だけ頬を伝った。それでも玲奈は顔を歪めず、父から視線を逸らさなかった。
玲奈の父は、そこで隣にいる娘を一度見た。
今の玲奈は、テレビを真剣に見ている普通の少女だった。
画面の中にいる藤乃とは、まるで違う。
『藤乃。父からの、最後の命令だ』
宗景が娘の両肩へ手を置く。
『必ず生きよ。どれほど苦しいことがあろうとも、お前は生き延びるのだ』
玲奈の母が、わずかに息を呑んだ。
そのあとの志乃との別れも、ほとんど削られずに残されていた。母の腕の中で藤乃は泣き崩れず、ただ衣装を強く握っている。その小さな手が大きく映ったことで、少女がどれほど別れを拒みたいのかが、言葉以上に伝わっていた。
『……ありがとうございます、母上』
志乃が娘を離す。
藤乃は涙を残したまま姿勢を正し、父と母へ深く頭を下げた。
『……承知いたしました。父上のご命令、必ず果たしてみせます』
玲奈の家では、誰も話さなくなっていた。
自分が出演している玲奈まで黙っている。
宗景が「よい娘に育ったな」と告げたあと、藤乃が返した言葉も残されていた。
『父上と母上の娘ですから』
そこで場面が切り替わった。
父親が小さく息を吐く。
「……これ、撮影のときもこんな感じだったの?」
「うん。でも私、真田さんの顔しか見てなかったから、母上がこんな顔してるの知らなかった」
玲奈は画面から目を離さずに答えた。
自分の芝居よりも、後ろで娘を見ていた志乃の表情が気になっているらしい。母はそれ以上話しかけず、娘と一緒に続きを見ることにした。
城からの脱出が始まった。
源吾たちに守られながら裏門へ向かう藤乃は、途中で家臣たちにも残してきた家族がいることを知る。その場面を経たことで、藤乃が単に自分だけを守られているわけではないことが、視聴者にも伝わる構成になっていた。
そして物語は、最後の場面へ入った。
山道へ向かう馬上の一行。
その背後で、榊原家の城から煙が上がっている。
音楽が消えた。
聞こえるのは馬の足音と、風の音だけだった。
藤乃が源吾を呼び、馬を止める。
ゆっくりと振り返った先に、生まれ育った城があった。
玲奈は、自分が撮影した場面であることを忘れかけていた。
映像の中の藤乃は、ただ城を見ている。
大声で父や母を呼ぶこともない。
涙を拭うこともしない。
やがて一筋の涙が頬を流れ、藤乃は馬上から深く頭を下げた。
源吾が続いた。
さらに家臣たちが続く。
誰一人として言葉を発しない。
しばらくして藤乃が顔を上げる。
涙は残っていた。
それでも、視線は前へ向いた。
『……分かりました。皆の者、参ります』
家臣たちの返事が重なる。
藤乃の馬が前へ出た。
その左右と後ろを、源吾たちが守るように進み始める。
カメラは少しずつ遠ざかり、山道へ入っていく一行を映していた。
最後まで藤乃は振り返らなかった。
場面が暗転した。
次の瞬間、物語は別の土地へ移った。
玲奈の父は、しばらく何も言わなかった。
母も同じだった。
玲奈だけが少し前のめりになりながら、まだテレビを見ている。
やがてエンディングが流れ始めると、玲奈はようやく背もたれへ身体を預けた。
「……すごかった」
最初に出てきた感想がそれだった。
母が思わず娘を見る。
「自分で言うの?」
「違うよ! 全部だよ。お城とか、音とか、真田さんたちとか。撮ってるときと全然違ったもん」
玲奈が慌てて説明すると、父と母は同時に笑った。
本人には、自分がこの回の中心にいたという意識があまりないらしい。
しかし、同じ時間に放送を見ていた視聴者の受け止め方は違っていた。
番組終了直後から、インターネット上では榊原家の落城について多くの感想が投稿され始めた。宗景と志乃の別れ、跡継ぎとして城へ残った景親、源吾の忠義について語る人がいる一方、藤乃について触れる投稿は放送前とは比較にならない速度で増えていた。
藤乃役の子は誰なのか。
本当に八歳前後なのか。
泣き叫ばないからこそ別れがつらかった。
最後の礼で泣いた。
家臣たちが姫へ従っているようにしか見えなかった。
そして何より多かったのが、ある感想だった。
――本当に姫に見えた。
その言葉が、さまざまな形で繰り返されていた。
衣装が似合うという意味だけではない。
藤乃が座れば、その場に姫がいる。
家臣へ言葉をかければ、相手が自然と頭を下げる。
城へ最後の礼をして前を向けば、家臣たちがそのあとを追う。
子役が姫を上手に演じているという感想よりも、榊原藤乃という少女が本当に存在しているようだったという声が増えていった。
その中で、天城玲奈という名前も急速に広がっていく。
以前のドラマで彼女を知っていた人たちは、病院を舞台にした作品で水野千夏を演じていた子だと気づいた。明るい小川ひなたを覚えていた視聴者からは、同じ子だとは思わなかったという反応も出ている。
役ごとに印象が違う。
けれど、今回の藤乃はそれまで以上に強烈だった。
やがて投稿の中には、玲奈を「天才子役」と呼ぶものまで現れ始めた。
その夜、玲奈本人はそんな言葉が広がっていることなど知らないまま、翌日の学校の準備をして眠った。
変化を最初に実感したのは、翌朝だった。
学校へ到着した玲奈が教室へ入ると、何人かの同級生がすぐに集まってきた。以前から玲奈がテレビへ出演していることは知られていたため、声をかけられること自体は珍しくない。
しかし今日は、いつもより明らかに人数が多かった。
「玲奈ちゃん、昨日見たよ! 最後すごかった!」
「お城、本当に燃えてたの?」
「馬に乗ってたの玲奈ちゃんだよね?」
次々に質問され、玲奈はランドセルを机へ置きながら少し困った顔をした。それでも一つずつ答えようとしていると、今度は別の子が真剣な顔で尋ねてくる。
「お父さんとお母さん、本当に死んじゃったの?」
「私のお父さんとお母さんは元気だよ?」
「違うよ、テレビの!」
「あ、父上と母上のこと?」
玲奈が納得した瞬間、周囲から笑い声が上がった。
本人にとって宗景と志乃は撮影中ずっと「父上」と「母上」だったため、反射的にそう呼んでしまったらしい。
「まだ先のお話は言っちゃ駄目って言われてるから、教えられないの。ごめんね」
玲奈がそう答えると、同級生たちは残念そうにしながらも納得した。放送を見ていなかった子まで周囲の話を聞いて興味を持ち、次は見てみると言い始める。
玲奈にとって、その反応は素直に嬉しかった。
自分を褒められること以上に、一緒に作っている作品を面白いと言ってもらえることが嬉しい。
同じころ、撮影所でも昨日の放送が話題になっていた。
玲奈が現場へ入ると、普段なら挨拶を返すだけのスタッフからも次々に声をかけられた。本人は少し照れながら礼を言い、そのままいつものように衣装とメイクの準備へ向かう。
控室を出たところで、柴崎と出会った。
「おはようございます、柴崎さん。今日もよろしくお願いします」
「おはようございます、姫様」
柴崎は真面目な顔で深く頭を下げた。
玲奈は一瞬だけ固まり、それから頬を膨らませる。
「またそれですか?」
「昨日の放送を見たら、もう普通に挨拶するほうが難しくなりましてな」
柴崎が笑うと、玲奈もすぐに笑った。そこへ真田までやって来たため、玲奈は昨日の完成映像が格好よかったことを伝える。
「真田さん、昨日すごかったです。父上が藤乃に生きろって言うところ、撮影してるときよりもっと怖くて、でも優しく見えました」
「それ、俺が玲奈ちゃんに言おうと思ってたんだけどな」
真田は苦笑した。
昨日の放送後、真田のもとにも多くの連絡が届いていた。知人の俳優やスタッフから作品への感想が送られ、その中には藤乃を演じている子役について尋ねるものも少なくなかった。
「玲奈ちゃん、自分が何て言われてるか知ってる?」
「藤乃がよかったって、学校で言ってもらいました」
「それもそうだけど、天才子役って呼んでる人が結構いるみたいだよ」
玲奈は目を瞬いた。
それから、少し困ったように眉を下げた。
「……それは、ちょっと恥ずかしいです」
真田は、その返事に笑った。
「嫌なの?」
「嫌じゃないです。でも、私だけじゃないので。昨日の場面も、真田さんと水城さんと柴崎さんがいてくれたからできたし、マロンも頑張ってくれました」
玲奈は本気でそう思っていた。
自分だけが特別な演技をしたという感覚はない。宗景が本当に父親のように向き合ってくれたから別れが悲しかった。志乃が母として抱きしめてくれたから、その腕を離れたくないと思えた。源吾たちが本当に家臣のように頭を下げてくれたから、自分も姫として前へ進めた。
真田は、その言葉を聞いて少しだけ表情を変えた。
「玲奈ちゃん。それ、たぶん大事なことだから忘れないほうがいいよ」
「はい?」
「相手がいるから芝居ができるって思えること。上手くなればなるほど、忘れちゃう人もいるからね」
玲奈は完全には意味を理解できなかったものの、真田が大切なことを言っているのは分かった。だから素直に頷き、その言葉を覚えておくことにした。
その日の撮影が始まる前、監督から玲奈へ新しい台本が渡された。
これまで受け取っていたものより、藤乃の登場場面が増えている。
「監督、藤乃のお話、増えたんですか?」
「少しね。ただし昨日の評判を見て急に増やしたわけじゃないよ。落城の撮影を見た時点で、脚本家さんと相談していたんだ」
監督はそう前置きしてから、変更された構成を説明した。
城を失った藤乃は、源吾たちに守られて別の領主のもとへ身を寄せる。しかし、ただ安全な場所で景親との再会を待つのではない。避難してきた領民や、家族を失った子供たちと接しながら、自分と同じように故郷を失った人々の存在を知っていく。
もちろん藤乃が軍を率いたり、政治を動かしたりするわけではない。
八歳の少女にできることには限界がある。
だからこそ、藤乃にしかできないことを描く。
「源吾たちは藤乃を守る。でも藤乃がいることで、源吾たちも榊原家がまだ終わっていないと思える。そういう関係を、もう少し描きたいんだ」
玲奈は新しい台本を見ながら、ゆっくりと頷いた。
自分の出番が増えたことより、その先の藤乃を演じられることのほうが嬉しかった。
「藤乃は、もうお城には帰れないんですよね」
「今のところはね」
「だったら、前と同じ藤乃じゃ駄目ですよね」
監督は答えず、玲奈の続きを待った。
「父上と母上がいなくなって、源吾たちと一緒に暮らしてるなら、藤乃も少しずつ変わると思います。でも、急に大人になるわけじゃないし……」
玲奈は台本をめくりながら考えていた。
その表情を見て、監督は口を挟まなかった。
以前なら、ここで玲奈へ役の変化を説明していたかもしれない。
今は違う。
玲奈自身が藤乃の人生を考え始めている。
「寂しいときは、寂しいままでいいと思います。でも皆の前では、父上たちから教えてもらった藤乃でいようとするんじゃないかな」
玲奈は顔を上げた。
「そんな感じですか?」
「うん。まずはそれでやってみよう」
監督は、それ以上の指示を出さなかった。
答えを教える必要がなかった。
玲奈が考えた藤乃を、まずカメラの前で見てみたいと思ったからだった。
撮影準備のために玲奈が離れたあと、監督の隣へ脚本家がやって来た。
「どうでした?」
「問題ないですね。むしろ、こっちが説明しすぎないほうがいい」
監督は新しい台本を閉じた。
昨日の放送によって、世間では「天才子役・天城玲奈」という言葉が広がり始めている。
だが制作現場にいる者たちにとって、その呼び名は少しだけ違って聞こえていた。
玲奈は、一人で完璧な芝居を見せて周囲を圧倒するタイプではない。
相手を見る。
相手の言葉を聞く。
役として受け止める。
すると相手も、その役として返したくなる。
その積み重ねによって、台本に書かれた場面が撮影中に少しずつ生き始める。
真田も、水城も、柴崎も、それを経験していた。
だから現場では、玲奈を相手にするときだけ俳優たちの空気が少し変わる。
何を返してくるのか楽しみになるのだ。
監督は、セットの向こうにいる玲奈を見た。
今日は源吾たちと新しい土地へ到着する場面から撮影する。
城もない。
父も母もいない。
藤乃が持っているものは、自分の名前と、榊原家の姫として育てられた誇り、そして自分を守るためについてきてくれた家臣たちだけだった。
ここから先、本当の意味で藤乃自身の物語が始まる。
その最初の場面で玲奈がどんな姫を見せるのか、監督自身にもまだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
昨日まで「将来が楽しみな子役」として見られていた少女は、もうそこにはいなかった。
大河ドラマの一夜を境に、天城玲奈という名前は、多くの視聴者にとって忘れられないものになり始めていた。




