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悪役令嬢、現代日本で女優になる。~IFルート〜今度こそ自分の才能を自分のために使います  作者: にゅん


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22/37

大河ドラマ、撮影開始

 大河ドラマの撮影初日、藤乃の衣装をまとって榊原家の屋敷へ足を踏み入れた玲奈は、足を止めることなく廊下を進んだ。


 撮影用に建てられた屋敷を見るのは今日が初めてだった。衣装合わせや所作稽古では写真や簡単な見取り図を見せてもらっていたものの、実際に組まれたセットは想像していた以上に細かく作り込まれている。柱や襖だけでなく、庭へ続く廊下にはわずかな傷まであり、部屋に置かれた文箱や硯にも新品らしい不自然な光沢はなかった。


 それでも玲奈は、観光客のように周囲を眺めなかった。


 藤乃にとって、この屋敷は珍しい場所ではない。


 八年間暮らしてきた自分の家である。


 玲奈は案内するスタッフの後ろを歩きながら、どの部屋が父の居室として使われ、どこから庭へ出られるのかだけを自然に視界へ入れた。撮影が始まってから場所を探すのではなく、藤乃なら知っていて当然のこととして身体へ馴染ませるためだった。


「おはよう、玲奈ちゃん。いよいよね」


 声をかけてきたのは、母・志乃を演じる水城香織だった。すでに衣装も髪も整っており、普段会っているときより表情まで落ち着いて見える。


「おはようございます。今日からよろしくお願いします」


 玲奈が挨拶すると、その少し向こうから兄・景親役の相沢悠真もやって来た。十一歳の悠真は子役として玲奈より長い経験を持っているが、今日は何度も袖や帯の位置を確認しており、いつもより口数が少ない。


 玲奈が「緊張してる?」と尋ねると、悠真は一瞬だけ黙ったあと、「大河の初日なんだから少しくらいするだろ」と答えた。玲奈が笑えば、「玲奈ちゃんが平気すぎるんだよ」と今度は向こうが呆れた顔をする。


 平気というわけではない。


 玲奈にも緊張はある。


 ただ、それ以上に藤乃を演じられることが楽しみだった。


 オーディションから今日まで、何度も台本を読み、家族役の俳優たちと顔を合わせ、所作と乗馬の稽古を続けてきた。以前の作品なら撮影初日に初めて分かることがいくつもあったが、今回は準備にかけた時間そのものが違う。


 やがて宗景役の真田征吾が現れ、榊原家の四人が揃った。


 撮影前の真田は普段通り穏やかだったが、衣装をまとって部屋の上座へ座ると雰囲気が変わった。大声を出すわけでも威圧するわけでもない。それでも、そこが自然と当主の座に見える。


 玲奈は自分の位置へ座りながら、その変化を静かに受け取った。


 今日最初に撮影するのは、榊原家の朝の一場面だった。


 宗景が家臣から届いた書状へ目を通し、志乃が子供たちの様子を見ている。景親は午後の弓稽古について父から尋ねられ、そこへ藤乃が口を挟む。


 物語を大きく動かす出来事は何もない。


 だからこそ監督は、撮影前に細かな演技を指定しなかった。


「ここは後で失うことになる家族の日常です。ただ、まだ誰もそんな未来を知りません。悲劇の前だからといって意味ありげにしないでください。いつもの榊原家の朝としてお願いします」


 四人が頷く。


 玲奈は一度だけ室内を見回し、それから藤乃の位置へ座った。


 所作を頭の中で確認する必要はなかった。


 母の前でどの程度姿勢を崩してよいのか、父が仕事をしているときにどこまで口を挟めるのか、兄に対してだけ少し態度が変わることも、すでに玲奈の中では一つにつながっている。


 撮影開始の声が響いた。


 宗景が書状を読んでいる。


 藤乃は静かに待っていた。


 姿勢は美しい。


 しかし人形のように固まっているわけではない。


 父が書状を畳む音に視線だけが動き、宗景が景親へ顔を向けると、藤乃もわずかに兄を見る。


「景親。今日の弓稽古は何刻からだ」


「昼餉のあと、師範に見ていただきます」


 悠真の景親が答える。


 そこで藤乃の目に、ほんの少しだけ悪戯っぽい光が浮かんだ。


「兄上。昨日より当たるとよろしいですね」


 景親が横を向いた。


「余計なお世話だ」


「昨日は十本のうち三本だったと聞きました」


「誰から聞いた」


「秘密です」


 藤乃は上品に座ったまま、涼しい顔をしている。


 笑い声を上げたり、兄へ身を乗り出したりはしない。


 それでも明らかに楽しんでいる。


 景親が言い返そうとしたところで、志乃が藤乃へ視線を向けた。


「藤乃。朝から兄をからかうものではありません」


 母の声を聞いた瞬間、藤乃の表情が変わった。


 先ほどまでの悪戯っぽさが消え、背筋がわずかに伸びる。


「申し訳ございません、母上」


 綺麗な謝罪だった。


 しかし水城の志乃は、そこで次の台詞へ進まなかった。


 娘の顔をしばらく眺める。


「本当に反省しておりますか?」


 台本にはない言葉だった。


 撮影現場にわずかな緊張が走った。


 玲奈は止まらなかった。


 藤乃の視線がほんの一瞬だけ兄へ向かう。


 景親は少し得意そうな顔をしていた。


 それを見た藤乃は母へ視線を戻し、今度は先ほどより少しだけ深く頭を下げた。


「……兄上が今日こそ十本すべて当てられるよう、心より願っております」


 反省しているとは一言も言わなかった。


 水城の口元が動いた。


 志乃として笑うのを堪えたのだ。


 その変化を真田も拾った。


「志乃。そのあたりで許してやれ。藤乃なりに兄を案じているらしい」


「父上まで!」


 景親が抗議すると、宗景は書状を脇へ置きながら息子を見る。


「ならば今日、十本すべて当てればよい。妹も二度と余計な心配をせずに済む」


 悠真は一瞬だけ真田を見た。


 この言葉も台本にはない。


 それでも景親としてすぐに父へ向き直った。


「……必ず当てます」


 その返事を聞いた藤乃が、兄へ丁寧に頭を下げた。


「楽しみにしております」


「お前は絶対楽しんでるだろ」


 景親の口調がわずかに崩れた。


 藤乃は何も答えず、母に見えない角度でほんの少しだけ笑った。


 水城がそれに気づく。


 真田も気づく。


 二人とも何も言わない。


 その瞬間、本当に何度も繰り返されてきた榊原家の朝のような空気が生まれていた。


 監督は止めなかった。


 予定されていた場面は、すでに終わりへ近づいている。


 それでも真田は宗景のまま玲奈へ顔を向けた。


「ところで藤乃。お前も今日は馬の稽古だったな」


 玲奈の表情が変わった。


 兄をからかっていたときより目元が明るくなる。


「はい、父上」


「師範を困らせてはいないだろうな」


「困らせてなどおりません。先日は褒めていただきました」


 藤乃はそう答えながら、わずかに顎を引いた。


 露骨に自慢はしない。


 榊原家の姫としての気品は崩さない。


 それでも父に褒めてもらいたい八歳の娘であることは隠しきれていなかった。


 真田の宗景が、そのわずかな変化を見つける。


「そうか。では今日、時間があれば父も見に行こう」


 藤乃の目が大きくなった。


 すぐに笑顔になりそうになり、それを少しだけ抑える。


「……ありがとうございます。お待ちしております」


 頭を下げる。


 その姿を見た宗景が微笑み、志乃も娘を見る。


 景親だけが少し面白くなさそうだった。


「父上、俺の弓は?」


「もちろん見る」


「ついでみたいに言わないでください」


 真田が笑った。


 水城も笑みを浮かべる。


 藤乃は兄へ勝ち誇った顔を向けようとして、母の視線に気づき、何事もなかったように前へ戻った。


「カット」


 監督の声が響いた。


 そこで初めて四人が役から離れた。


 玲奈は小さく息を吐き、隣の悠真を見る。


「お兄様、十本当てないと」


「もう撮影終わったから!」


 悠真の返事に周囲から笑いが起こった。


 初日の最初の本番だった。


 玲奈は一度も台詞を間違えていない。


 所作も崩れていない。


 立ち位置の修正も入らなかった。


 何より、台本にない言葉を水城や真田から向けられても、天城玲奈へ戻る瞬間がなかった。


 監督はモニターを確認したあと、撮り直しを指示しなかった。


「次へ行きましょう」


 その一言でスタッフが動き始めた。


 玲奈は少し意外そうに監督を見る。


 これまでの撮影では、同じ場面を角度違いで撮る場合を除いても、演技上の細かな修正を入れてもう一度撮ることが珍しくなかった。


 今日は何もない。


 水城が玲奈の視線に気づいた。


「撮り直したかった?」


「そういうわけじゃないですけど……何も言われなかったので」


「言うことがなかったんじゃない?」


 水城はそう言ってから、自分の台本へ目を落とした。


「それより私の方が驚いたわ。途中で台本にないことを言ったのに、玲奈ちゃん、私が何を言うか待ってる感じが全然なかったもの」


 玲奈には、その意味がよく分からなかった。


 志乃から「本当に反省しておりますか」と聞かれた。


 だから藤乃として答えただけだった。


「母上なら、あのまま許してくれないと思ったので」


「だから、それができるのがすごいのよ」


 水城は笑ったが、それ以上説明しなかった。


 次の撮影準備が始まっている。


 今度は志乃と藤乃の二人だけだった。


 客人を迎える前、母が娘の衣装を整えながら、榊原家の姫としての振る舞いを確認する場面である。


 玲奈が座ると、水城が後ろから襟元を整えた。


 本番が始まる。


「本日は北山殿がお見えになります。ご挨拶を忘れてはいけませんよ」


「承知しております、母上」


「先日のように景親と言い争うこともなりません」


 藤乃の目が少しだけ横へ動いた。


「先日は兄上が先に――」


 言いかけたところで、志乃の指が襟元で止まる。


 藤乃も止まった。


 母の顔を見なくても分かる。


「……いたしません」


 志乃は何も言わず、衣装を整え続けた。


 それだけで母娘の関係が見える。


 何度も同じような注意を受けてきたのだろう。


 やがて水城が藤乃の肩へ手を置いた。


「藤乃。お前はまだ八つです。ですが、客人はお前をただの子供として見るとは限りません」


 玲奈は母を見る。


「榊原家の姫として見られる、ということですね」


「ええ」


 藤乃は少し考えた。


 嫌そうではない。


 重荷だとも思っていない。


 それは生まれたときから教えられてきた、自分の立場だった。


「ならば、恥じぬようにいたします」


 水城が藤乃を見る目に、わずかな変化が生まれた。


 台本では、このあと「よろしい」と答えるだけだった。


 しかし水城は、玲奈の頬へそっと手を添えた。


「立派になりましたね」


 藤乃が目を瞬いた。


 予想していなかった言葉だった。


 けれど玲奈にはならない。


「まだ母上には、毎日のように叱られております」


「それとこれとは別です」


 志乃の指が娘の頬を撫でる。


 藤乃は少しだけ困ったように笑った。


 姫として褒められたときの顔ではない。


 母親から褒められた娘の顔だった。


 その表情を見た水城の方が、次の台詞を忘れそうになった。


 ほんのわずかな間が生まれる。


 だが、その間すら母が娘を見つめている時間に変わった。


「母上?」


 藤乃から呼ばれ、水城は微笑んだ。


「何でもありません。参りましょう」


「はい」


 二人が立ち上がる。


 藤乃は母より半歩後ろを歩き、そのまま画面の外へ消えた。


「カット。オーケーです」


 また一度だった。


 監督は撮り直しを求めない。


 スタッフが次の準備へ移る。


 水城は廊下へ出たところで玲奈を振り返った。


「危なかった」


「何がですか?」


「玲奈ちゃんの顔を見てたら、本当に娘みたいに思えて次の台詞が飛びそうになった」


 冗談のような口調だったが、水城の表情は半分ほど本気だった。


 玲奈は困った。


「それは……ごめんなさい?」


「謝るところじゃないわよ」


 水城は笑いながら玲奈の肩へ軽く触れた。


「むしろ、そのままでいて」


 午後の撮影では、宗景と家臣が庭先で領地について話す場面に藤乃が短く登場した。


 本来の台本では、藤乃は父へ用事があって近づき、仕事中だと気づいて引き返す。それだけの場面だった。


 撮影が始まる。


 玲奈は廊下を歩いてきた。


 遠くに父を見つける。


 少しだけ歩調が速くなった。


 声をかけようとして、止まる。


 宗景の隣に家臣がいる。


 二人の表情を見る。


 父は普段より険しい顔をしていた。


 藤乃は近づかなかった。


 子供だから話の内容は分からない。


 それでも、自分が割り込んでよい時間ではないことは分かる。


 玲奈は静かに頭を下げ、その場を離れようとした。


「藤乃」


 真田が呼び止めた。


 台本にはない。


 玲奈が振り返る。


「はい、父上」


「何か用があったのではないか?」


 藤乃は家臣を見る。


 自分より遥かに年上の父の家臣。


 先にその男へ向かって礼をした。


「お話し中に失礼いたします」


 家臣役の俳優が反射的に姿勢を正した。


「いえ、藤乃様」


 声まで変わった。


 それまで宗景と話していた家臣ではなく、主家の姫を前にした家臣になっている。


 藤乃は父へ向き直った。


「本日の馬の稽古ですが、師範より新しい乗り方を教わりました。父上にも、もしお時間がございましたら見ていただきたいと思いまして」


 朝の場面につながる言葉だった。


 真田はわずかに目を細めた。


 脚本にはない。


 しかし今朝、自分が「時間があれば見に行こう」と言った。


 藤乃はそれを覚えている。


 宗景も忘れるわけにはいかなかった。


「約束したからな。仕事を終えたら必ず行こう」


 藤乃の顔に、朝と同じ喜びが浮かぶ。


「ありがとうございます」


 頭を下げる。


 家臣へも再び礼をする。


「お邪魔いたしました」


 そのまま藤乃は去っていった。


 家臣役の俳優が、玲奈の背中を見送っている。


 本来ならここで宗景との会話へ戻る。


 しかし彼は、すぐには戻らなかった。


「……よき姫君になられましたな」


 自然に出た言葉だった。


 真田も台本を追わない。


「まだ八つだ」


「されど、我ら家臣への振る舞いまで、すでに志乃様によく似ておられる」


 宗景が娘の去った廊下を見る。


 少しだけ誇らしそうだった。


「妻の教えがよいのだろう」


「殿のお血筋でもございましょう」


「それはどうかな」


 宗景が笑う。


 そこで監督からカットが入った。


 玲奈は画面の外で待っていたため、そのあとの会話を知らない。


 監督はすぐに映像を確認した。


「今の残しましょう」


 家臣役の俳優が少し驚いた。


「最後のところもですか?」


「そこまで。藤乃が入ってきたことで家臣の態度が変わるのもいい。宗景が娘をどう見てるかも出た」


 監督の言葉を聞きながら、真田は廊下の向こうにいる玲奈を見た。


 今日だけで何度目だろう。


 玲奈が予定にないことをしているわけではない。


 奇抜なアドリブを入れているわけでもない。


 相手役から目立つ場面を奪ってもいない。


 ただ藤乃としてそこにいる。


 それだけで、相手が反応する。


 水城は予定になかった言葉を娘へかけた。


 真田は本来なら通り過ぎる藤乃を呼び止めた。


 家臣役の俳優は、玲奈が礼をした瞬間に自然と姿勢を正し、その後には台本にない言葉まで出てきた。


 誰も玲奈に引っ張られているつもりはない。


 しかし撮影された映像を見ると、藤乃が現れた瞬間から周囲の芝居まで少しずつ変わっている。


 真田は朝の読み合わせとは別の感覚を覚えていた。


 上手い子役なら、これまでにも何人も見てきた。


 台詞を間違えない子もいる。


 泣く芝居が上手い子も、監督の指示を一度で理解する子もいた。


 玲奈も、少し前まではその延長にいた。


 覚えるのが異常に速い子。


 一度注意されれば、次には変えてくる子。


 けれど今日の玲奈は、それだけではなかった。


 教えられた正解を再現しているのではない。


 藤乃が相手を見る。


 すると相手が藤乃へ反応する。


 その反応を受けて藤乃がまた変わり、さらに相手の芝居が動く。


 七歳の少女を中心に、芝居そのものが循環していた。


「真田さん、次お願いします」


 スタッフから呼ばれ、真田は視線を戻した。


「ああ、今行く」


 次の撮影へ向かう途中、真田は玲奈のそばを通った。


「玲奈ちゃん」


「はい?」


「今日、楽しい?」


 突然の質問だった。


 玲奈は少し考えるように首を傾けたが、すぐに笑った。


「はい。すごく楽しいです」


「そうか」


 真田はそれだけ聞いて歩き出した。


 玲奈は不思議そうにその背中を見送ったあと、自分も次の撮影場所へ向かう。


 初日の撮影は、その後も大きく止まることなく進んだ。


 もちろん照明の調整やカメラ位置の変更、別角度からの撮影は何度もある。ほかの俳優が台詞を言い直すこともあり、技術上の理由で撮影が止まることもあった。


 ただ一度も、玲奈の芝居が成立していないという理由で撮り直しにはならなかった。


 それどころか、午後になるころには監督から玲奈への説明そのものが短くなっていた。


「次は宗景を見送る場面。藤乃としてお願いします」


「はい」


 それだけで始まる。


 細かな表情の指定はない。


 どこで悲しそうにするのか、どこで笑うのかも言われない。


 玲奈が藤乃として相手を見れば、必要な反応がそこから生まれる。


 撮影終了の声がかかったのは、外がすっかり暗くなってからだった。


 初日を終えた玲奈は衣装を脱ぎ、普段着へ戻って母と佐伯のところへ向かった。


「どうだった?」


 母に聞かれ、玲奈は少し考えた。


 大変だった。


 長かった。


 緊張もした。


 けれど最初に口から出たのは別の言葉だった。


「藤乃でいるの、楽しかった」


 母はそれを聞いて笑った。


 佐伯は何も言わず、少し離れた場所にいる監督たちを見ていた。


 スタッフが翌日の確認をしている。


 その中で監督と真田、水城が何か話していた。


 話題が誰なのかは、何度かこちらへ向けられる視線で分かった。


 けれど玲奈本人は気づいていない。


 母と一緒に帰り支度をしながら、明日は何を撮るのか台本を確認している。


 その背中を見ながら、真田が監督へ言った。


「オーディションのときより、かなり変わりましたね」


「俺もそう思う。上手くなったというより、役の中で考えるようになった」


 水城も頷いた。


「こっちが玲奈ちゃんを子役だと思って芝居すると、たぶん合わなくなるわ。今日、途中から普通に志乃として返してたもの」


 監督は今日撮影した映像が表示されたモニターへ視線を戻した。


 画面の中では、藤乃が母の隣に座っている。


 背筋を伸ばし、姫としての気品を崩さない。


 それでも母に褒められれば、八歳の娘として嬉しそうに笑う。


 別の映像では、父の家臣へ丁寧に礼をしている。


 その瞬間、相手役の俳優まで自然と姿勢を正していた。


「この子の藤乃、面白くなりそうだな」


 監督が呟いた。


 まだ世間は知らない。


 大河ドラマの放送が始まるのは、もう少し先である。


 天城玲奈という名前を知っている視聴者も、現時点では決して多くない。


 九条美月、小川ひなた、水野千夏。


 いくつかの役を経験し、業界の一部から「吸収の速い子」として名前を覚えられ始めた程度だった。


 けれど、この日を境に現場での見られ方は少しずつ変わっていく。


 教えればすぐできる子役ではない。


 失敗を一度で直せる子役でもない。


 相手役が予定していなかった表情を返し、ベテラン俳優さえ台本の外側へ連れていく。


 そして本人は、それを特別なことだと思っていない。


 ただ藤乃として相手を見て、藤乃ならどう感じるのかを考え、そのまま演じているだけだった。


 大河ドラマの撮影初日。


 後に天城玲奈が「天才子役」と呼ばれるようになる、その最初の一日は、一度の演技上の撮り直しもなく静かに終わった。

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