榊原家の姫
最後の乗馬稽古の日、玲奈が練習用の着物へ袖を通して馬場へ出ると、これまでとは明らかに違う光景が広がっていた。
マロンのほかにも数頭の馬が用意され、すでに練習用の着物を身につけた俳優たちがスタッフと打ち合わせをしている。今日は玲奈一人の技術を確認する日ではなく、落城後に藤乃を守って城を離れる家臣たちを交え、本番に近い配置で動く最初の日だった。
衣装も撮影用に近づいている。
袖や裾は普段の乗馬服より扱いにくいが、それを気にして小さく動けば藤乃には見えない。榊原家の姫である彼女にとって、この形の衣服は特別なものではなく、生まれたときから身近にあった日常着なのだから。
玲奈は馬場へ入る前に袖を一度だけ確認し、それ以降は触らなかった。
「天城玲奈さんですね」
声をかけてきたのは、四十代半ばほどの男性だった。
背が高く、穏やかな表情をしているが、練習用の着物を身につけて立つ姿には不思議な重みがある。玲奈が見覚えを探しているうちに、男性の方から名乗った。
「久世源吾役の柴崎宗一です。よろしくお願いします」
玲奈はすぐに姿勢を整えた。
久世源吾。
宗景へ長年仕える重臣であり、落城時には藤乃を守って城から脱出する役目を任される人物である。
「天城玲奈です。よろしくお願いいたします」
玲奈が礼をすると、柴崎も同じように頭を下げた。
周囲にいた二人の家臣役とも挨拶を交わす。
初対面だからといって、長く雑談することはなかった。
今日は全員が馬へ乗る。
互いの技量も馬の性格も分からない状態で芝居へ入るわけにはいかず、乗馬担当者を中心に位置関係や緊急時の動きについての確認が始まった。
玲奈は説明を聞きながら、馬場に置かれた目印へ視線を向けた。
藤乃は中央。
源吾が斜め前。
二人の家臣が左右と後方を固める。
その配置を見たとき、玲奈の中で落城場面の印象が少し変わった。
藤乃はただ連れられて逃げる少女ではない。
家臣たちは彼女を囲んでいる。
守るべき姫として。
榊原家当主である宗景が城へ残る以上、源吾たちが命を懸けて守ろうとしているのは、その娘である藤乃だった。
八歳だから守られるのではない。
榊原家の姫だから守られる。
もちろん、幼い彼女を案じる気持ちもあるだろう。
それでも家臣たちが命令を受け、馬へ乗り、城から離れる理由には、それだけではない重さがあった。
玲奈はマロンの首筋へ触れたあと、補助を受けながら鞍へ跨がった。
練習用の着物で馬へ乗るのは初めてだったが、想像していたほど大きな違和感はなかった。衣装スタッフと乗馬担当者が安全に動けるよう事前に調整してくれており、玲奈自身が余計なことをしなければ問題なく乗れる。
最初は芝居を入れず、四頭で馬場を進んだ。
一頭だけで練習していたころとは勝手が違う。
前を進む馬との距離を意識しすぎれば、横の馬が視界から外れる。周囲へ合わせようと細かく速度を変えれば、かえってマロンの歩調が落ち着かない。
玲奈は何度か位置をずらしたものの、無理に戻そうとはしなかった。
以前の稽古で真田から教えられたことを覚えている。
自分一人ですべてを正しくしようとしない。
周囲の大人たちも玲奈を見ている。
二周目に入るころには、家臣役の俳優たちも玲奈とマロンの歩調を掴み始め、四頭の動きが自然に揃っていった。
完全な等間隔ではない。
それでも、藤乃を中心に一団が動いているように見える。
玲奈は前方を見ながら、その感覚を覚えた。
しばらくすると、乗馬担当者が少し離れた位置から声をかけた。
「今度は、役として進んでみましょう。ただし台詞は決めません。城を出たあとだと思って、指定位置までお願いします」
玲奈は小さく息を吸った。
ここからは天城玲奈として馬を動かすだけではない。
藤乃として、この人たちと城を離れる。
先頭の柴崎が源吾へ変わった。
「姫様。参ります」
玲奈はすぐに返事をしなかった。
視線だけを源吾へ向ける。
父は城に残っている。
母も残っている。
兄とは別の道へ分かれた。
藤乃がここで泣き叫び、馬を降りて戻ろうとすれば、家臣たちは力ずくでも止めるだろう。
だが、藤乃はそのように育てられてはいない。
怖くないわけではない。
納得できたわけでもない。
それでも父が源吾へ自分を託したのなら、その命令を自分の感情だけで無駄にしてはいけないことくらい理解している。
「承知しました」
玲奈の返事に、幼さは残っていた。
それでも声は崩さない。
マロンを進ませる。
源吾たちも動き出した。
馬場を進む四頭の中で、玲奈は先ほどまでより姿勢を高く保っていた。
格好よく見せるためではない。
家臣たちが自分を見ているからだ。
父と母を城へ残したのは藤乃だけではない。
ここにいる者たちも主君を残している。
藤乃が取り乱せば、彼らは自分を守るだけでなく、慰めることまでしなければならなくなる。
八歳の少女がそこまで冷静に言葉へできるとは限らない。
けれど、姫として育てられた身体には、感情を人前へすべて出さない習慣が残っている。
前を向く。
背筋を崩さない。
家臣に不安を見せすぎない。
それはセレスティアの所作をそのまま持ち込んだものではない。
この数週間、藤乃として作ってきた姿だった。
馬場の半分ほどまで進んだところで、柴崎が予定になかった台詞を入れた。
「姫様。この先は山道となります。しばしお辛抱ください」
玲奈は源吾を見た。
「源吾」
「はっ」
「父上より、ほかに言葉はありませんでしたか」
ほんの一瞬、源吾の表情が止まった。
柴崎は考えている。
それでも役を外さなかった。
「……必ず生きよ、と」
玲奈の喉が動いた。
その言葉は台本にない。
だからこそ、準備していた反応もなかった。
宗景なら、本当にそう言うかもしれない。
自分が城へ残ると決めたあと、娘を託す源吾へ最後に何を命じるのか。
藤乃は父の言葉を聞きたかった。
けれど、聞けば苦しくなることも分かっていなかった。
玲奈は一度だけ目を伏せた。
それ以上は崩さない。
「……そうですか」
源吾が前へ向き直ろうとしたところで、玲奈は続けた。
「ならば、父上のご命令に背くわけには参りませんね」
声は静かだった。
強がっているようにも聞こえる。
けれど、それでいい。
藤乃はまだ八歳なのだから、完成された当主のように振る舞う必要はない。
それでも榊原家の姫として、父から受けた最後の命令を守ろうとすることはできる。
柴崎が深く頭を下げた。
「御意」
四頭が再び進み始める。
玲奈は胸の奥に残ったものを消さなかった。
悲しい。
父に会いたい。
母のところへ戻りたい。
それらを消してしまえば、藤乃ではなくなる。
けれど感情をそのまま外へ出すこともしない。
藤乃にとって気品とは、綺麗に礼をすることだけではない。
怖いときに声を荒らげないこと。
自分より年上の家臣たちが見ている前で、榊原家の姫として振る舞おうとすること。
幼いなりに、自分が何者なのかを忘れないことだった。
馬場の端へ近づいたところで、横を進んでいた馬が不意に首を振った。
マロンもそれに反応して、一歩だけ外側へ動く。
玲奈の身体が揺れた。
前方の源吾が即座に馬を止め、後方の家臣も距離を取る。
乗馬担当者から停止の声が飛んだ。
玲奈は慌てて元の位置へ戻そうとはしなかった。
マロンが落ち着くまで身体を合わせ、手綱を必要以上に引かず、その場で止まる。
数秒で状況は収まった。
「玲奈ちゃん、大丈夫?」
柴崎が役を外して確認する。
「はい。大丈夫です」
すぐにスタッフが馬の状態と玲奈の装具を確認し、念のため全員が一度馬から降りることになった。
玲奈も指示へ従った。
以前なら、まだ続けられると主張したかもしれない。
今は、撮影も稽古も一人で成立するものではないと知っている。自分が大丈夫だと思っていても、馬や周囲の安全確認が終わるまでは次へ進まない。
休憩場所へ戻る途中、柴崎が玲奈の隣を歩いた。
「さっきの『父上のご命令に背くわけには参りません』、いいね」
玲奈は少し考えた。
「藤乃なら、そう言うと思ったんです」
「俺も、あそこで泣くより藤乃らしいと思った。悲しくないんじゃなくて、悲しいからこそ崩れない感じがする」
玲奈はその言葉に頷いた。
そこだった。
自分が藤乃に感じていたもの。
藤乃の魅力は、最後まで泣かないことではない。
怖がらないことでもない。
怖くても、悲しくても、それを抱えたまま姫として顔を上げることにある。
だから落城後の騎乗場面でも、ただ「かわいそうな少女」にはしたくなかった。
この少女なら、父と母を失うかもしれない瞬間にも、自分を守る家臣たちの前では榊原家の姫であろうとする。
その姿を見たからこそ、家臣たちも彼女を守りたいと思える。
十分な休憩と確認を終えたあと、稽古は再開された。
今度は先ほどと同じ芝居を再現しようとはしなかった。
台詞を固定すれば、その言葉を上手く言うことばかり考えてしまう。
代わりに設定だけが与えられた。
城を離れてしばらく進んだ。
藤乃は一度だけ、故郷を振り返る。
本番では、この先に燃える城がある。
今は何もない。
玲奈はマロンの上から遠くを見た。
ここまで自分を運んできた馬の呼吸が聞こえる。
前には源吾がいる。
後ろにも家臣がいる。
彼らは急ぎたいはずなのに、藤乃が振り返ったため止まっている。
玲奈はそのことに気づき、もう一度遠くへ視線を戻した。
いつまでも見ていてはいけない。
自分のために皆を止めている。
藤乃は城へ向かって、馬上から静かに頭を下げた。
深すぎない。
けれど、子供が別れを惜しんでいるだけにも見えない。
父と母へ。
生まれ育った城へ。
そして、そこに残った者たちへ。
顔を上げたとき、玲奈の目には涙が浮かんでいた。
落ちなかった。
玲奈は源吾を見る。
「お待たせしました」
柴崎は一瞬、返事を忘れたようだった。
やがて源吾として頭を下げる。
「参りましょう、姫様」
「ええ」
玲奈は前を向いた。
泣き顔を隠したわけではない。
源吾からも、ほかの家臣からも見えている。
それでも姿勢は崩さなかった。
マロンを歩かせる。
家臣たちも続く。
誰も台詞を加えなかった。
馬場の反対側へ到着するまで、四頭が進む音だけが続いた。
終了の声がかかったのは、全員が指定位置へ着いてからだった。
玲奈はゆっくり息を吐いた。
先ほどまで胸にあった藤乃の感情が、少しずつ自分から離れていく。
柴崎が馬を寄せてきた。
「今の藤乃様なら、源吾もついていきたくなるな」
玲奈は涙の残った目元を指で触りながら、少し笑った。
「源吾が先に行かないと、藤乃は道が分からないですよ」
「そこは現実的なんだな」
周囲から笑いが起こり、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
その後は芝居を何度も繰り返さず、撮影当日の安全確認へ時間が使われた。
城を離れる場面は複数のカットに分けられ、玲奈自身が馬へ乗る部分は安全な速度で撮影する。疾走が必要な遠景には別の方法を使い、炎や大量の煙の近くへ玲奈と馬を置くこともない。
玲奈は説明を聞きながら、以前とは違う意味で安心していた。
自分が全部やる必要はない。
大切なのは、藤乃の顔が映る場面で藤乃として馬上にいられることだった。
すべての稽古が終わるころには、夕方の光が馬場へ差し込んでいた。
玲奈はマロンから降り、いつものように首筋を撫でる。
最初に乗ったころは、前世の経験がどれだけ通用するのか気になっていた。
今では、それを考える時間の方が少ない。
マロンがどう動くのか。
源吾がどこにいるのか。
藤乃なら何を見るのか。
そちらの方がずっと重要になっていた。
「本番もよろしくね」
マロンの鼻先が玲奈の肩近くへ寄った。
玲奈は笑い、もう一度だけ首を撫でてから離れた。
翌週から、いよいよ撮影が始まる。
最初に撮るのは落城ではない。
まだ榊原家が平穏だったころの城内。
父と母がいて、兄がいて、藤乃が何の疑いもなく翌日も同じ家で暮らせると思っていた時期の場面だった。
玲奈はその撮影順を聞いて、むしろ良かったと思った。
藤乃の覚悟を最後に見せるためには、その覚悟がどこから生まれたのかを先に作らなければならない。
宗景から教えられたこと。
志乃から叩き込まれた所作。
兄と競いながら育った日々。
家臣たちから榊原家の姫として扱われてきた八年間。
それらが積み重なった先で、城を失う日が訪れる。
藤乃は、その日になって突然強くなる少女ではない。
幼いころから姫として育てられ、誇りを持ち、怖さも悲しさも知ったうえで、最後には自分の役目を選べる少女だった。
そして玲奈が演じたいと思った藤乃も、最初からそういう少女だった。




