■13 王暦時計塔と、封じられる記憶
王暦時計塔へ続く階段は、空に向かって伸びていた。
黒い石でできているのに、表面だけが白く霞んでいる。
踏むたびに、足音が一拍遅れて返ってきた。
時間がずれている。
そう思った。
「……晴人」
隣でノアが小さく呼んだ。
白い制服の輪郭が、薄っすらだが見える。
全ての情報が蓄積されているという王暦時計塔に近づいたからなのかもしれない。
「ノア、景色は見えてきたのか?」
「はい。徐々にですけど」
俺は、ノアの手を握る。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「嘘つくな」
ノアは困ったように笑った。
「少し、怖いです」
「それでいい」
「はい」
俺はノアの手を握り直した。
前を歩く八人の背中は、頼もしかった。
アルヴィンの王冠剣。
ガイアスの魔導斧。
ルカのカード。
ジンの大剣。
ヴァレリオの鎖。
アルトの星図。
キリルの双短剣。
イヴァンの扇剣。
全員、俺と出会う前とは違う背中をしている。
それぞれが、自分の弱さを一度見て、それでも立っている背中だった。
王暦時計塔の扉が、音もなく開いた。
中は、広大な機械仕掛けの空間だった。
歯車。
針。
振り子。
無数の魔導端末。
空中には、蒸都アルカディア中の契約記録、巡回記録、式典名、事件名、街の履歴が流れている。
その中心に、黒い玉座があった。
クロノス・ノクスヴェイル。
黒い時計剣を片手に、彼は静かにこちらを見下ろしていた。
「来たか」
アルヴィンが前へ出る。
「貴様の白紙化はここまでだ」
「白紙化ではない」
クロノスは淡々と言った。
「均衡化だ。偏った想いは、世界の記録を膨張させる。膨張した記録は、やがて世界の枠を壊す」
「だから消すのか」
俺が言うと、クロノスの視線がこちらへ向いた。
「消すのではない。均す」
「同じだろ」
「違う。過剰に積まれた想いを削り、薄すぎる想いとの差をなくす。すべてのプリンスが、すべての姫に等しく存在するために」
ルカが口元を歪める。
「綺麗な理屈だね。でも、他人の想いを勝手に薄める時点で、もう管理じゃない」
「管理とは、個人の感情より世界の存続を優先することだ」
クロノスはルカを見る。
「怪盗には分からぬだろう。盗みたいものだけを選ぶ者には」
ルカの笑みが薄くなる。
「そう。じゃあ盗ませてもらおうかな、その窮屈な時計」
イヴァンが扇剣を広げた。
「舞台は光が偏るから奥行きが生まれる。すべてを白く均せば、舞台はただの壁になる」
「偏った光は、他の役を殺す」
クロノスは答える。
「ゆえに、白へ戻す」
「違うな」
俺は言った。
クロノスがこちらを見る。
「端役を消すのは、見ないことだ。白く塗ることじゃない」
空気が張り詰める。
クロノスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく言う。お前は一人を見すぎた」
「見たら駄目なのか」
「世界が乱れる」
「乱れたっていい」
俺は言った。
「ノアが消えるよりはマシだ」
隣で、ノアの手が震えた。
俺はその手を強く握った。
クロノスの黒時計剣が、ゆっくり持ち上がる。
「ならば、その想いごと封じよう」
空中に黒い時計盤が広がる。
針が逆回転した。
【記憶封印:起動】
アルトが叫ぶ。
「全員、警戒。記憶系の干渉だ。術式は、時計剣を中心に拡散している」
クロノスはアルトへ視線を向けた。
「解析する者よ。私の演算に触れるつもりか」
アルトは星図を展開する。
「君の演算は、想いの偏りを危険値として処理している。だが、異常値をすべて削除する処理は、保護ではなく破壊だ。世界を守る演算としては、補正が過剰すぎる」
「過剰ではない」
クロノスの声が、少しだけ冷えた。
「偏りは、崩壊を生む」
カチリ。
黒時計剣の針が、一つ進む。
その音だけで、胸の奥が嫌な感じに冷えた。
アルヴィンが剣を構え直す。
「記憶を封じるだと? 貴様ごときが、王冠騎士の誓いに触れるな」
ガイアスが炎を上げる。
「晴人、ノアを連れて下がってろ」
キリルが双短剣を抜く。
「隠された管理者だろうが、負ける理由にはならない」
イヴァンが扇剣を広げる。
「私たちを同じ白で塗れると思うな」
ヴァレリオが鎖を鳴らす。
「命令で均されるほど、安い契約ではない」
ルカがカードを指で弾く。
「じゃあ、派手にいこうか」
ジンが一言だけ言う。
「……守る」
八人のプリンスが前へ出る。
背中が並ぶ。
それは、今まで俺が関わってきたプリンスたちの背中だった。
「お前たち」
アルヴィンが横目で言う。
「何を驚く。俺たちは、姫と共にあるプリンスだ」
ガイアスが笑う。
「まあ、お前は姫って感じじゃねえけどな」
ルカが肩をすくめる。
「そこが困るんだよね」
ジンは黙って頷いた。
ヴァレリオが笑う。
「行け、晴人。お前の願いは、分かりやすい」
アルトが星図を広げる。
「ノアの座標は、まだ完全には消えていない」
キリルの雷が足元を走る。
「努力の跡を消す奴は、俺が許さない」
イヴァンの薔薇が道を照らす。
「さあ、幕を上げよう。世界を壁に変える管理者を、舞台から降ろす」
クロノスは、静かに彼らを見た。
「想いに酔ったプリンスたち」
黒時計剣の針が回る。
「その程度の想いなど、私には無効だ」
****
最初に飛び出したのは、キリルだった。
「寝言は、勝ってから言え!」
雷が走る。
キリルの双短剣が、時計塔の床を裂くように閃いた。
「勝利だけが強さじゃない。そこに至るまでの積み重ねが強さだ!」
その雷は速い。
まっすぐで、強い。
観覧試合場で見た必殺技より、さらに鋭かった。
クロノスの黒時計剣がそれを受け止める。
一瞬、キリルが押した。
「ぐっ……!」
クロノスの袖が裂れる。
雷が、玉座の足元まで届いた。
「どうした、時計塔の管理者! その程度か!」
「努力を語るか」
クロノスの時計剣が、ゆっくり回る。
「ならば、その努力を誰に見てほしかったのか、忘れろ」
カチリ。
白い針が、キリルの胸を貫くように光った。
「なっ……」
キリルの動きが止まる。
その目から、さっきまでの熱が抜けていく。
「勝てばいい」
キリルが呟いた。
「勝たなければ、意味がない。努力など、結果がなければ価値がない」
「キリル!」
俺が叫ぶ。
キリルはこちらを見ない。
雷が乱れる。
双短剣が重くなる。
クロノスは、冷たく剣を振った。
キリルの体が吹き飛び、時計塔の柱に叩きつけられる。
「まず一人」
「キリル!」
ノアが駆け出そうとする。
俺は手を掴んで止めた。
「まだだ」
「でも」
「今行ったら巻き込まれる」
ノアは唇を噛む。
****
次に動いたのはガイアスだった。
「ふざけんなよ、黒いの」
炎が広がる。
熱が白い霧を吹き飛ばす。
「助ける側が倒れていいわけねえ。でもな、助ける側だって支えられていいって、俺は知ってる」
ガイアスの魔導斧が、燃え上がる。
「だから今度は、全員で支える!」
斧が床を叩く。
炎の波が、倒れたキリルを守るように広がった。
同時に、クロノスへ熱の鎖が巻きつく。
「熱いな」
クロノスが言う。
「救助隊長の炎だ。覚えとけ」
「覚える必要はない」
黒時計剣の針が、また鳴る。
カチリ。
「お前が、支えられていいと知った記憶を封じる」
ガイアスの炎が揺らいだ。
彼の顔から、余裕が消える。
「俺が……止まったら」
声が低くなる。
「誰が助ける」
「ガイアス!」
「俺が行く。俺だけでいい。誰も来るな。俺が全部抱える」
炎が暴走する。
仲間を守る炎ではなく、自分一人で背負うための熱。
クロノスは、その乱れを一閃した。
ガイアスが膝をつく。
「俺が……止まったら……」
「違う!」
俺は叫んだ。
「お前は一人で抱えなくていいって言っただろ!」
ガイアスの目が、一瞬だけ揺れる。
でも、届かない。
クロノスの白い霧が、その目を覆う。
「次」
****
ルカが前に出た。
「ひどいな。人の変化を封じるなんて、怪盗より趣味が悪い」
カードが舞う。
月光が時計塔の歯車に反射する。
「でも、俺の嘘は本当を守るためにある」
ルカのカードが、いくつもの分身を生んだ。
クロノスの周囲に、予告状が舞う。
【今夜、白紙の王冠を盗む】
「綺麗な嘘だ」
クロノスが言う。
「だが、お前の本音はどこだ」
カチリ。
時計の針がルカを指す。
「本音を、嘘にしなくていいと知った記憶を封じる」
ルカの笑みが、空っぽになる。
「本音?」
軽い声。
薄い笑い。
「そんなもの、見せるわけないだろ。怪盗は、嘘で笑って、嘘で逃げるものさ」
「ルカ!」
「何を本気になってるの、晴人」
ルカは俺を見て、いつもの甘い笑みを浮かべた。
でも、そこに熱がない。
俺と下手な嘘をついたことも。
嘘にしないと言った夜も。
全部、封じられている。
クロノスの剣が、ルカのカードを白く染める。
カードが床に落ちた。
ルカも崩れる。
****
ジンが、無言で前へ出た。
大剣を構える。
「……言葉は、後でいい」
短い声。
でも、それは逃げじゃない。
伝える意思を持った沈黙だった。
ジンの重力が、塔全体を沈める。
クロノスの足元が歪む。
「重いな」
「……落とさない」
ジンは言った。
「晴人が呼ぶまで、支える」
重力が増す。
クロノスの黒時計剣が、少しだけ下がる。
ジンが押している。
確かに押している。
だが、クロノスは表情を変えなかった。
「言葉を覚えた用心棒か」
カチリ。
「伝えたいと思った記憶を封じる」
ジンの目が暗くなる。
口が閉じる。
重力が、守る形から、ただ押し潰す形へ変わる。
「……」
「ジン!」
ジンは答えない。
守るだけ。
伝えない。
隣にいろとも、待てとも、何も言わない。
ただ一人で前に立ち、攻撃を受け、崩れる。
クロノスの一撃がジンの大剣を弾いた。
黒鉄の用心棒が、膝をつく。
****
ヴァレリオの鎖が飛ぶ。
「見ていなさい、晴人」
黒い鎖は、クロノスの時計剣ではなく、塔の歯車へ絡みついた。
「命令ではなく、願いで繋ぐ。貴様の管理は、命令だけだ」
「願い?」
クロノスが首を傾げる。
「命令も願いも、記録上はただの入力だ」
「違うな」
ヴァレリオが笑う。
「願いには、逃げ道がある。命令にはない」
鎖が歯車を止める。
時計塔の針が一瞬止まった。
クロノスの表情が初めて歪む。
「余計な接続を」
「繋げると言ったはずです」
ヴァレリオの声が、少しだけ砕ける。
その本音に近い声は、以前の彼にはなかったものだ。
けれど。
カチリ。
「支配ではなく願いで繋ぐと知った記憶を封じる」
鎖の色が変わった。
黒く、硬く、冷たくなる。
ヴァレリオの笑みが、支配者のものへ戻った。
「縛ればいい」
彼は呟いた。
「危険なものは、すべて縛ればいい。信じる必要などない」
鎖が暴れる。
仲間を繋ぐ鎖ではなく、全てを拘束する鎖。
クロノスは軽く剣を振る。
ヴァレリオ自身の鎖が絡まり、彼の動きを止めた。
「願いは脆い」
クロノスが言う。
***
アルトが前に出る。
「脆いのではない。観測できていないだけだ」
星図が広がる。
無数の軌道が、時計塔内を走る。
「記憶封印の発動点、時計剣の針、白紙化命令の伝達路。すべて解析する」
オービット・グラスが輝く。
アルトの周囲に、星の演算式が重なった。
「君の演算は、想いの偏りを危険値として処理している。だが、危険値をすべて削除する処理は、保護ではなく破壊だ」
クロノスの目が細くなる。
「偏りは、崩壊を生む」
「偏りをすべて消せば、変化も消える」
アルトの解析が、クロノスの術式へ届きかける。
「君の均衡化は、世界の安定ではなく停止に近い」
「停止は崩壊より優れている」
カチリ。
時計の針が鳴った。
「感情が乱れることを認めた記憶を封じる」
アルトの言葉が止まる。
星図が、冷たい数式だけになる。
「非合理な値は削除」
アルトは無機質に言った。
「感情による変動は、解析の邪魔だ」
「アルト!」
「異常値は排除する」
星図が反転する。
クロノスを追い詰めていた軌道が、逆にアルト自身の周囲を縛る。
クロノスが剣を振る。
アルトのオービット・グラスが割れ、星図が消えた。
****
イヴァンが、黒薔薇を散らした。
「つまらない演出ばかりだな、時計塔の管理者」
扇剣が開く。
黒薔薇の舞台が、時計塔の中心に咲く。
「舞台とは、光が偏るから奥行きが生まれる。脇役の影も、主役の光も、どちらも必要だ。お前は白で塗り潰すことしか知らない」
花弁がクロノスを囲む。
観客席の幻影が広がる。
主役の光。
端役の声。
黒薔薇劇場のすべてが、クロノスを舞台へ引きずり出す。
「見ろ。これが、すべてを白く均さない舞台だ」
クロノスの表情が、ほんの一瞬揺れた。
イヴァンの扇剣が届く。
黒い衣の胸元に、薔薇の傷が入る。
「均衡を乱す舞台だ」
クロノスが低く言った。
「だから、白くする」
カチリ。
「美しくない本音を見られた記憶を封じる」
イヴァンの目から、柔らかさが消えた。
彼は舞台の中心に立つ主役へ戻った。
美しさだけを背負い、端役を見ない男へ。
「美しくないものは、舞台袖へ下がれ」
その言葉に、俺の胸が痛む。
違う。
それは、俺と会った後のイヴァンじゃない。
クロノスが静かに剣を下ろす。
黒薔薇が白くなり、砕けた。
イヴァンが崩れる。
****
残ったのは、アルヴィンだけだった。
王冠騎士は、最初から最後まで剣を構えていた。
「全員を倒した程度で勝ったと思うな」
「思っていない」
クロノスは言う。
「最後に残るのは、いつも王冠だ」
アルヴィンの王冠光魔法が、時計塔を照らした。
「晴人」
「何」
「見るがいい」
アルヴィンは剣を掲げる。
「王冠騎士は、敗北を恐れぬ。完璧でなくとも、隣に立つ者がいるならば膝は折れぬ」
その光は美しかった。
以前のアルヴィンなら絶対に言えなかった言葉だ。
敗北を認めてもなお、立つ光。
それが、クロノスへ届く。
黒い時計剣と王冠剣がぶつかった。
白と黒の火花が散る。
一瞬、クロノスの足が下がる。
「なるほど」
クロノスは静かに言った。
「お前は、変化したのだな」
「貴様に言われるまでもない」
「なら、戻す」
カチリ。
その音が、今までで一番大きく響いた。
「敗北を認めた記憶を封じる」
アルヴィンの瞳から、熱が消えた。
「敗北など」
王冠騎士の声が、冷たくなる。
「王冠騎士に許されるはずがない」
「アルヴィン」
「完璧であれ。勝利せよ。迷うな。敗北した者に価値はない」
違う。
その言葉は、俺が壊したはずの殻だ。
戻るな。
「アルヴィン!」
俺が叫んでも、届かない。
アルヴィンは完璧な剣を振るった。
だが、完璧すぎる剣は、迷いを知らない。
だから、人を守るための余白がない。
クロノスはその隙を斬った。
王冠剣が弾かれ、アルヴィンが床に倒れる。
王冠光が消えた。
時計塔に、静寂が落ちる。
****
八人のプリンスが倒れている。
全員、力そのものは弱くなっていない。
でも、俺と出会って変わった部分を封じられた。
だから、負けた。
クロノスは階段の上から見下ろす。
「その程度の想いなど、私には無効だ」
俺は拳を握った。
ノアが隣で震えている。
でも、逃げていなかった。
「晴人」
「何」
「僕は」
ノアの胸元の表示が、まだ揺れている。
対象プリンス:ノア。
でも、薄い。
「僕は、まだ不安定です。皆さんを助けたいのに」
「できる」
俺は言った。
根拠はなかった。
でも、言った。
「お前は、ここにいる」
「晴人」
「呼べば返事するって言っただろ」
ノアの目が揺れる。
クロノスが剣を上げた。
「次は、お前だ」
黒い時計盤が広がる。
ノアの周囲に、白いノアたちの影が浮かび始めた。
一人。
十人。
百人。
千人。
数えきれない白い制服。
同じ顔。
同じ巡回札。
一万人のノア。
クロノスは冷たく言った。
「量産された薄き灯りが、何を選ぶ」
その時、白いノアたちの中から、一人が前へ出た。
俺の知っているノアとは違う。
でも、ノアと同じ顔をしている。
その個体は、静かに俺たちを見た。
「僕たちの想いを、使ってください」
俺は息を止める。
ノアも目を見開いた。
「僕たちにも、あります」
別のノアが言う。
「一度だけ、街灯を直してくれた姫」
また別のノア。
「薄い灯りでも、ありがとうと言ってくれた姫」
また別の声。
「通知を開いてくれた姫」
「名前までは覚えていなくても、下町を歩いてくれた姫」
「少しだけ、笑ってくれた姫」
「僕たちは、薄いかもしれない」
「でも」
一万人のノアたちが、同時に顔を上げた。
「想いの強さは、負けません」
クロノスの目が、初めてはっきりと歪んだ。
「下町の薄き灯りごときが」
白いノアたちの光が、俺の隣のノアへ集まり始める。
ノアは震えていた。
けれど、その目に、火が灯っていく。
俺はノアの手を握った。
「行けるな」
ノアは俺を見た。
そして、小さく頷いた。
「はい」
時計塔の白い霧の中で、一万人のノアの声が重なった。
「僕たちの想いを、繋いでください」
ノアが、一歩前へ出る。
次の瞬間、胸元の薄い【C】表示が強く光った。




