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■6-3 ノア編:白い路地と、君に見せたい下町

画面には、下町東区の地図が映っていた。


パン屋裏。

水路沿い。

古い街灯。


その奥に、白く抜けた細い路地がある。

【低ランク巡回クエスト】

対象プリンス:ノア

巡回区域確認

場所:下町東区・パン屋裏の近道


画面の中で、ノアは地図を持って立っていた。


『巡回兵ノアです』


声は落ち着いている。

けれど、今日は少しだけ緊張しているようにも聞こえた。


『下町東区の巡回地図に、一部だけ表示が薄い路地があります。実際の道は通れるようなのですが、念のため確認します』


ノアは少しだけ視線を上げる。


『それと』


そこで、ほんの少し間があった。


『晴人に、見せたい場所があります』


街灯の光が画面の外へ伸びる。

俺はもう驚かなかった。


次の瞬間、下町の夜気が頬に触れた。


****


下町東区のパン屋裏は、いつもより少しだけ静かだった。

焼きたての匂いはもう薄くなっていて、代わりに水路の冷たい空気が路地を流れている。


ノアは地図を持って立っていた。

俺を見ると、ぱっと顔を上げる。


「晴人」

「来たぜ」


言ってから、少しだけ自分で違和感を覚えた。

前より、だいぶ雑な挨拶になっている。


でもノアは、それを嫌がるどころか、嬉しそうに笑った。


「はい。来てくれると思っていました」


「自信あるな」

「少しだけ」


ノアはそう言って、地図を胸に抱え直した。


「今日は、依頼というより巡回確認です」


「白くなってた路地か」

「はい。ただ、その前に少しだけ」


ノアは水路の方を見る。


「晴人に、下町の好きな場所を案内してもいいですか」


「仕事じゃないのか」

「巡回区域内です」


「便利な言い訳、完全に使いこなしてるな」

「晴人に教わりました」


「俺のせいにするな」

「はい」


返事はするが、やめる気はなさそうだった。

ノアは少しだけ得意そうに見えた。


その顔が珍しくて、俺は何も言わずについていくことにした。


****


ノアの案内は、思ったよりちゃんとしていた。

パン屋裏の細い道を抜けると、まず小さな軒下に出る。


そこでは、猫型の魔導機械が丸くなって寝ていた。

青い目だけが、時々ぱちぱち光る。


「猫か?」


「猫型清掃機です。昼間は路地の落ち葉を集めています」

「寝てるぞ」


「夜は休憩時間です」

「機械にも休憩があるのか」


「あります」


ノアは真面目に頷く。


「休まないと、歯車が摩耗します」

「誰かにも聞かせたい台詞だな」


「誰か、ですか?」

「救助隊長とか」


ノアは首を傾げた。

俺は軽く流す。


「こっちの話」


ノアはそれ以上聞かず、次の道へ進んだ。

次に案内されたのは、青い街灯が一本だけ立つ角だった。


普通の街灯より光が柔らかい。

石畳に落ちる影も、少し青い。


「ここ、夜だけ青くなるのか」

「はい。水路の魔力霧に反応して、色が変わります」


「きれいだな」


ノアが、ぱっとこちらを見る。


「はい」


俺が街灯を褒めただけなのに、ノアは自分が褒められたみたいに嬉しそうだった。


「この先は、水路に時計塔が映る場所です」

「まだあるのか」


「はい。晴人に見せたい場所が、いくつかあります」

「いくつか」


「はい」


真面目な顔で言われると、断る理由がなくなる。

水路沿いへ出ると、遠くの王暦時計塔が水面に映っていた。


本物の時計塔より少し揺れていて、針が水の中でゆっくり歪む。


「へえ」


思わず声が出た。

ノアは隣で、少しだけ誇らしそうにしている。


「ここ、好きなのか」

「はい」


「じゃあ覚えとく」


ノアが少し黙った。


「晴人が覚えてくれるなら、もっと好きになります」


「そういうことを普通に言うな」

「すみません」


「謝るな」

「はい」


ノアは赤くなりながらも、小さく笑った。

そのあと、子どもたちが描いた落書き壁を見せられた。


王冠をかぶった犬。

空を飛ぶパン。


なぜか足の生えた街灯。


「この街灯、走ってるぞ」


「ミルくんの絵です」

「自由だな」


「はい。下町の街灯は、ときどき走ってほしいそうです」

「何で」


「夜、早く家まで照らしに来てくれるから、だそうです」

「発想がいいな」


ノアは嬉しそうに頷く。


「僕も、好きです」


下町案内は、仕事というより散歩だった。

でも、ノアはずっと楽しそうだった。


俺に見せる場所を、ひとつずつ大事そうに選んでいる。

それを見ていると、まあ、悪くないと思ってしまう。


****


白い路地は、パン屋裏のさらに奥にあった。

地図では、そこだけが薄く抜けている。


何もない空白ではなく、紙の繊維だけが残ったみたいな白さ。

けれど、実際には道があった。


細い石畳。

壁際の小さな排水溝。


古い街灯。

その奥は、少しだけ白い霧で見えにくい。


「ここか」


「はい」


ノアは地図と実際の道を見比べる。


「地図では薄いですが、道はあります」


「古い地図なんじゃないのか」

「その可能性もあります」


ノアは一歩、路地へ踏み出そうとした。

俺は反射的に、ノアの手首を掴んだ。


「一人で入るな」


ノアが驚いたように振り向く。


「晴人」


「見えづらいだろ」

「はい。でも、確認を」


「二人で確認すればいい」

「……はい」


ノアは、掴まれた手首を見る。

俺も気づいて、少しだけ力を緩めた。


「悪い」


「いえ」


ノアは首を横に振る。

顔が赤い。


けれど、手を引っ込めなかった。


「止めてくれるんですね」


「危なそうだったからな」

「はい」


ノアは小さく笑った。


「ありがとうございます」


「礼を言うところか?」

「はい」


ノアは、手首を掴まれたまま、少しだけ嬉しそうだった。

その反応は、どう扱えばいいのか分からない。


俺は手を離し、代わりに路地の入口に落ちていた古い巡回札を拾った。


「まず入口に札を立てるか」

「巡回確認中、という札ですね」


「通る人がいたら困るだろ」

「はい。いい判断です」


「褒め返しか」

「少しだけ」


ノアは笑った。

二人で巡回札を立てる。


白い霧の奥へ入る前に、ノアが小さな補助灯を点けた。

青い光が、石畳の輪郭を照らす。


路地は短かった。

奥には、小さな空き地があるだけだった。


古い井戸。

欠けたベンチ。


壁に貼られた色あせた祭りの札。

危険なものはない。


ただ、地図に載っているはずの路地名が、古い標識から薄れていた。


「路地名が読めないな」

「はい」


ノアは記録ペンで標識の状態を写し取る。


「仮名称として、パン屋裏東路地、と記録します」


「そのまんまだな」

「分かりやすいので」


「まあ、そうだな」


ノアは真面目に頷く。

地図の白く抜けた部分に、ノアが仮線を書き込む。


そこへ俺が補助灯を当てる。

薄かった道の輪郭が、少しだけ濃くなった。


完全に戻ったわけではない。

でも、少なくとも地図の上に線は残った。


【巡回区域確認:完了】

【仮記録:パン屋裏東路地】

【通行注意札:設置済】


「完了か」

「はい。これで、しばらく様子を見ます」


ノアは地図を閉じた。

表情は、少しほっとしている。


「晴人」

「何」


「一人で入らなくてよかったです」


「だろ」

「はい」


ノアは手首を軽く押さえた。

さっき掴んだ場所だ。


「……そこ、痛かったか」

「いえ」


「じゃあ何で押さえてる」


ノアは少し困ったように笑う。


「まだ、少し残っている気がして」


「何が」

「止めてもらった感じが」


そういうことを、また普通に言う。

俺は返事に困って、地図を指差した。


「戻るぞ」

「はい」


ノアは嬉しそうに頷いた。


****


帰り道、ノアは俺をさっきの青い街灯の角へ連れていった。


「巡回確認は終わったんじゃないのか」


「はい。終わりました」

「じゃあ何だ」


「少しだけ、ここで地図を整理してもいいですか」

「座る場所ないぞ」


「あります」


ノアが指差した先には、低い石段があった。

猫型清掃機が、いつの間にかそこへ移動して丸くなっている。


「先客いるぞ」

「少し端を借ります」


ノアは猫型清掃機に小さく会釈した。

機械相手にも丁寧だ。


俺たちは石段に並んで座った。

ノアが地図を広げる。


俺は補助灯を持つ。

青い街灯と補助灯の光が重なって、地図の上に二人分の影が落ちる。


「近いな」


俺が言うと、ノアの肩がぴくりと揺れた。


「すみません」


「いや、地図見るなら仕方ないだろ」

「はい」


ノアは地図に書き込みをしながら、少しだけ俺の方へ寄る。

肩が触れそうで、触れない。


その微妙な距離が、さっきの白い路地より気になる。


「晴人」

「何」


「今日、案内した場所」

「うん」


「覚えてくれましたか」


「猫の機械と、青い街灯と、水路の時計塔と、走る街灯の絵」


ノアの顔が、ゆっくり明るくなる。


「全部です」


「覚えやすかった」

「嬉しいです」


そう言って、ノアは地図の端に小さく印をつけた。


「何それ」


「晴人に見せた場所の印です」

「地図にそんな印つけるのか」


「個人的な控えです」

「巡回記録じゃないのか」


「……半分は」


ノアは少し赤くなる。


「思い出の記録です」


俺は言葉に詰まった。

猫型清掃機が、隣で小さく「ピ」と鳴る。


妙に気まずいタイミングだった。


「今、機械に笑われた気がする」


「たぶん、充電音です」

「本当か?」


「たぶん」


ノアは小さく笑った。


****


地図整理が終わると、街灯の光がふわりと広がった。


【ナイトステイが発生しました】


ノアは赤くなる。

でも、今日は少しだけ嬉しそうでもあった。


青い街灯の下に、小さな静かな空間ができる。

猫型清掃機は、いつの間にかいなくなっていた。


気を遣ったのかもしれない。

いや、機械にそんな機能はないはずだ。


空中に表示が浮かぶ。


【ナイトステイ】


対象プリンス:ノア

帰還条件:対象プリンスとのキス

※条件達成後、現実世界への帰還選択が可能になります


ノアが言う。


「今日は、白い路地を確認しました」


「下町案内もしただろ」


ノアは少しだけ笑う。


「はい。そちらの方が、少し楽しかったです」


「仕事より?」

「……少しだけ」


「巡回兵なのに」

「晴人がいるので」


「また俺のせいか」

「はい」


その返事が、前より自然だった。

ノアが一歩近づく。


俺も少し身をかがめる。

その瞬間、ノアの視線が俺の手に落ちた。


さっき、手首を掴んだ方の手。

ノアは少し迷ってから、自分の手をそっと重ねた。


「ノア?」


「すみません」

「謝るな」


「はい」


ノアは赤い顔のまま、手を離さなかった。


「今日は、手を」


「手?」

「そのままでも、いいですか」


声が小さい。

でも、ちゃんと聞こえた。


「いいけど」


「ありがとうございます」


俺たちは手を重ねたまま、キスをした。

唇が触れる。


青い街灯の光が、まぶたの裏で揺れる。

前より近い。


手が重なっているせいか、離れるタイミングがさらに分かりにくい。

ノアの指が、少しだけ俺の手に力を込める。


その力は弱い。

でも、はっきり分かった。


離れると、ノアは息を整えながら、重ねた手を見ていた。


「晴人」

「何」


「今日は、少しだけ、安心しました」


「白い路地か」

「それもあります」


ノアは小さく笑う。


「手を、掴んでくれたので」


「危なそうだったからだ」

「はい」


「それだけだぞ」

「それだけでも、嬉しいです」


また返しに困ることを言う。

空中に表示が浮かぶ。


【帰還条件を満たしました】

現実世界へ戻りますか? YES/NO


押せば戻れる。

でも、重ねた手がまだ離れていない。


ノアはそれに気づいて、少しだけ手を引こうとした。

俺は、今度はすぐには離さなかった。


自分でも少し驚いた。

ノアも驚いた顔をする。


「あ」


「いや」


何を言えばいいか分からない。


「……もう少しだけ、地図見てから帰る」


咄嗟にそう言った。

ノアは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。


「はい」


「笑うな」

「すみません」


「謝るな」

「はい」


ノアは重ねた手をそのままにして、地図を少しだけこちらへ寄せた。


「次は、晴人にこの水路の先も見せたいです」


「まだあるのか」

「はい。夜明け前だけ、街灯が水色になります」


「また街灯か」

「はい」


ノアは少し照れて、それでも楽しそうに言う。


「晴人に見せたい街灯が、まだあります」


俺は少しだけ笑った。


「じゃあ、また通知出せ」


「はい」


ノアの返事は早かった。

俺はYESを押した。


街灯の光が白く広がる。

最後に、ノアの声が聞こえた。


「晴人。次は、水色の街灯を見に行きましょう」


****


現実に戻ると、タブレットには青い街灯の角が映っていた。

低い石段。


丸まって眠る猫型清掃機。

ノアが書き込んだ地図。


白かった路地には、細い仮線が一本引かれている。

ノアの姿はない。


けれど、地図の端に小さな印がいくつか残っていた。

猫型清掃機。


青い街灯。

水路の時計塔。


落書き壁。

晴人に見せた場所。


たぶん、そういう印だ。

俺はしばらく画面を見ていた。


手首を掴んだ感触。

その後、重ねられた手。


青い街灯の下で、ノアが「見せたい場所がまだあります」と言った顔。


「……案内、うまいな」


口に出してから、少しだけ笑った。

ただの巡回区域確認だったはずなのに、妙に下町を歩いた気分が残った。


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