板倉岐山の壺⑤
松永家は北区田端三丁目の光明院の近くにあった。
松永家を訪ねて唖然とした。住宅地にその一角だけ、過去からタイムスリップして来たかのような古風な民家が忽然と建っていたからだ。無人の家屋なのか人の気配が、まるで感じられなかった。
玄関の呼び鈴を押した。反応が無い。家の中で、音が鳴っていないような気がした。
「電池切れですかね」
「空き家なのかもしれない」
ほぼ区画一杯に建物が建てられており、両隣に軒を接している。庭と呼べるほどのスペースは無い。窓は雨戸が閉まっている。留守のようだ。
右隣が民家だったので尋ねてみた。五十前後の主婦らしき女性が家にいて、「お隣の松永さんはご不在でしょうか?」と尋ねると、「不在もなにも、滅多に家に戻らないみたいですよ。年から年中、空き家状態ですから」と迷惑そうに答えた。隣家が空き家になっていると、不用心だ。浮浪者が住みついたりすると嫌だと言うことを長々と愚痴った。
「ここに越して来て、十年になりますけど、お隣さんとは一度も会ったことがありません」
「先程、滅多に家にいないとおっしゃいましたが、たまには家に戻って来ると言うことでしょうか?」
「ええ。私は会ったことがありませんけど、主人や子供たちが、夜中に、お隣さんの窓に明かりがついているのを見ています。たまに、掃除に戻って来るんじゃありませんか」
どうやら、別の場所に住んでいて、たまに戻って来るだけのようだ。結局、松永のことについては何も分からなかった。主婦は松永家の左隣のオフィス・ビルの所有者なら、何か知っているかもしれないと、名前と住所を教えてくれた。
オフィス・ビルの所有者を斉藤と言い、松永家から直線距離で二百メートルほど離れた一軒家に住んでいる。会社勤めをリタイヤし、所有地にビルを建て、家賃収入で、今は悠々自適の生活だと言う。何時も家にいると言うことで、尋ねてみると、人の良さそうな老人が二人を迎えてくれた。
縦に長い上に皺が深いので、より一層、顔が長く見える。笑うと犬歯が一本、抜けているのが目立った。
松永家のことを尋ねると、「ああ、お隣さん」と何か知っている様子だった。オフィス・ビルを建てる時、庭だった土地を売ってもらった縁から、松永と面識があると言う。
「松永さんは、たまにご自宅に戻って来られるようですが、今、どこにいらっしゃるかご存知ありませんか?」竹村が尋ねると、「今はね。海外に住んでいらっしゃるみたいですよ」と意外な答えが返って来た。
「海外ですか!?」
「もう十年・・・いや、もっとになるかなあ。以前、松永さんは、一人で、あそこに住んでいたんです。何をやっていたのか、よく知りませんが、とにかく面倒見の良い人でね。保護司って言うんですか? それになろうとして失敗したり、浮浪者のような青年の面倒を見ていたりしました」
保護司とは犯罪や非行に走った人を更生させ、社会復帰の支援をする人たちを言う。保護観察が主な役目で、法務大臣よりの委嘱によるが、ボランティアである。
「それで、何故、海外に移住されたのですか?」
「ああ、すいません。話が逸れてしまいましたね。いえね、それが、ある日突然、海外に住むことになったと挨拶がありました。理由は聞きませんでした」
「どちらに移住されたのですか?」
「さあ・・・何処だったかなあ・・・フィリピンだったか、インドネシアだったか、マレーシアだったか、何処かその辺だと思います」東南アジアの何処かのようだ。
「それで、留守の間、屋敷の管理を任された?」
「いいえ。旅立つ前、どういう関係があるのか知りませんが、松永さんは若いあんちゃんの面倒を見ていて、書生みたいして使っていました。留守中の屋敷の管理は彼に任せたのだと思います。実際、たまに屋敷に来て、窓を開けて空気を入れ替えているのを見たことがありますから」
「そうですか? では、その書生のような人が、何処のどなたかご存知ありませんか?」
「さあ、知りません。もう顔も覚えていませんね」
竹村が携帯電話に保存してある金本信吾の顔写真を見せて、確認を求めたが、「何せ、もう十年以上も昔の話で、書生さんに会ったのも一度か二度だったと思います。当たり前ですが、こんな禿げた親父じゃありませんでした。すいませんねえ、もともと顔を覚えるのが得意じゃないもので」と困惑した表情で答えた。
竹村が質問を変える。「松永さんのお屋敷には、以前、板倉松子さんと言う方がお住まいになられていたはずですが、ご存知ありませんか?」
「板倉さん? そうだったかなあ・・・そう言えば、子供の頃、あの家にはお婆さんが住んでいたような気がします。てっきり、松永さんのお母さんだと思っていましたけど違うのですか?」
「血縁関係は無い様です。板倉岐山と言う有名な陶芸家の奥さんだった人なのですが」
「ああ、そう言えば、その話は親父から聞いたことがあります。あの家には有名人が住んでいたってね。ですが、親父は小説家だって言っていました。松永さんは有名人の息子なので、その遺産で働きもせずに生きて行けるんだって、羨ましく思っていました」
「松永さんは働いていなかったのですか?」
「さあ、その辺も詳しくありません。少なくとも、私どものように毎日、会社に通って、あくせく働いていたりしてはいませんでしたね。親父が生きていれば、もう少し詳しい話が出来たかもしれませんけどね」
結局、斉藤からは、それ以上、詳しい話を聞くことが出来なかった。
他に、古くからこの辺りに住んでいると言う住民を紹介してもらったが、尋ねてみると不在で、話を聞くことが出来なかった。
一旦、警視庁に戻り、松永の素性を洗い直してみることにした。




