本の精霊なら
殴りかかろうとするとそいつは余裕をもってよける。
そのままの勢いに引っ張られて、二、三歩たたらを踏んだ。何とか踏ん張り、振り返ろうして、
――富雄はん! あれ! あそこの人間!
視界の隅、帰宅途中なのだろうか、スーツ姿の男性がいる。もうそんな時間になっていた。もちろん、ここは住宅街。そういう男性が近くにいること自体は、特段、おかしなことではない。ないのだが、その様子がまったくの異常だった。
スーツ姿の男性は、ピクリとも動かず、その場に立っている。今まさに右足を前に踏み出そうとする格好で。前を向いて。今にも歩き出しそうだ。だが、動かない。その姿勢で固まったまま止まっている。
「こ、これは……!」
「ふふふ、ようやく気がついたか。お主と我の周りの時間は、今、止まっておる。つまり、今、動けるのは、お主と我だけだ」
「なっ…… お、お前は、一体……」
「ふふふ。そう、お主の家を燃やしたのは我だ」
瞬間的に言葉が口をついて出る。
「なにものだ?」
「ほお。なにものだと質問するのか。やはりな」
――富雄はん、そこは普通『なぜだ?』と質問するもんでっせ。『なにものだ?』だと、攻撃されている理由にうすうす気がついていると言っているようなもんでっせ。
あっ、しまった。くそ……
オレは、自分の失敗をごまかすように、そいつに殴りかかっていった。
まだ、これは致命的な失敗ではないはずだ。なんとか、挽回しなくては。
そいつはフードを目深にかぶって、表情までは読み取れないが、口元が愉快そうに歪んでいるのが、一層オレの怒りを駆り立てる。
さらに、オレは殴りかかる。無闇やたらと腕を振り回す。でも、やはり、そいつはひらりひらりとよける。よけ続ける。
何度、そんなことを繰り返しただろう。何度も何度も殴りかかっていき、そのすべてをよけきられ、結局、一発もそいつにあてることができなかった。
すぐに肩で荒い息をつくようになる。そいつはまだ薄笑いを口元に貼り付けたまま、オレを挑発する。
「ほら、その程度では、我を倒すことはかなわぬぞ。指一本触れることすら、かなわぬぞ。まして、お主の家を燃やした仇をとるなぞ、笑止千万」
「う、うるさい! よ、よくもオレの家を! よくもオレたちの家を!」
「ほれ、ほれ。どうした、息が上がっておるぞ。もう終わりか? ほれ、か弱き人間よ。我をやっつけるのではなかったのか?」
体の中に残るありったけの力を総動員して殴りかかるが、空を切るばかりだった。
「ほれ、虫けらめ。お主と我の能力の差を思い知ったか? お主ども人間のごとき弱き者が我のような偉大なる者に対抗しようなどと、おろかであることが分かったであろう」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
疲れきって、両手を膝に押し当てて、そいつを睨んでいるしかもうできない。膝が笑っているし、腕もブルブル震えるばかりで力がこもらない。ともすると、全身から力が抜けて、その場にくず折れそうになる。
ただ、眼だけでそいつに対抗していた。もう、それしかできない状態だった。もう、なにもできない。できそうもない。これ以上、やっていても無駄なようだ。
だが、本当にそうか? そいつをぶっ飛ばすために、オレにできることは、これで全部なのか?
――富雄はん、落ち着きなはれ。そいつは、あんさんを挑発して、ワテを引っ張りだそうとしてるだけでっせ。そいつ天使の仲間やわ! 天使は、生きている無関係の他者を攻撃することは禁じられてまっさかい。見てみいや、そいつは挑発するばかりで、あんさん自身を全然直接攻撃してこないでっしゃろ? それが証拠でっせ。
本の精霊の声がむなしくオレの頭の中に響いている。オレは、もう、その声に注意を払う気力すら薄れている。
そういえば、最初にあったときに、確か、こいつ、若草さんに取り憑いた天使ぐらいなら、倒せるとか豪語していなかったか?
あの強烈な爆発を引き起こした若草さんに取り憑いた天使を…… なら。
本の精霊が、なにかを頭の中で訴えている。けど、疲れきり、酸素不足なオレの脳は、それをうまく処理できない。訴えの内容をキチンと把握できない。
ただ、一つの考えだけが、オレの頭の中を占めはじめていた。
本の精霊なら、本の精霊なら……
「お、おい、お前。お前の……」




