ep3 リュネールの人々
結局、青年はキルに宿屋の場所を教えた。
街の中央広場から北へ向かい、石橋を渡って二つ目の角を左に曲がる。そこに、木造二階建ての宿屋がある。
説明は簡潔だった。
「ありがとうございます」
「もう聞きに来るなよ」
「努力します」
「努力じゃなくて覚えろ」
キルは笑って手を振ると、教えられた方角へ歩いていった。
青年はその背中を見送ることもなく、反対側の通りへ向かった。
朝から余計な時間を使ってしまった。
もっとも、旅に時間の制約などない。急ぐ理由もなければ、誰かと待ち合わせているわけでもない。
それでも、あの魔術師と話していると、妙に疲れる。
青年は通りの端に並ぶ露店を眺めながら、ゆっくりと歩いた。
リュネールは小さな街だった。
大きな城壁もなければ、立派な城もない。王都のように整然とした石造りの街並みが広がっているわけでもない。
家々は木材と石を組み合わせた素朴な造りで、屋根には赤茶色の瓦が並んでいる。窓辺には花が飾られ、軒先には乾燥させた薬草や果物が吊るされていた。
街の中央には小さな噴水があり、その周囲には商人や旅人が集まっている。
賑やかではあるが、騒々しくはない。
人々の声が重なり合い、時折、荷車の車輪が石畳を鳴らす。
街の外から吹き込む風には、草の匂いが混じっていた。
青年はこういう街が嫌いではなかった。
大きな都市には、どうしても人が多すぎる。
人が多ければ、噂も多くなる。噂が増えれば、余計な面倒も増える。
それに比べれば、こうした小さな街は気楽だった。
誰も自分の素性を知らない。
誰も過去を尋ねない。
ただの旅人として、通り過ぎることができる。
それだけで十分だった。
「お兄さん、何か探してるの?」
不意に声をかけられた。
振り返ると、果物屋の女性がこちらを見ていた。
以前、少女と一緒にいた女性だ。
「いや、特には」
「そう? なら、果物でもどうだい? 今朝採れたばかりだよ」
店先には赤い林檎や黄色い梨、見慣れない紫色の果実が並んでいる。
青年は林檎を一つ手に取った。
「いくらだ?」
「銅貨三枚」
「二つなら?」
「五枚でいいよ」
「安くなるんだな」
「二つ買ってくれるならね」
青年は銅貨を五枚取り出した。
女性が林檎を紙袋に入れようとしたところで、店の奥から小さな足音が聞こえてくる。
「お母さん!」
昨日の少女だった。
少女は青年の姿を見つけると、ぱっと顔を明るくした。
「あ! 旅のお兄さん!」
「また会ったな」
「うん!」
少女は店先まで駆け寄ってきた。
「今日はどこに行くの?」
「特に決めていない」
「じゃあ、私と一緒に遊ぼうよ!」
「仕事中じゃないのか?」
「今はお手伝いしてるの!」
「そうか。偉いな」
「えへへ」
少女は嬉しそうに笑った。
母親が林檎を紙袋に入れながら、苦笑する。
「この子、旅人さんが好きなのよ。いろんな話を聞かせてくれるから」
「そんなに面白い話はない」
「そんなことないよ!」
少女がすぐに反論した。
「旅のお兄さんは、遠くから来たんでしょ?」
「まあな」
「どんなところに行ったの?」
青年は少し考えた。
これまで訪れた場所を思い返す。
雪に閉ざされた北の村。砂漠の交易都市。大きな湖のほとりに築かれた古い町。山間にある鉱山の集落。
思い出せば、いくらでもある。
「色々だ」
「色々って?」
「寒いところも、暑いところも。山も森も、砂漠も見た」
「すごい!」
「別にすごくない」
「私もいつか行ってみたいな」
少女は林檎を見つめながら言った。
「お母さんは危ないから駄目って言うけど、私は外の世界を見てみたいの」
母親は困ったように笑った。
「旅は楽しいことばかりじゃないのよ。知らない土地で暮らすのは大変だし、危ないことだってあるんだから」
「でも、見てみたいんだもん」
少女の目には、隠しようのない好奇心が宿っていた。
青年は紙袋を受け取りながら、その様子を眺めていた。
「旅に出るなら、まずは足を鍛えておけ」
「足?」
「ああ。歩けなければ、どこにも行けない」
「それだけ?」
「それだけじゃない。水の場所を覚えること。夜になる前に休む場所を探すこと。道に迷ったら、無理に進まないこと」
少女は一つひとつ、真剣に頷いた。
「あと、知らない人についていくな」
「それは分かってるよ!」
「本当に?」
「本当!」
「ならいい」
青年は林檎の一つを少女へ差し出した。
「やる」
少女は目を丸くした。
「いいの?」
「二つ買ったからな。一つくらい余る」
「ありがとう!」
母親が慌てて口を開いた。
「そんな、悪いわ」
「気にするな。大したものじゃない」
少女は両手で林檎を受け取った。
その顔には、先ほどまで以上の笑顔が浮かんでいた。
「大切に食べるね!」
「腐らせる前に食べろよ」
「うん!」
青年は軽く手を上げ、その場を離れた。
背後から、少女の元気な声が聞こえてくる。
「お母さん、私もいつか旅に出るからね!」
「はいはい。まずは店のお手伝いを終わらせましょうね」
穏やかな会話だった。
青年は振り返らなかった。




