ep1旅人と小さな町
第1章
世界には、地図に記されていない場所がいくつもある。
人の足が踏み入れたことのない深い森。幾百年ものあいだ雪に閉ざされた山脈。海図に載らない孤島。そして、かつて栄えた文明の名残を残しながら、今では誰からも忘れ去られた古代遺跡。
それらは冒険者たちの好奇心を刺激し、学者たちの探究心を掻き立て、時には国同士の争いの火種にもなった。
けれど、そんな壮大な世界の片隅で、一人の青年は今日も気ままに歩いていた。
「……遠いな」
青年は道の先を眺め、心底面倒そうに呟いた。
街道は緩やかな丘を越え、遠くの森へと続いている。道の両脇には背の低い草花が咲き、ところどころに白い石が顔を覗かせていた。
空はよく晴れている。
風も穏やかで、旅をするには申し分のない日だった。
ただ一つ問題があるとすれば、目的地までの距離だった。
「地図では、もう少し近かったと思うんだけどな」
手にした地図を広げる。
古びた羊皮紙には、街道や河川、山脈の位置が細かく描かれていた。ところどころ書き込みがあり、何度も使われていることが分かる。
青年は地図と目の前の景色を見比べた。
「……まあ、道が間違ってるわけじゃないか」
そう結論づけると、地図を折り畳んで鞄にしまった。
急ぐ理由はない。
誰かとの待ち合わせがあるわけでも、期限のある依頼を受けているわけでもない。
彼は旅人だった。
行き先を決めず、気の向くままに土地を巡る。気に入った街があれば数日滞在し、飽きればまた別の場所へ向かう。
それが彼の旅の仕方だった。
もっとも、本人に言わせれば、自由気ままというよりは、帰る場所がないだけなのだが。
「おーい!」
不意に後ろから声がした。
振り返ると、少し離れたところから荷馬車が近づいてくる。
馬を操っているのは、日に焼けた顔の老人だった。荷台には木箱や麻袋が積まれている。商人だろう。
「兄さん、どこまで行くんだ?」
「この先の街までです」
「リュネールかい?」
「そう聞いています」
「なら、ちょうどいい。俺もそっちへ行くところだ。乗っていくか?」
青年は少し考えた。
「いいんですか?」
「歩き疲れてるだろう。荷物の邪魔にならなきゃ構わんよ」
「では、お言葉に甘えて」
青年は荷台の後ろに腰掛けた。
馬車がゆっくりと動き出す。
歩いているときには気づかなかったが、丘の上から眺める景色はなかなかのものだった。草原の向こうには広大な森が広がり、そのさらに先には白い山々が連なっている。
雲が山頂を覆い、まるで空と山が溶け合っているように見えた。
「旅は長いのかい?」
老人が前を向いたまま尋ねる。
「まあ、それなりに」
「どこから来た?」
「東の方です」
「東か。あっちは最近、街道の整備が進んでいるらしいな。昔は盗賊が出て大変だったが」
「今はずいぶん安全になりましたよ」
「ほう。行ったことがあるのか」
「少し前に」
「若いのに、あちこち回っているんだな」
老人は感心したように笑った。
「兄さんは冒険者か何かかい?」
「違いますよ。ただの旅人です」
「剣を持っているのに?」
「護身用です」
「なるほどねえ」
老人はそれ以上深く聞かなかった。
青年にとってはありがたいことだった。
旅をしていると、何かと身の上を尋ねられる。どこから来たのか、どこへ行くのか、何をしているのか。
答えること自体は構わない。
ただ、必要以上に自分のことを話すのは好きではなかった。
特に、過去については。
「そういえば、リュネールに行くのは初めてかい?」
「ええ」
「なら、いいところだと思うよ。大きな街じゃないが、飯はうまいし、人も悪くない。旅人にはちょうどいい」
「それは楽しみですね」
「ただ、街の西にある丘には近づかない方がいい」
青年は老人を見た。
「何かあるんですか?」
「古い石碑があるんだよ」
「石碑?」
「ああ。昔からあるものでね。誰が建てたのかも分からない。街の連中は気味悪がってるわけじゃないが、わざわざ見に行くようなものでもない」
「それだけですか?」
「それだけだよ」
老人は肩をすくめた。
「昔からあそこにある。子供の頃から見てきたが、何も変わらん。まあ、古いものなんてそんなもんさ」
青年は丘の向こうに目を向けた。
石碑。
それ自体は珍しいものではない。
各地を旅していれば、古い祠や石碑、用途の分からない石造物に出くわすことはある。大半は土地の境界を示すものだったり、昔の人物を祀るものだったりする。
中には本当に由来が分からないものもある。
「興味があるなら、街の古い連中に聞いてみるといい。昔話くらいは知ってるかもしれん」
「そうですね」
青年はそれ以上尋ねなかった。
馬車は丘を下り、川沿いの道へと入っていく。
水面には陽光が反射し、きらきらと輝いていた。
その景色を眺めながら、青年は目を細める。
穏やかな午後だった。
こういう時間が、彼は嫌いではなかった。
*
リュネールに到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街の入口には古びた石造りの門があり、その両脇には低い城壁が続いている。
門番は二人。
大きな街のような厳重な警備ではないが、通行人の身元を確認する程度の管理は行われているらしい。
「旅人か?」
門番の一人が青年に声をかけた。
「はい。数日滞在する予定です」
「武器は?」
「剣を一本」
「魔法は使えるか?」
「多少は」
門番は青年の腰にある剣と、旅装を一瞥した。
「滞在中に揉め事を起こさないようにな。ここは平和な街だ」
「気をつけます」
「宿なら中央広場の近くにいくつかある。食事をするなら東通りがいい」
「ありがとうございます」
門をくぐると、街の喧騒が耳に入ってきた。
市場では商人たちが声を張り上げ、店先には色とりどりの商品が並んでいる。焼きたてのパンの香りと、香辛料の独特な匂いが混ざり合い、通りを歩く人々の会話が絶え間なく聞こえてくる。
大通りから少し外れると、住宅街が広がっていた。
石造りの家々はどれも古いが、手入れが行き届いている。窓辺には花が飾られ、軒先には洗濯物が揺れていた。
街の中央には大きな噴水がある。
その周囲には露店が並び、子供たちが走り回っていた。
「……悪くないな」
青年は小さく呟いた。
老人の言う通り、落ち着いた街だった。
大きな商業都市のような騒がしさはない。かといって、辺境の村のように不便でもない。
しばらく滞在するにはちょうどいい。
まずは宿を探そう。
そう考えて歩き出したところで、道端に並ぶ小さな露店が目に入った。
果物を売っている店だった。
「いらっしゃい。旅人さんかい?」
店の女性が笑顔で声をかけてくる。
「ええ。何かおすすめはありますか?」
「この辺りで採れたリンゴがいいよ。甘くておいしいからね」
「じゃあ、それを二つ」
「はいよ」
女性は籠から赤いリンゴを取り出した。
青年が代金を払おうとすると、店の奥から小さな女の子が顔を覗かせた。
「お母さん、この人旅人さん?」
「そうだよ。邪魔しちゃ駄目」
「どこから来たの?」
「東の方から」
「東って、どんなところ?」
「ここより大きな街がある。人も多いし、建物もたくさんあるよ」
「お城もある?」
「あるところにはあるね」
「すごい!」
女の子は目を輝かせた。
「私もいつか行ってみたい!」
「そのうち行けるさ」
「本当?」
「たぶんね」
「たぶんなんだ」
女の子は少し不満そうに頬を膨らませた。
女性が笑う。
「この子ったら、旅人さんを見るといつもこうなんだよ。外の世界に興味があるみたいでね」
「いいことだと思いますよ」
「そうかねえ。危ない場所もあるから、心配だけど」
青年はリンゴを受け取り、一つを女の子に差し出した。
「はい」
「えっ、いいの?」
「一つはお嬢さんに」
「ありがとう!」
女の子は嬉しそうにリンゴを受け取った。
「旅人さん、また来てね!」
「機会があれば」
青年は軽く手を振り、露店を後にした。
こういう何気ない会話は嫌いではない。
ただ、あまり長く関わりすぎると、別れるときに少し面倒になる。
旅人というのは、そういうものだった。
*
中央広場を抜けた先に、一軒の宿屋があった。
看板には、羽根を広げた鳥の絵が描かれている。
扉を開けると、鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうから、恰幅のいい女性が顔を出した。
「部屋は空いていますか?」
「もちろん。何泊する予定だい?」
「とりあえず三泊ほど」
「食事は?」
「朝と夕方をお願いします」
「分かったよ。荷物は部屋に運ぶかい?」
「自分で運びます」
手続きを済ませると、女性は鍵を差し出した。
「二階の奥の部屋だよ。食堂は一階。お風呂は夕方から使えるからね」
「ありがとうございます」
「それと、夜はあまり遅くまで出歩かない方がいいよ」
「何かあるんですか?」
「何かあるってほどじゃないけどね。最近、街の外で妙な光を見たって人がいるんだよ」
「妙な光?」
「森の方さ。夜中に青白い光が見えるらしい。魔法の研究でもしてる人がいるんじゃないかって話だけどね」
「へえ」
「まあ、噂話だよ。気にしなくていい」
青年は曖昧に頷いた。
部屋に荷物を置き、窓を開ける。
眼下には街の屋根が広がっていた。
遠くには森が見える。
風が吹き込み、カーテンが揺れた。
「三日か……」
少し休んで、街を見て回るのも悪くない。
青年は上着を脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。
そこで、服の内側にしまっていたものが胸元で小さく揺れた。
指輪だった。
古びた銀色の指輪。表面には細かな装飾が施され、中央には見慣れない紋章が刻まれている。
青年はそれを手に取り、しばらく眺めた。
指先で紋章の縁をなぞる。
「……変わらないな」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び服の内側へしまった。
そして、何事もなかったかのようにベッドへ横になる。
窓の外では、街の人々の声が聞こえていた。
*
夕方、青年は宿を出た。
食事までにはまだ時間がある。
街の様子をもう少し見ておこうと思ったのだ。
大通りを歩いていると、広場の一角に人だかりができていた。
中央には年配の男性が立っており、子供たちに何かを話している。
「それでね、昔、この丘には大きな塔があったんだ」
「塔?」
「ああ。今はもう残っていないけどね」
「どんな塔だったの?」
「空に届くほど高かったらしいよ」
子供たちが歓声を上げる。
青年は足を止めた。
昔話か。
街に伝わる伝承というのは、土地によってさまざまだ。実際の出来事が元になっているものもあれば、長い年月のうちに形を変えたものもある。
「その塔には、星を読む人たちが住んでいたんだ」
「星を読むって?」
「夜空を見て、遠い未来を知る人たちさ」
「魔法使い?」
「そうかもしれないね」
老人は笑った。
「けれど、ある日突然、塔はなくなってしまった」
「壊れちゃったの?」
「さあね。そこまでは分からない」
「どうして?」
「昔のことだからだよ」
老人はそう言って、子供たちの頭を撫でた。
青年は少しだけ考え込んだ。
塔が消えた。
それだけなら珍しい話ではない。
しかし、気になったのは塔の存在そのものではなかった。
「……星を読む人たち、か」
青年は小さく呟いた。
そのとき、近くにいた女性がこちらを見た。
「旅人さんも昔話が好きなのかい?」
「いえ、少し耳に入っただけです」
「この街には古い話がたくさん残ってるからね。西の丘の石碑もそうだよ」
「石碑のことを知っているんですか?」
「もちろん。子供の頃からあるものだからね」
「何が書いてあるんです?」
「分からないよ。読める人なんていないんじゃないかね」
女性は笑った。
「昔は、あそこにお祈りに行く人もいたらしいけど、今じゃ誰も気にしてないよ」
「祈りですか」
「何を祈っていたのかも知らないけどね」
青年は丘の方を眺めた。
街の西側。
建物の向こうに、緩やかな斜面が見える。
その先に石碑があるのだろう。
「今度、見に行ってみようかな」
「物好きだねえ」
女性は楽しそうに笑った。
青年も軽く笑い返す。
だが、その目は丘の向こうに向けられたままだった。
*
夜が近づくにつれ、街には夕食の匂いが漂い始めた。
青年は宿に戻り、食堂の隅の席に腰を下ろした。
料理が運ばれてくる。
焼いた魚に香草を添えたものと、野菜のスープ。それから、少し硬めのパン。
派手ではないが、旅先の食事としては十分だった。
「お味はどうだい?」
宿の女将が尋ねてくる。
「おいしいですよ」
「そりゃよかった。魚は今朝、川で獲れたものだからね」
「川魚ですか。どうりで」
「明日は市場も賑わうよ。ちょうど商人たちが集まる日でね」
「それは見てみたいですね」
女将は満足そうに頷くと、別の客のところへ向かった。
食堂には数人の旅人がいた。
商人らしい男たちが取引の話をしている。隣の席では、若い冒険者が酒を飲みながら笑っていた。
青年は食事を進めながら、何気なく彼らの会話に耳を傾ける。
「北の街道は、また通行止めらしいぞ」
「今度は何だ?」
「山崩れだとさ。雨が続いたからな」
「面倒だな。遠回りするしかないか」
「それより、王都の方で何かあったらしい」
王都。
その言葉に、青年の手が一瞬だけ止まった。
「何だよ?」
「さあな。詳しい話は聞いてない。ただ、古い貴族の家が一つ取り潰されたとか」
「またか。最近多いな」
「時代が変わってるんだろうよ」
青年は何も聞かなかった。
魚を一口食べ、スープを飲む。
会話はすぐに別の話題へ移っていった。
王都の話など、珍しくもない。
遠い土地の政治事情に、今の自分が関わることはない。
そう思うことにしていた。
食事を終えた青年は、部屋に戻る前に宿の女将へ尋ねた。
「明日の市場は何時頃から始まりますか?」
「朝早くからだよ。見たいなら、九時頃が一番賑やかだね」
「分かりました」
「それと、明日は街の広場で魔法の催しがあるんだよ」
「魔法の催し?」
「旅の魔法使いが来ているらしくてね。何か実演をするんだとか」
「へえ」
「興味があるなら見ておいで。子供たちも楽しみにしてるよ」
「時間があれば」
青年はそう答えて、階段を上がった。
部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
遠くで鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
街の夜を知らせる鐘だった。
青年は窓辺に立ち、外を眺めた。
西の丘は暗闇に沈んでいる。
その頂上にあるはずの石碑は、もう見えない。
ただ、森の方角に、何かが一瞬だけ光ったような気がした。
「……気のせいか」
青年は窓を閉めた。
その夜、彼は久しぶりに深く眠った。
*
翌朝。
リュネールの街は、昨日よりも賑やかだった。
市場には周辺の村から商人が集まり、広場には露店が立ち並んでいる。
青年は朝食を済ませると、女将に教えられた通り市場へ向かった。
野菜、果物、衣服、生活用品。
珍しいものはなかったが、見て歩くだけでも退屈しない。
青年は薬草をいくつか買い、旅鞄にしまった。
そのとき、通りの向こうから聞き慣れない音がした。
低い笛のような音。
続いて、何かが弾けるような乾いた音が響く。
「何だ?」
周囲の人々が一斉に広場の方を向いた。
青年もそちらへ目を向ける。
広場の中央では、何人かの人々が集まり始めていた。
どうやら、女将が言っていた魔法の催しが始まるらしい。
「せっかくだし、少し見ていくか」
青年は人だかりの方へ歩いていった。
広場の中央には、若い男が一人立っていた。
黒髪。
紺色のローブ。
手には細い杖を持っている。
その男は周囲の人々に向かって、穏やかな口調で話していた。
「それでは、始めますね」
青年は人混みの後ろから眺めた。
男が杖を掲げる。
杖の先に、小さな光が灯った。
その光はゆっくりと広がり、空中にいくつもの光球を生み出していく。
子供たちが歓声を上げた。
「わあ!」
「きれい!」
光球は花のように開き、淡い金色の粒子となって空へ舞い上がる。
なかなか見事な魔法だった。
青年は感心したように目を細めた。
少なくとも、昨日の夜に見た怪しい光とは違うらしい。
男は一度、周囲を見渡した。
「次は、少しだけ応用したものをお見せします」
杖を持つ手に力がこもる。
空中に浮かんでいた光球が一箇所に集まり始めた。
光が強くなる。
そして――。
男の杖が、かすかに震えた。
青年は眉を寄せた。
何かがおかしい。
魔力の流れが不安定になっている。
男自身は気づいていないのか、杖を握り直してさらに魔力を注ぎ込んでいた。
「……おい」
青年が呟く。
次の瞬間。
広場が白い光に包まれた。
――ドンッ!!
爆発音が響き渡る。
風が巻き起こり、露店の布が大きくはためいた。
人々の悲鳴。
飛び散る木片。
空に立ち上る白煙。
青年は顔を覆いながら、一歩後ろへ下がった。
「……だから言わんこっちゃない」
煙の向こうで、誰かが立ち上がる。
黒髪の男だった。
ローブの裾は焦げ、髪には灰がついている。
しかし、本人は至って冷静だった。
「なるほど……火力の調整を間違えたみたいです」
青年は目を閉じた。
今日はどうやら、静かな一日にはなりそうもなかった。
*
その日の昼。
リュネールの広場には、まだ少しだけ焦げた匂いが残っていた。
そして青年は、自分の予定が大きく狂ったことを悟っていた。
宿に戻って休むつもりだった。
市場で買い物を済ませ、昼食を取って、午後は丘の石碑を見に行くつもりだった。
それだけの予定だった。
ところが、目の前には煤まみれの魔法使いが立っている。
しかも、どういうわけか彼は青年に向かって、にこやかに微笑んでいた。
「すみません。少し道を教えていただきたいのですが」
青年はゆっくりと息を吐いた。
「……まずは、街の人に謝ってこい」
旅の静けさは、ここで終わりを告げた。




