82話:覚悟
アーリアの家には、火が小さく燃えていた。
ティセラが入ると、テーブルの脇に、旅装の準備物が置かれていた。外套、水筒、保存食、地図。すぐに発てるように、整えられていた。
「お前のために、用意した」とアーリアが言った。
ティセラはそれを見た。一目で、用意の周到さが、伝わってきた。地図は、北の山の経路が、印で示されていた。保存食は、軽くて、栄養価の高いものだけが選ばれていた。アーリアは、ティセラがこの選択肢を選ぶ可能性を、最後まで残していた。
「逃げるなら、今夜のうちだ」
***
ティセラは座った。
アーリアも座った。
火が、薪をひとつ食う音がした。
「お前は今日、ヴークの敵になった」とアーリアは言った。「明日からは、扱いが変わる。書記の特権が、ひとつずつ剥がされていく。書庫の閲覧権が制限される。次に、評議への立ち会いが、必要最小限に減らされる。最終的には、罪状をでっち上げられて、捕らえられる可能性もある」
「わかっています」
「捕らえられた後の扱いについては、想像が及ぶか」
「及びます」
「ならば、選択肢を提示する」とアーリアは続けた。「北の山の向こうに、私の知人がいる。八十年前の話の続きに登場する者だ。お前を匿える。今夜出れば、明朝には森を抜けられる」
ティセラは、火を見ていた。
***
しばらくの間があった。
火が、また薪を食った。
ティセラは口を開いた。
「逃げません」
アーリアは少しの間、黙っていた。
「なぜだ」と、最後に聞いた。
ティセラは、答える前に、少し考えた。
答えは、いくつもの場所から来た気がした。今日の議場の発言、ヤヴェルへの詩、書庫で読んだ数字、ルシェンの「もう傍観者にはならない」という言葉(直接は知らないが、知っているような気がした)、ファトマの不在、メシャラの広場のうるささ——それぞれが、答えの一部だった。
それを、ひとつにまとめた。
「私が逃げれば、私の言葉も、逃げます」とティセラは言った。「私の言葉は、ここに留まらなければ、意味を持ちません。シルヴァローズの中で、評議会の議事録の脚注として残ることが、私の言葉に与えられる唯一の場所です。それを捨てて逃げるなら、私の言葉も、私と一緒に、北の山の向こうで眠るだけです」
アーリアは少し間を置いてから、笑った。
「お前は、本当にあのファトマの近くで育ったのだな」
「ファトマさんは、関係ありません」
「関係ある。あの女の周りで育った者は、皆、似た答え方をする」
ティセラは何か言いかけて、やめた。
***
「外交官」という言葉が、初めて出た。
アーリアが、言った。
「お前のやることは、もう書記ではない」
「書記、ではない」
「書記は記録するだけだ。だが、お前はこれから、エルフの中にいながら、エルフの外と繋がる橋になる。それを、古い言葉で『外交官』という」
「外交官」とティセラは繰り返した。
「だが、肩書きは、誰もくれない。評議会から任命されるわけではない。お前自身が、自分の中で、その立場を引き受けるしかない。誰の許可もないし、誰の保護もない」
「引き受けます」
「わかった」
アーリアは、それ以上、その言葉を繰り返さなかった。一度言って、ティセラが受け取った。受け取ったものを、繰り返す必要はない。
***
しばらくして、ティセラは席を立った。
帰る時間だった。
扉の前で、振り返った。
「アーリア様」
「うむ」
「八十年前のアーリア様は、自分のことを『外交官』だと、思っていましたか」
アーリアは少し考えた。
「思っていなかった」と答えた。「私は自分のことを、書庫の管理者で、長老の弟子で、それだけだと思っていた。やっていることに名前を付けたのは、もっと後だった。失敗した後、何年も経ってから、別の場所で別の長老から、『あれは外交だった』と言われた。そのときに、初めて、自分がしていたことが何だったかわかった」
「わかったとき、後悔は、増えましたか、減りましたか」
「減った」とアーリアは言った。「名前を付けたら、減った」
「……」
「名前を付ければ、それは『失敗したひとつの試み』になる。名前がなければ、それはただの、『何だったかわからない出来事』だ。後者の方が、人を長く苦しめる」
ティセラは頷いた。名前を付けることの、意味を、今夜、もうひとつ、覚えた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」とアーリアは言った。「今日、私はお前に、八十年前の自分が必要としていたものを、渡しただけだ」
***
ティセラは扉を開けた。
外に出る前に、もう一度、テーブルの脇の旅装を見た。
外套、水筒、保存食、地図。
「これは、どうしますか」と聞いた。
「置いておく」とアーリアは答えた。「お前のためにではない。次に、もう一人、同じような者が現れたときに、すぐ渡せるようにだ」
「次の者は、いますか」
「いずれ、現れる」
ティセラは扉を閉めて、外に出た。
***
夜の森を、一人で歩いた。
ランタンを持っていなかった。月が出ていた。月の光だけで、道は見えた。
途中で、足を止めた。
月を見上げた。
月は、メシャラで見たのと、同じ月だった。同じ大きさ、同じ位置、同じ光。完全記憶の中の月と、目の前の月が、重なった。
(同じ月を、南のどこかで、誰かが見ているかもしれない)
その思考が、来た。
来てから、ティセラは、それを「希望」と呼ばないことに決めた。希望は、危険な感情だ。希望は、人を、根拠のない期待に向かわせる。
代わりに、「事実」と呼んだ。
今、月が出ている。南でも、月は出ている。だから、誰かが見ているかもしれない。これは、確率の話だ。希望ではなく、事実だ。
事実なら、ティセラは扱える。
***
胸の前で、銀の試作品を、握っていた。
いつから握っていたか、わからなかった。気づいたら、握っていた。
手の温度で、銀が温まっていた。
「覚えている」と、独り言で言った。
誰のためでもなく、自分のために言った。
覚えていることは、これからも続く。覚えていることが、罰のように働く夜もある。覚えていることが、力のように働く夜もある。
今夜は、どちらでもなかった。ただ、覚えていた。
***
翌朝、店からの届け物が届いた。
ヤヴェルからだった。包みの中は、表向きには、エルフ古語の詩集だった。
ティセラは、書物の頁の間を、丁寧に確認した。
三十二頁と三十三頁の間に、小さな紙が挟まれていた。
***
「南で、お前の名前を聞いた者がいる。会いたいと言っている。秋の終わりに、中立の町で」
短い文章だった。
名前は、書かれていなかった。場所も、具体的には書かれていなかった。「中立の町」とだけあった。
ティセラは、その紙を、しばらく見ていた。
名前を、ヤヴェルが書かなかったのは、用心のためだった。途中で誰かが見ても、特定できない形にしてある。
しかし、ティセラには、わかる気がした。
(ヒューマンの若い参謀。十六か十七。四つの言語。判断が早い。前世にどこかを見てきたみたいに——)
わかる気がしたが、確かめるのは、別の話だった。
「会いたいと言っている」のが、本当にあの者かどうか——それは、実際に会ってからしか、わからない。
***
ティセラは紙を、ランタンの火で焼いた。
灰になった。
覚えていることは、消えなかった。文字を焼いても、ティセラの記憶の中に、その文章は残った。それで十分だった。
***
窓を開けた。
北部の朝の、銀色の光が入ってきた。
ティセラは、今日からの一日を、これまでと同じように始めようと決めた。書記の仕事は続ける。書庫の閲覧は、許される限り続ける。記録は、できる限り正確に取る。
その一方で、別のことも続ける。詩を、商人を通じて、南へ送る。聞く耳を持つ者へ届ける。
秋の終わりに、中立の町へ行く準備を、少しずつ進める。準備は、急がない。一日に、ひとつずつだ。完全記憶は、急がなくても、すべてを保つ。
***
窓の外で、樫の葉が、銀色に揺れていた。
ティセラは、外套を取った。仕事に向かう時間だった。
扉を開けて、外に出た。




