↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第2章:灰燼の種子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/102

82話:覚悟

 アーリアの家には、火が小さく燃えていた。


 ティセラが入ると、テーブルの脇に、旅装の準備物が置かれていた。外套、水筒、保存食、地図。すぐに発てるように、整えられていた。


「お前のために、用意した」とアーリアが言った。


 ティセラはそれを見た。一目で、用意の周到さが、伝わってきた。地図は、北の山の経路が、印で示されていた。保存食は、軽くて、栄養価の高いものだけが選ばれていた。アーリアは、ティセラがこの選択肢を選ぶ可能性を、最後まで残していた。


「逃げるなら、今夜のうちだ」


 ***


 ティセラは座った。


 アーリアも座った。


 火が、薪をひとつ食う音がした。


「お前は今日、ヴークの敵になった」とアーリアは言った。「明日からは、扱いが変わる。書記の特権が、ひとつずつ剥がされていく。書庫の閲覧権が制限される。次に、評議への立ち会いが、必要最小限に減らされる。最終的には、罪状をでっち上げられて、捕らえられる可能性もある」


「わかっています」


「捕らえられた後の扱いについては、想像が及ぶか」


「及びます」


「ならば、選択肢を提示する」とアーリアは続けた。「北の山の向こうに、私の知人がいる。八十年前の話の続きに登場する者だ。お前を匿える。今夜出れば、明朝には森を抜けられる」


 ティセラは、火を見ていた。


 ***


 しばらくの間があった。


 火が、また薪を食った。


 ティセラは口を開いた。


「逃げません」


 アーリアは少しの間、黙っていた。


「なぜだ」と、最後に聞いた。


 ティセラは、答える前に、少し考えた。


 答えは、いくつもの場所から来た気がした。今日の議場の発言、ヤヴェルへの詩、書庫で読んだ数字、ルシェンの「もう傍観者にはならない」という言葉(直接は知らないが、知っているような気がした)、ファトマの不在、メシャラの広場のうるささ——それぞれが、答えの一部だった。


 それを、ひとつにまとめた。


「私が逃げれば、私の言葉も、逃げます」とティセラは言った。「私の言葉は、ここに留まらなければ、意味を持ちません。シルヴァローズの中で、評議会の議事録の脚注として残ることが、私の言葉に与えられる唯一の場所です。それを捨てて逃げるなら、私の言葉も、私と一緒に、北の山の向こうで眠るだけです」


 アーリアは少し間を置いてから、笑った。


「お前は、本当にあのファトマの近くで育ったのだな」


「ファトマさんは、関係ありません」


「関係ある。あの女の周りで育った者は、皆、似た答え方をする」


 ティセラは何か言いかけて、やめた。


 ***


「外交官」という言葉が、初めて出た。


 アーリアが、言った。


「お前のやることは、もう書記ではない」


「書記、ではない」


「書記は記録するだけだ。だが、お前はこれから、エルフの中にいながら、エルフの外と繋がる橋になる。それを、古い言葉で『外交官』という」


「外交官」とティセラは繰り返した。


「だが、肩書きは、誰もくれない。評議会から任命されるわけではない。お前自身が、自分の中で、その立場を引き受けるしかない。誰の許可もないし、誰の保護もない」


「引き受けます」


「わかった」


 アーリアは、それ以上、その言葉を繰り返さなかった。一度言って、ティセラが受け取った。受け取ったものを、繰り返す必要はない。


 ***


 しばらくして、ティセラは席を立った。


 帰る時間だった。


 扉の前で、振り返った。


「アーリア様」


「うむ」


「八十年前のアーリア様は、自分のことを『外交官』だと、思っていましたか」


 アーリアは少し考えた。


「思っていなかった」と答えた。「私は自分のことを、書庫の管理者で、長老の弟子で、それだけだと思っていた。やっていることに名前を付けたのは、もっと後だった。失敗した後、何年も経ってから、別の場所で別の長老から、『あれは外交だった』と言われた。そのときに、初めて、自分がしていたことが何だったかわかった」


「わかったとき、後悔は、増えましたか、減りましたか」


「減った」とアーリアは言った。「名前を付けたら、減った」


「……」


「名前を付ければ、それは『失敗したひとつの試み』になる。名前がなければ、それはただの、『何だったかわからない出来事』だ。後者の方が、人を長く苦しめる」


 ティセラは頷いた。名前を付けることの、意味を、今夜、もうひとつ、覚えた。


「ありがとうございます」


「礼はいい」とアーリアは言った。「今日、私はお前に、八十年前の自分が必要としていたものを、渡しただけだ」


 ***


 ティセラは扉を開けた。


 外に出る前に、もう一度、テーブルの脇の旅装を見た。


 外套、水筒、保存食、地図。


「これは、どうしますか」と聞いた。


「置いておく」とアーリアは答えた。「お前のためにではない。次に、もう一人、同じような者が現れたときに、すぐ渡せるようにだ」


「次の者は、いますか」


「いずれ、現れる」


 ティセラは扉を閉めて、外に出た。


 ***


 夜の森を、一人で歩いた。


 ランタンを持っていなかった。月が出ていた。月の光だけで、道は見えた。


 途中で、足を止めた。


 月を見上げた。


 月は、メシャラで見たのと、同じ月だった。同じ大きさ、同じ位置、同じ光。完全記憶の中の月と、目の前の月が、重なった。


 (同じ月を、南のどこかで、誰かが見ているかもしれない)


 その思考が、来た。


 来てから、ティセラは、それを「希望」と呼ばないことに決めた。希望は、危険な感情だ。希望は、人を、根拠のない期待に向かわせる。


 代わりに、「事実」と呼んだ。


 今、月が出ている。南でも、月は出ている。だから、誰かが見ているかもしれない。これは、確率の話だ。希望ではなく、事実だ。


 事実なら、ティセラは扱える。


 ***


 胸の前で、銀の試作品を、握っていた。


 いつから握っていたか、わからなかった。気づいたら、握っていた。


 手の温度で、銀が温まっていた。


「覚えている」と、独り言で言った。


 誰のためでもなく、自分のために言った。


 覚えていることは、これからも続く。覚えていることが、罰のように働く夜もある。覚えていることが、力のように働く夜もある。


 今夜は、どちらでもなかった。ただ、覚えていた。


 ***


 翌朝、店からの届け物が届いた。


 ヤヴェルからだった。包みの中は、表向きには、エルフ古語の詩集だった。


 ティセラは、書物の頁の間を、丁寧に確認した。


 三十二頁と三十三頁の間に、小さな紙が挟まれていた。


 ***


「南で、お前の名前を聞いた者がいる。会いたいと言っている。秋の終わりに、中立の町で」


 短い文章だった。


 名前は、書かれていなかった。場所も、具体的には書かれていなかった。「中立の町」とだけあった。


 ティセラは、その紙を、しばらく見ていた。


 名前を、ヤヴェルが書かなかったのは、用心のためだった。途中で誰かが見ても、特定できない形にしてある。


 しかし、ティセラには、わかる気がした。


 (ヒューマンの若い参謀。十六か十七。四つの言語。判断が早い。前世にどこかを見てきたみたいに——)


 わかる気がしたが、確かめるのは、別の話だった。


 「会いたいと言っている」のが、本当にあの者かどうか——それは、実際に会ってからしか、わからない。


 ***


 ティセラは紙を、ランタンの火で焼いた。


 灰になった。


 覚えていることは、消えなかった。文字を焼いても、ティセラの記憶の中に、その文章は残った。それで十分だった。


 ***


 窓を開けた。


 北部の朝の、銀色の光が入ってきた。


 ティセラは、今日からの一日を、これまでと同じように始めようと決めた。書記の仕事は続ける。書庫の閲覧は、許される限り続ける。記録は、できる限り正確に取る。


 その一方で、別のことも続ける。詩を、商人を通じて、南へ送る。聞く耳を持つ者へ届ける。


 秋の終わりに、中立の町へ行く準備を、少しずつ進める。準備は、急がない。一日に、ひとつずつだ。完全記憶は、急がなくても、すべてを保つ。


 ***


 窓の外で、樫の葉が、銀色に揺れていた。


 ティセラは、外套を取った。仕事に向かう時間だった。


 扉を開けて、外に出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。