23話:名前のない恐怖
寝台に横になったが、眠れなかった。
長老たちの声が頭の中で反響している。「種族」という言葉が、残響のように消えない。
壁を作っている、とルシェンは思った。言葉の壁。意識の壁。目に見えないが、確実にそこにある壁。去年まではなかった壁が、今年になって一枚ずつ積み上がっている。
眠りに落ちたのは、深夜を過ぎた頃だった。
***
夢を見た。
今度は違った。これまでの夢——白い部屋、本棚、ページをめくる指——よりも遥かに鮮明だった。
街が燃えていた。
見知らぬ街だ。石造りの建物が並び、通りは舗装されている。窓にはガラスが嵌まり、壁にはこの世界のものではない文字の看板がかかっている。
その街が燃えていた。
建物の窓から炎が噴き出し、黒い煙が空を覆っている。通りを人々が走っている。叫び声。泣き声。乾いた破裂音——その音の名前を知っている。銃声。知らないはずの言葉が、夢の中では当たり前のように浮かんだ。破裂音が連続して響き、走っていた人が倒れ、動かなくなった。
自分はどこかの高い場所にいた。窓の向こうに燃える街を見下ろしている。手の中に一冊の本がある。開かれたページに地図が描かれていた。
色分けされた地図。いくつかの領域が異なる色で塗られている。この世界の地図ではない。海の形が違う。山の配置が違う。
だが、色分けの意味はわかった。種族——いや、この世界の言葉ではない。民族。その言葉が脳裏に浮かぶ。異なる民族が異なる領域を主張し、その境界線で血が流れている地図だ。
十五話の夢で見た、砕けていく地図と同じだった。一つだった色が分裂し、線が増殖し、線の上に血が滲んでいる。
地図の上に、国の名前が書いてあった。
読めた。完全な形で。はっきりと。
ページをめくった。次の頁には文字が並んでいた。読める。読めてしまう。
民族の数。言語の数。境界線の数。それぞれ複数。しかし旗は一つ。指導者は一人。そしてその一人が——死んだ。
心臓が止まりそうになった。
この言葉を——知っている。この世界の連邦と同じ構造を持つ国が、ここではない世界に存在していた。存在して——そして壊れた。燃える街は、その国の一部だった。
頁の上に、一人の男の写真——いや、写真とは何だ——が載っていた。軍服を着た老人。白髪。強い目。この世界の皇帝ゼノヴァルとは顔が違う。だが、その立ち姿が、ゼノヴァルの肖像画と重なった。
男が死んだ後に、国が壊れた——
その一文が読めた瞬間、夢が弾けた。
***
目が覚めた。
全身が汗で濡れていた。呼吸が荒い。心臓が肋骨を打ち破りそうなほど激しく脈打っている。
月明かりが窓から差し込んでいる。天井の木目が白く浮かんでいる。鍛冶場の匂い。鉄と煤と蜜蝋の匂い。自分の部屋だ。自分の世界だ。
その名前が、夢から持ち帰った唯一の土産だった。だが、今回はそれだけではない。名前の向こうに、構造が見えた。複数の民族を束ねていた一つの国家。皇帝が死んだ後に、壊れた国。
この世界の連邦と同じだ。
ルシェンは寝台の上で膝を抱えた。指先が震えている。今日の長老会議の声が蘇る。種族で分ける言葉。壁を作る声。十五話の夢で見た、砕ける地図。すべてが繋がり始めていた。
(知っていた)
丸括弧の中の声が、自分のものなのか、別の誰かのものなのかわからなかった。
(ずっと知っていた。この国は壊れる。この村は壊れる。隣人が隣人を殺す日が来る。知っていたのに——何もしなかった。何もできなかった)
涙が出なかった。泣くほどの感情ではない。もっと冷たい、もっと深い場所からの確信だ。夢の中で見た悲劇が——この肉体と、この友人と、この村の上に降りかかろうとしている。
窓の外を見た。交易路が月光の下に伸びている。村の家々の屋根が暗い空に連なっている。平和な夜だ。
だが、夢の中で見た街も——かつては平和だったのだろう。燃える前は。
ルシェンは膝に額を押し当てた。
何かが始まっている。何かが壊れ始めている。それが何なのかを、今は——知っている。
名前がある。
名前があるのに、止め方を知らない。
名前のない恐怖よりも、名前のある恐怖の方が、はるかに重かった。それを抱えたまま、ルシェンは朝を待った。
***
翌朝。
ティセラが鍛冶場に来た。
ルシェンの顔を見て、足を止めた。
「ルシェン。眠れなかったの?」
「わかるか」
「目の下に隈がある。それに——」
ティセラが一歩近づいた。翠の瞳が、ルシェンの顔を覗き込む。
「何かを見た顔をしてる。前にも同じ顔をしたことがあるわ。スポメニックに触れたとき。冬の日、三人で将来の話をしたとき。あなたが『この村が壊れる気がする』と言ったとき」
ルシェンは答えなかった。
「私の記憶は嘘をつかない。あなたは何かを知っている。知っているのに言えないのか、知っているのに信じたくないのか——どちらかはわからないけれど」
ティセラの声は責めるようではなかった。ただ、真っ直ぐだった。
「無理に聞かない。でも——一つだけ約束して。もし、この村に何かが起きるなら、私に教えて。語り部は、すべての声を記録する者だから。あなたが見たものも、私は覚えていたい」
ルシェンは喉の奥から声を絞り出した。
「ティセラ。もし——もし全部がだめになっても。俺たち三人のことは、覚えていてくれるか」
ティセラの目が見開かれた。
「……覚えている。一字一句。覚えているわ」
鍛冶場の炉がぱちりと爆ぜた。朝日が窓から差し込み、二人の間に一筋の光を落とした。
遠くでドラガンの声が聞こえた。「おーい、遅えぞ!」。太い声。いつもと変わらない声。
ルシェンは目を閉じた。一秒だけ。一秒だけ、変わらない朝を信じた。
それから目を開け、炉に向かった。火を入れる。今日もまた、火を入れる。
それがまだ、できるうちは。




