2話:交易路の民
市場は朝が早い。
メシャラ村のバザールは、交易路が村の中央を貫くあたりの広場に開かれる。舗装されていない地面に敷かれた色とりどりの布、木箱を積み上げただけの台、日除けの天幕。どれも粗末な拵えだが、そこに並ぶ品物は交易路の果てから果てまでの風土を映している。
ルシェンはボグダンに言いつけられた使いのために、朝一番の市場に足を運んでいた。蝶番に使う真鍮の留め具と、炉の内壁を補修するための耐火粘土。どちらも鍛冶場の消耗品で、定期的に市場で仕入れる必要がある。
広場の入り口を抜けると、匂いが変わった。
焼きたてのパンの香ばしさが最初に鼻を突く。ヒューマンの食料商ヤスミンの店からだ。隣では干し肉の燻製の匂いが漂い、その向こうからエルフの薬草商が吊るした薬草の束が、苦くて青い匂いを撒き散らしている。ドワーフの金物商の台からは油と金属の匂い。それらが混ざり合い、重なり合い、メシャラ村の朝をかたちづくっていた。
「ルシェン! 今朝は何がいる?」
ヤスミンが手を振った。小太りのヒューマンの女で、いつも小麦粉で白くなった手を前掛けで拭いている。彼女のパンは村で一番うまい。エルフの客にはエルフ好みの薄焼きを、ドワーフの客にはずっしりと重い黒パンを焼き分ける。
「耐火粘土、どこで買える?」
「ドワーフのゴランの店。今日は遅れてるみたいだけど、もうすぐ来るんじゃない? あと、これ持ってきな」
ヤスミンが焼きたてのパンを一つ、紙に包んでルシェンに押しつけた。代金を出そうとすると、手を振って断られた。
「ボグダンが先月、うちの竈の金具を直してくれたでしょ。おあいこよ」
村の経済は半分が物々交換で回っている。貨幣はあるが、顔の見える相手との取引では信用の方が重い。ルシェンはパンを受け取り、噛みついた。表面が硬く、中はふわりと柔らかい。ヤスミンのパンだ。
***
エルフの薬草商フローラの店は、バザールの東端にある。
天幕の下に吊るされた薬草の束が壁のように連なり、その奥で銀髪のエルフの女が乳鉢で何かを擂り潰している。フローラは北部森林領から毎年春になると南下してくる行商人で、メシャラ村には二十年近く通い続けているという。
ルシェンはフローラの天幕に近づき、声をかけた。エルフ語で。
「フローラさん、リンデンの花はありますか」
フローラが顔を上げた。翠の瞳が一瞬驚きを映し、すぐに柔らかく細まった。
「あら、ルシェン。相変わらず綺麗な発音ね。どこのエルフに習ったの」
「ティセラに」
「あの子に教わったにしては、ずいぶん古風な言い回しを使うわね。長老のアーリアの真似かしら」
ルシェン自身にも、なぜ古風なエルフ語が口から出るのかはわからなかった。ティセラに教わった言葉遣いとは微妙に違う。だが、エルフの耳には自然に聞こえるらしく、フローラは値引きの交渉にも上機嫌で応じてくれた。
「リンデン花を二束。それと、ボグダンの奥さんが喉を傷めているので、タイムの乾燥葉も少し」
「タイムなら三束で銅貨五枚にしてあげる。リンデンは一束銅貨三枚。まとめて銅貨十一枚でどう?」
「十枚にしてください」
「……まったく、ドワーフの弟子はドワーフ並みに値切るのね」
フローラが呆れたように笑い、銅貨十枚で手を打った。
薬草を麻袋に詰めてもらっている間に、隣の天幕から太い声が飛んできた。ドワーフ語だった。
「おい、小僧! ボグダンの弟子だろう。ちょうどいい、注文を頼みてえ」
声の主はドワーフの金物商ゴランだった。赤銅色の髭を胸まで伸ばし、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。ルシェンはドワーフ語に切り替えた。
「何が入り用ですか」
「鑢を三本、仕上げ用の細目で頼む。あと、金槌の柄が折れちまったんで、柄の挿げ替えもな。ボグダンの腕なら朝飯前だろう」
「承りました。耐火粘土も分けてもらえますか」
「そっちは親父の方に言っとけ。裏に在庫がある。持っていけ」
ゴランが顎で裏手を示し、ルシェンは回り込んで粘土の塊を二つ取った。重い。両腕に抱えて戻ると、ゴランが目を丸くした。
「ドワーフ語を喋るヒューマンの小僧は珍しくもねえが、ドワーフの訛りで喋る小僧は初めてだ。お前、山岳領に住んでたことでもあるのか」
「いえ。ボグダンの工房にいるうちに染みついたんだと思います」
「ふん。筋がいいな」
ルシェンはエルフ語とドワーフ語を行き来しながら市場を巡った。それが特別なことだとは感じていない。この村で育てば、隣人の言葉を覚えるのは自然なことだ。ヤスミンもドワーフの挨拶程度は知っているし、フローラも共通語とドワーフ語の簡単な取引用語を使いこなす。
ただ——ルシェンの場合、覚える速さと正確さが少し常識を外れている。それは自覚がないまま、周囲にだけ静かな驚きを残していた。
***
昼前のことだった。
交易路の南側から、大きな影が二つ、村の入り口に現れた。
背が高い。ヒューマンよりも頭一つ分は大きく、肩幅も腰回りも逞しい。厚い革の外套を纏い、背中に大荷物を括りつけている。肌は灰褐色で、下顎から突き出た犬歯が日の光を受けて白く光った。
オークだった。
バザールの喧騒が一拍途切れた。
それは本当に一拍だけで、すぐに元の騒がしさが戻ってきた。ヤスミンが「いらっしゃい」と手を振り、ヒューマンの農夫が軽く頭を下げ、ドワーフのゴランは目もくれずに金槌を磨き続けた。メシャラ村では、オークの旅人は珍しくない。交易路を南下する旅人は、種族を問わずこの村を通過する。
二人のオークは市場を見回し、水筒に水を補充させてもらえる場所を探しているようだった。ルシェンはパンの残りを頬張りながら近づいた。
「水なら広場の東の井戸が使えますよ」
共通語で話しかけた。オークの一人がルシェンを見下ろした。琥珀色の瞳に警戒が混じっていたが、ルシェンの年齢を見てか、すぐに力が抜けた。
「ありがてえ。ここは親切な村だな」
「交易路の村ですから。旅の人は多いです」
もう一人のオーク——年嵩の方——が、革の水筒の栓を抜きながら呟いた。
「メシャラか。噂どおりだ。エルフもドワーフもヒューマンも、隣り合って商売してやがる」
その声にどこか苦いものが混じっていた。ルシェンは首を傾げた。
「珍しいですか?」
「珍しいさ」
年嵩のオークが交易路の南を顎で示した。
「南部荒野領じゃ、こうはいかねえ。エルフの連中が俺たちの集会を禁じた。オーク語で歌を歌えば目をつけられる。三人以上で集まるなと言われる」
ルシェンがその言葉の意味を量りかねていると、若いオークが先輩を肘で突いた。
「おい、子供に言うなよ」
「子供にこそ言うんだ。この村が当たり前だと思うなよ、坊主。当たり前じゃねえんだ、こういう場所は」
年嵩のオークは水を汲み終えると、ルシェンの肩を一度叩き、交易路を北へ歩いていった。
***
二人の背中が交易路の曲がり角に消えるのを、ルシェンは見送っていた。
その視界の端で、動きがあった。
バザールの西端、エルフの薬草商フローラの天幕のさらに奥——日除けの影に座っていた老エルフが、二人のオークの方を見つめていた。白髪を高く結い上げた老人の表情は、この距離からでもわかるほど険しかった。
口元が動いている。何を呟いているのかは聞こえない。だが、その顔は友好とは程遠いものだった。
ルシェンは一瞬足を止めた。
老エルフの視線とオークの背中が、交易路の上で繋がり、切れた。それだけのことだった。何も起きていない。老人が不機嫌な顔をしていただけだ。
それだけの——はずだった。
胸のあたりに、名前のつけられない重さがほんの一瞬だけ落ちた。既視感、とすら呼べない微かな引っかかり。ここではないどこかで、同じような光景を見たことがある——いや、見たのではなく、読んだことがある——
何を?
その疑問は風に攫われるように消えた。ヤスミンの店から風に乗って漂ってきたパンの匂いが鼻をくすぐり、ルシェンは意識を引き戻された。
耐火粘土が重い。早く鍛冶場に戻らなければ、ボグダンに小言を言われる。
ルシェンは背筋を伸ばし、両腕に粘土を抱え直して、市場を後にした。
交易路には陽光が溢れている。エルフの子供が駆け抜け、ドワーフの職人が工具を担いで歩き、ヒューマンの女たちが井戸端で笑い声を上げていた。
当たり前じゃねえんだ、こういう場所は。
オークの老人の言葉が、耳の奥でもう一度響いた。ルシェンはその言葉の重さを量りかね、やがて日常の雑事に紛れさせた。十四歳の少年にとって、世界はまだ村と交易路と鍛冶場の中に収まっていた。




