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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

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1話:鍛冶場の朝

 夜明け前の鍛冶場は冷えている。


 石造りの炉、煤で黒ずんだ壁、天井から吊るされた無数の工具。それらが暗がりの中で鈍く輪郭だけを主張し、夜と朝の境にある空間をいっそう重たくしている。ルシェンは木炭の山に手を突っ込み、適当な大きさの塊をいくつか掴み出した。冷たかった。夜のうちに炉の余熱はすっかり逃げてしまっている。


 手のひらに炭の粉がこびりつく。黒い指先で炉の口に木炭を並べ、細く裂いた樹皮の束を奥に差し込む。火打ち石を打つ。二度、三度。鋭い音が鍛冶場の壁に跳ね返った。四度目で火花が樹皮に移り、か細い煙が立ち上がる。ルシェンは身を屈めて息を吹き込んだ。ゆっくりと、しかし途切れさせず。息は炎に変わり、炎は木炭を抱きしめるように広がっていった。


 炉に火が入ると、鍛冶場の空気が変わる。壁に染みついた金属と煤の匂いが温められ、鼻の奥をくすぐる。ルシェンはその匂いが嫌いではなかった。


「よう。今朝も一番乗りかよ」


 背後で声がした。振り返るまでもない。太い声、短く切り上げる語尾。赤毛を無造作に刈り込んだ丸顔の少年が、欠伸をしながら鍛冶場の入り口に立っている。


 ドラガンだった。


 ドワーフの少年は肩幅がルシェンの倍近くあり、腕は大人のヒューマンのそれより太い。それでいて顔にはまだそばかすが残っていて、寝起きの目をこすっている姿は年相応に見えた。


「炉の火入れは弟子の仕事だろ」


 ルシェンは炉の口を覗き込みながら答えた。木炭が赤く染まり始めている。まだ温度が足りない。


「一番弟子は俺だぞ。息子なんだから」


「腕の順番だったら、俺が一番だな」


「うるさい」


 ドラガンが背中を小突いた。ドワーフの力加減は大雑把で、ルシェンは半歩よろめいた。だが、どちらも笑っている。


 これが朝の挨拶だった。毎朝、交わす言葉はほとんど同じだ。変わらないことが心地いい。


 ***


 朝日が鍛冶場の窓から差し込む頃、ボグダンが姿を現した。


 西部山岳領から移り住んだドワーフの鍛冶師。肩の筋肉がくるみの殻のように硬く盛り上がり、笑った顔を見た者は少ない。灰色の髭を無言で撫でつけ、炉の火を一瞥する。ルシェンの火入れに文句をつけたことはない。それが唯一の褒め言葉だ。


「今日は蝶番を六つ。ファトマの家の戸が軋むそうだ。それと」


 ボグダンが作業台の上に金属の塊を二つ置いた。銅と錫。


「合金を作る」


 ドラガンが目を輝かせた。合金の作業はいつもの農具づくりとは違う。温度の管理、配合の比率、注ぎ込むタイミング。鍛冶の技術の中でも高度な部類に入る。


「師匠、比率は?」


 ルシェンが問うた。


「お前はどう思う」


 ボグダンの返答はいつもそうだった。試す。考えさせる。


 ルシェンは二つの金属の塊を手に取った。銅の重み、錫の軽さ。指の腹で表面をなぞり、質感を確かめる。ボグダンがこの二つから何を作ろうとしているかは明白だった。蝶番の軸受けに使う青銅合金だ。


 脳裏に数字が浮かんだ。


 銅が九、錫が一。


 なぜその数字が出てきたのか、ルシェン自身にもわからない。ボグダンに教わった覚えはない。ただ、指が金属に触れた瞬間、当然のように知っていた。


「九対一」


 ルシェンが答えた。


 ボグダンの眉が動いた。灰色の瞳がルシェンの顔を射るように見つめる。


「……なぜだ」


「わかりません。ただ、そう思いました」


「そう思った、か」


 ボグダンは金属の塊を取り上げ、秤に乗せた。分量を量りながら、一度だけ呟いた。


「その勘は大事にしろ」


 ドラガンが横で口を尖らせているのが視界の端に映った。ルシェンは何も言わなかった。心のどこかで、知っているはずのないことを知っている自分に、うすら寒いものを感じていた。


 ***


 午前の作業が一段落した頃、鍛冶場の入り口に影が差した。


 銀がかった長い黒髪が、朝の光を受けて淡く光っている。深い翠の瞳。尖った耳の先が、風に揺れる髪の隙間からちらりと覗いた。


 ティセラだった。


 エルフの少女は凛とした佇まいで戸口に立ち、鍛冶場の熱気と煤の匂いに一瞬だけ鼻をひくつかせた。そのしぐさが、この場所に似つかわしくない清潔さを際立たせる。


「ボグダンさん。長老アーリアからの言伝です」


「聞こう」


「守護精霊祭の飾り金具の件で、明日の朝、相談に伺いたいとのことです」


 ボグダンが短く頷いた。それだけで用事は済んだはずだが、ティセラは帰ろうとしない。視線がルシェンとドラガンの方に向く。


「祭りの準備、進んでる?」


 ドラガンが顔を上げた。煤だらけの手を革の前掛けで拭きながら、にやりと笑う。


「まかせとけ! 今年の力比べは俺が優勝するからな」


「去年も同じこと言ってたわね」


「去年はあのオークのでかいのが反則だったんだ。石を投げるのに腕の長さの制限がないのはおかしいだろ」


 ティセラが小さく笑った。その笑い声は鍛冶場のざらついた空気の中で不思議に澄んでいた。


 ルシェンは合金作りの準備をしながら二人の会話を聞いていた。


「ルシェンは?」


 ティセラがこちらを見た。翠の瞳が問いかけている。


「祭りの裏方。市場の配置を考えないといけない。エルフの薬草商と、ドワーフの金物商の間にヒューマンの食料店を挟む。緩衝材みたいなもんだ。じゃないと去年みたいに場所の取り合いになる」


「……そういうことばかり気がつくのね、あなたは」


 ティセラが首を傾げた。


「歳寄りみたいだって言いたいんだろ」


「言ってない。でも、緩衝材って——普通、十四歳の男の子は使わない言葉よ」


「そうか? なんとなく出てきた」


 ドラガンが声を上げて笑い、ティセラが耳の先端を指で触れた。照れているときの癖だと、ルシェンは知っている。


 三人が揃うと、鍛冶場の空気が軽くなる。煤だらけの作業場に、少年と少女の笑い声が妙に似合った。


 ***


 ティセラが帰った後、午後の作業に入った。


 ボグダンが手本を見せ、ルシェンとドラガンが交互に炉と向き合う。銅を融かし、錫を加え、合金が赤く液状に揺れるのを見つめながら、鋳型に流し込む。温度が高すぎれば気泡が入る。低すぎれば流れが止まる。その狭間を見極める目と手が要る。


 ドラガンが力任せに鋳型を傾け、合金が溢れかけた。ボグダンが無言で手を添え、傾きを修正する。ドラガンは唇を噛んだ。


 ルシェンの番になった。炉の色を見る。赤の深さ、揺らめきの速さ。火が語っている。もう少し待て、と。


 合金はなめらかに鋳型を満たした。気泡はない。


 ボグダンが何も言わなかった。それが合格の印だ。


 作業台の向こうで、ドラガンが革の前掛けの紐を弄んでいた。視線を合わせない。悔しさを飲み込んでいるのだと、ルシェンにはわかる。


「ドラガン」


 ルシェンは鋳型を冷やしながら言った。


「俺が炉で作れるのは、お前があの銅の塊を運んでくれるからだぞ。あれ、俺一人じゃ持てない」


 事実だ。鍛冶場の銅の塊は一つで成人のヒューマンが両手を使っても苦労する重さで、ドラガンはそれを片手で作業台まで運ぶ。


 ドラガンは一瞬黙り、それから鼻を鳴らした。


「当たり前だろ」


 口の端がわずかに上がっていた。


 ***


 夜。


 ルシェンは鍛冶場の裏の小部屋で寝ていた。ボグダンが弟子に与えた、壁と屋根と寝台があるだけの部屋だ。窓から差し込む月明かりが、粗い麻の敷布を白く染めている。


 夢を見た。


 見知らぬ白い部屋だった。壁も天井も床も白い。息苦しさがあった。胸のあたりが重く、何かが繋がれているような感覚がある。首を動かそうとしたが動かない。視界の端に、透明な管と金属の箱が見えた。


 管の中を何かが流れている。


 金属の箱が規則的な音を立てている。ぴ、ぴ、ぴ。心臓の鼓動に合わせるように。


 それが何であるかをルシェンは知らない。この世界のどこにも存在しない形をした道具だ。だが、不思議と恐怖はなかった。ここには長くいた、という感覚だけがあった。窓の外に灰色の空が見え、鳥が鳴いている。


 手が動いた。痩せた手だった。鍛冶場で固くなった自分の手とは違う。指先に紙の感触がある。胸の上に一冊の本が置かれていた。表紙の文字は読めない。読めないはずなのに、この本を何度も開いたことだけは知っていた。


 目覚めた。


 月は窓の外にある。炉の残り火のかすかな赤が、壁の隅を染めていた。汗をかいていた。


 何を見たのか、もう思い出せなかった。白い部屋の記憶は指の間から滑り落ちる砂のように消えていき、最後に残ったのは胸の奥のぼんやりとした寂しさだけだった。


 ルシェンは寝台の上で身を起こし、開いた窓から外を見た。交易路が月光の下に白く伸びている。その先に、鍛冶場の屋根の影と、村の家々の暗い輪郭が並んでいた。


 明日もまた、炉に火を入れる。ドラガンと軽口を叩き、ティセラが用事を運んでくる。ボグダンが何も言わずに頷く。変わらない朝が来る。


 変わらないと、信じていた。


 ルシェンは目を閉じた。今度は夢を見なかった。


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