102話:種の萌芽
ある朝、地下から伝令が走ってきた。
「ゴルダンから報告です。トンネルが外と繋がりました」
ルシェンは机から顔を上げた。
「いつ」
「夜明け前です。最後の土を抜きました。外の川の岸に出ています」
ルシェンは立ち上がった。
「現場に行く」
***
地下のトンネルをルシェンは歩いた。三百メートル以上の道を歩いて、最後の区画に着いた。
ゴルダンが待っていた。
「ここから外だ」
トンネルの先にわずかな光が見えた。日の光だった。
ルシェンは近づいた。最後の区画は敵に見えないよう岩と土で偽装してあった。岩の隙間から川の流れる音が聞こえた。
ルシェンは岩の隙間に近づいた。外の景色が見えた。川の岸。冬の景色。雪の積もった土手。遠くに敵の見張り台が見えた。だが、こちらは岩陰だった。
ルシェンは息を吐いた。半年間、ずっと止めていたような長さの息だった。
***
その日の昼、最初の物資が外から運ばれた。
穀物三十袋、薬の包み、薪の束。
外でシャヘルの近郊から逃れていた住民が物資を用意していた。市民組織の事前の連絡で調整されていた。トンネルが開通した瞬間に物資が入る手筈になっていた。ファトマが市民組織の総力を上げていた。
物資は地下のトンネルを通って、シャヘルの中に運び込まれた。
ファトマが地下の入口で受け取った。
「ありがとうございます」と外の住民の代表にファトマは頭を下げた。
「いえ、街を守ってくれて、ありがとうございます」と住民の代表は頭を下げた。
ルシェンはその光景を見ていた。
住民の代表がもう一つ、小さな革包みを差し出した。
「北から来た商人に坑道が開いたら渡せと言われました」
「商人の名は」
「ヤヴェル」
ルシェンは包みを開いた。
中に古いエルフ語の詩が一枚入っていた。銀葉祭を詠んだ短い詩だった。だが、行頭の文字だけを拾うと、別の文になる。
「北西の巡回は三日ごと。月のない夜、川沿いは空く」
署名はなかった。
ルシェンは紙を裏返した。裏にも何もない。書き手の名も書いた場所も日付もなかった。
「使えますか」と住民の代表が聞いた。
「使えます」
ルシェンは紙をベシムに渡した。
「次の搬入は月のない夜に。北西の巡回が交代した後で入れる」
ベシムが一度だけ紙を見た。
「誰が書いた」
「わからない」
「そうか」
ベシムは畳んで懐に入れた。聞き返さなかった。
ルシェンも書き手を決めつけなかった。ただ、古いエルフ語を使い、ヤヴェルへ渡し、シャヘルを生かそうとした者が北にいる。その事実だけを受け取った。
***
午後、街中にわずかな希望が広がった。
物資が入ってきたという噂は急速に広まった。子供たちが少し笑った。久しぶりの笑い声だった。
市場に夕方、人が増えた。新しく入ってきたわずかな食料を住民が見に来た。買えるとは限らなかった。だが、見るだけで心が温まる人がいた。
ファトマが市場の中央でその光景を見ていた。
「市場が街の地図だ」とファトマは独り言で言った。
ルシェンはその独り言を聞いていた。
***
夜、組織の幹部会議が開かれた。
「トンネルが開通した」とリアンが最初に言った。「これで街はもう少し長く保つ」
「物資の流れを安定化させる必要がある」とベシムが言った。「敵に発見されないように運び方を組織化する」
幹部たちが議論を続けた。ルシェンは聞きながら、判断を出した。判断は簡潔だった。説明は最小限だった。
会議が終わった。誰もルシェンの判断を疑問視しなかった。
会議が終わった後、リアンがルシェンに言った。
「ルシェン。お前はもう参謀じゃないな」
「形は参謀のままです」
「形はそうかもしれない。だが、判断の重みが参謀ではない」
ルシェンは何も言わなかった。
***
夜、ファトマのところに寄った。
ファトマがお茶を出した。
「ルシェン」とファトマは言った。
「はい」
「お前はお前のまま、ここまで来た」
ルシェンはしばらくファトマを見た。
「お前のままというのがもうわからなくなっています」
「わかっている」とファトマは言った。「わからないまま、来た。わからなくても来た。わかったら、止まる人間が多すぎる。お前は止まらなかった」
「俺はもう参謀ではないかもしれません」
「わかっている」
「俺は将軍と呼ばれかけています」
「いずれ、呼ばれる」
「俺はそれを止められません」
「止めなくていい」とファトマは言った。
ルシェンは少し止まった。
「止めなくていいと」
「止めれば、組織が崩れる。組織が崩れれば、街が崩れる。街が崩れれば、住民が死ぬ。お前はそれを許せない人間だ。だから、お前は将軍になる」
ルシェンは頷いた。
「だが」とファトマは続けた。「お前が将軍になっても私のところに来い。私がお前の名前をルシェンと呼び続ける。お前がルシェンであり続けるために私が覚えている」
「わかりました」
ファトマはお茶を一口飲んだ。
「『覚えている』」とファトマは言った。「ティセラの言葉だ」
ルシェンは止まった。
「ファトマさん、なぜ、ティセラの——」
「詩の朗読会の夜にお前が話した。私は覚えている」
「……」
「ルシェン。お前がティセラを忘れない限り、お前はルシェンだ。ドラガンを忘れない限り、お前はルシェンだ。お前が覚えている限り、お前はルシェンのままだ」
ルシェンは頷いた。それで足りた。
***
部屋を出て、夜の街を歩いた。
雪は降っていなかった。空は晴れていた。月が出ていた。
ルシェンは月を見上げた。メシャラで丘の上で三人で見上げた月と同じ月だった。
今夜、ドラガンもティセラも同じ月を見ているかもしれないとルシェンは考えた。考えてから、その思考を希望と呼ばないことに決めた。
北の森で同じ月を見上げたティセラが同じ言葉を選んでいたことを——ルシェンは知らなかった。
***
翌朝、傍受の網に新しい人事通信が引っかかった。ドワーフ独立軍、マルコ将軍指揮下。
「第三小隊長、ドラガン・ボグダンの息子。シャヘル包囲軍の前線指揮官として、正式に配属。任地、シャヘル北西の指揮所」
ルシェンはその行をしばらく見ていた。
手帳を開いて、新しい頁に書いた。
「ドラガン、前線指揮官として配属。シャヘル北西、敵指揮所」
日付を書いた。その下に書いた。
「道はいずれ交差する」
引き出しの底のページも取り出した。ドラガンの名前のページ。そこにもう一行を書き加えた。
「シャヘル北西、敵指揮所。前線指揮官」
書いてから、紙を引き出しの底に戻した。
***
城壁の上で北西を見た。敵の指揮所の旗が遠く見えた。緑と金のドワーフの旗。その旗の下に今ドラガンがいる。
ベシムが後ろから上がってきた。
「お前、何を見ている」
「敵の指揮所」
「ドラガンか」
「ドラガン」
「会うことになるかもしれない」
「なるかもしれない」
「そのとき、お前はどうする」
ルシェンはしばらく答えなかった。
「わからない」と最後に言った。
「わからないというのはいい答えだ」とベシムは言った。「準備できないことを準備しようとすると、人は嘘をつく」
ルシェンは頷いた。
***
二人でしばらく城壁の上に立っていた。北西の旗が揺れていた。北にエルフ、西に別のドワーフの旗、南東は塞がれている。だが地下にトンネルが外と繋がっている。
包囲は続いていた。しかし包囲の中で街は生きていた。市場が開き、子供が笑い、詩が地下で読まれていた。
***
城壁を降りた。自室に戻った。
手帳を机に置いたまま、しばらく開かなかった。書くべきことは多すぎた。包囲一年目の終わり、組織が動いていること、街が呼吸していること、ドラガンが前線にいること、ティセラが北のどこかにいること——どれも書こうとすると、足りなかった。
結局、ルシェンは一行だけを書いた。
「道はいずれ交差する」
手帳を閉じた。
窓を開けると、街の音が雪を含んだ夜気に乗って入ってきた。市場の声、子供の声、雪を踏む足音、遠くの砲撃、笑い声、泣き声——すべてが混じって、ひとつの低い和音のように街の音になっていた。
明日もこの街はこの音を出し続ける。続けられる限り、続ける——それが今夜ルシェンが自分に確認した、ただ一つのことだった。
***
第二部「灰燼の種子」了




