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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

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10話:市場の噂

 バザールの空気がおかしかった。


 いつもと同じ朝のはずだった。ヤスミンのパン屋は開いている。フローラの薬草の天幕も、ゴランの金物台も、定位置に構えている。交易路を行き交う人の数もいつも通りだ。


 だが、声が違った。


 客と商人の間を流れる会話の色が、いつもの雑談とは明らかに異なっている。声が低い。笑い声が少ない。あちらの天幕の影で、こちらの木箱の陰で、大人たちが顔を寄せ合い、囁き声で何かを交わしている。


 ルシェンはボグダンに頼まれた買い物の品——鉄鋲と蜜蝋——をゴランの店で受け取り、ヤスミンの店に向かう途中だった。


 ヤスミンの店の前に、ヒューマンの農夫が二人立っていた。畑仕事の手を止めて市場に来たらしく、泥のついた長靴のまま天幕の柱に寄りかかっている。声は抑えているつもりだろうが、ルシェンの耳には聞こえた。


「皇帝陛下が倒れたらしい」


 心臓が一拍跳ねた。


「倒れた? 病が悪くなったのか」


「帝都からの早馬が三日前に西部山岳領に入ったそうだ。内容は伏せられてるが、宮廷の侍医が総出で治療にあたっているという話だ」


「まずいな」


「まずいも何も、陛下がいなくなったらこの国はどうなる。世継ぎの話だって——」


 農夫の一人がルシェンに気づき、口をつぐんだ。ルシェンは何食わぬ顔でヤスミンの店に近づき、パンを一つ買った。


「ルシェン、今日は顔色が悪いわね」


「そうですか?」


「大人の話を聞いちゃったかい。気にしなさんな。噂は噂よ」


 ヤスミンはいつもの笑顔だったが、パンを包む手がわずかに震えていた。


 ***


 市場を横切りながら、ルシェンの耳は勝手に会話を拾っていった。


「ノームの連中はもう荷物をまとめ始めているそうだ」


 ドワーフの職人がヒューマンの商人に言っていた。


「ノームが? あいつらは臆病だからな」


「臆病なんじゃない、賢いのさ。風向きが変わる前に動く。千年前の大戦でも、ノームだけは早々に海を渡って逃げた。歴史は繰り返すってことか」


 歴史は繰り返す。


 その言葉が胸の奥で反響した。つい先日、自分がティセラに問いかけた言葉と同じだ。あのときは漠然とした感覚でしかなかった。だが今、バザールの隅々から漏れてくる囁き声が、その感覚に輪郭を与え始めている。


 エルフの薬草商フローラの天幕の前を通りかかったとき、声が聞こえた。


「——だからエルフの薬は信用ならないと言っているんだ!」


 ドワーフの声だった。ゴランではない。見知らぬ旅のドワーフが、フローラの天幕の前に立ちはだかっている。赤毛の髭を逆立て、太い指でフローラの薬草の束を指さしていた。


「この薬草、先月買ったのに効かなかった。金を返せ」


 フローラが静かに答えた。声は平静だが、翠の瞳に硬い光が宿っている。


「正しく煎じればきちんと効きます。煎じ方をお伝えしたはずですが」


「煎じた! その通りにやった! エルフの薬なんぞ所詮まやかしだ。エルフは昔から詐術が得意だからな」


 空気が張り詰めた。


 些細な口論だ。薬が効かなかったという苦言。それ自体は商売につきものの諍いでしかない。だが――「エルフの薬」「エルフは詐術が得意」という言い方には、薬の品質とは別の刃が含まれていた。


 フローラの目が細くなった。


「詐術、とは何のことでしょう」


「とぼけるな。北部の森でエルフが何をやっているか、こっちにも聞こえてきてるんだ。ドワーフの鉱夫を追い出して、森の領土を広げようとしているだろう」


「私は北部の政治とは無関係です。ここでは薬草を売っているだけです」


「お前がどうかは知らん。だがエルフはエルフだ」


 お前がどうかは知らん。だがエルフはエルフだ。


 ルシェンの頭の中で、その言葉が何度も反復した。個人ではなく種族で括る言い方。フローラという一人の薬草商ではなく、「エルフ」という集合体として扱う言い方。


 周囲の視線が集まり始めていた。ヒューマンの客が足を止め、ドワーフの職人が腕を組み、エルフの行商人が天幕の奥から顔を覗かせている。空気の中に、見えない線が引かれようとしていた。


「それまで」


 声が割って入った。


 ファトマだった。ヒューマンの長老が、痩せた体を揺らしながら二人の間に歩み入った。白髪を頭巾で覆い、深く刻まれた皺の奥から鋭い目を光らせている。


「ここは市場です。商売の場です。薬に不満があるなら、品物を持って正式に訴えなさい。それが市場の決まりです」


 旅のドワーフがファトマを見下ろした。ドワーフの背丈でも、痩せた老女よりは大きい。


「市場は全ての民のものだ」


 ファトマの声は小さかったが、市場全体に届いた。


「エルフのものでも、ドワーフのものでも、ヒューマンのものでもない。全ての民のものです。だから、ここでは全ての民が公正に扱われる。種族で人を括る言葉を、この市場で使うことは許しません」


 旅のドワーフは舌打ちをし、背を向けて去った。フローラが小さく頭を下げ、ファトマが頷き返した。


 それで場は収まった。天幕の下に日常が戻り、客が動き始め、商売の声が復活した。


 だが、ルシェンにはわかった。収まったのは表面だけだ。旅のドワーフの言葉は、周囲の耳に残っている。エルフはエルフだ——その言い方が、目に見えない棘として空気に刺さったまま抜けていない。


 ファトマが市場の通路を歩いていく後ろ姿を、ルシェンは見つめていた。小さな背中だった。この村を束ねている細い背骨。それがいつまで保つのかと——なぜそんなことを考えたのか、自分でもわからなかった。


 ***


 夜。


 夢を見た。


 白い部屋ではなかった。今度はもっと広い場所だった。壁一面に本が並んでいる。天井まで届く棚に、数えきれない本が詰まっている。


 自分はその部屋の中にいた。椅子に座り、机に向かっている。手の中に一冊の本があった。紙の質感が指先に鮮明だった。ページをめくっている。文字が見える。読める——いや、読めない。だが、読めたような気がする。


 ページの上に、文字の列が並んでいた。黒い細い文字。横に並んでいる。この世界の文字ではない。見たことのない形の文字だ。だが、指が勝手にページを追っていく。意味は取れない。意味は取れないのに、視線だけが文字の上を滑っていく。


 一つの語が浮かんだ。読みかけた——読めなかった。だが、その形だけが網膜に焼きついた。意味はわからない。何語なのかもわからない。ただ、その文字の断片が重要であることだけは、体の奥底からの確信としてあった。


 ページがめくれた。次の頁には地図が載っていた。見たことのない形の大陸。海と山と川が描かれ、色分けされた領域がいくつもある。その地図の中の一つの領域が——


 目が覚めた。


 月明かりが窓から差し込んでいた。汗をかいていた。呼吸が荒い。


 ルシェンは暗闇の中で天井を見つめた。


 文字の断片だけが、記憶に残っていた。白い部屋の夢のときよりも鮮明だった。本の感触、紙の匂い、ページをめくる指先の動き。あれは自分の記憶ではない。ありえない記憶だ。この世界のどこにも存在しない文字で書かれた本を、自分が読んでいた。


 意味がわからなかった。


 だが、怖くはなかった。怖くはないのに、どうしようもなく寂しかった。


 ルシェンは寝台の上で身を起こし、窓の外を見た。交易路が月光の下に伸びている。いつもの景色だ。何も変わっていない。


 何も——まだ、変わっていない。


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