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第四章(後)・別れ

 

 次の日の朝、検温に来た看護師さんが、割と年嵩(としかさ)の看護師さんを一緒に連れてきた。

「こちら、篠崎さんです」

 そう紹介されるのに、ベッドに半身を起こしていたわたしはよく判らないままぺこりと頭を下げる。

「おはようさん」

 白いものの混じった髪を後ろでまとめたその女性は、柔和な笑みを浮かべてベッドの脇の椅子に腰を下ろす。

「わたし、(はら)いいます。どないですか、具合は」

「あ、はい、ちょっとちくちくするくらいで、もうそんなに大したことないです」

「さすが、若いねぇ。ちょっとしんどいかもしれんけど、今日明日は少し動いた方が、後が逆に楽やし、お気張りよし」

 まるで小さい子供に話すような口調で言うと、原さんはよいしょ、と座り直した。

「篠崎さん、森谷さんの姪御さんなんやて?」

 そして続いた言葉に、わたしはびっくりする。

「え、あ、はい」

「そうなん。こんな大きい姪御さんがねえ。はあ、そうやったん」

 ひとりにこにこと笑っている原さんに、わたしは質問する。

「あの、シン……叔父と、お知り合いなんですか?」

「知り合いゆうか……ほら、昨日、森谷さんまたえらい暴れはったんやろ?」

「……また?」

 こう、何と言うか実に不吉な単語を耳にして、わたしは不安になる。そういやシンさん、昔荒れてたって言ってたもんな。喧嘩でしょっちゅう運ばれてきてたとか、その類じゃなかろうか。

 ところが原さんの口からは、更に意外な名前が出てきた。

「うん、ほら、昔、野々宮さんが亡くならはった時、あん時ももうえらい暴れて暴れて」

 わたしは思わず、すっと息を呑んだ――シンさんの「センセイ」。

「もう、ほんまにえらいことなってねえ。備品も幾つも壊すわ、他の部屋から苦情は来るわ」

「……すみません」

 何だかこちらが申し訳ない気持ちになって肩をすくめると、原さんは唇をすぼめるようにして、ほっほっと笑った。

「まああん時は個室やったさかいね、その分まだマシやったけど。ひとしきり暴れた後、床にべったり座って、手が腫れるくらい自分の膝叩いて……ぼろぼろ泣いてはったわ、森谷さん」

 ズキリ、と胸が痛んだ。その姿が、まるで手に取るように目の前に浮かんで。

「野々宮さん、胃がんやってね。運ばれてきた時は、もう手遅れやってんよ。入院してから亡くなるまで、三ヶ月も、なかったかなぁ……最後はもうずっと泊まり込みで付き添ってはってね、森谷さん」

 皺の多い手をそっと撫でながら、原さんはどこか歌うようにやわらかい口調で話した。

「夜もあんまり寝てへんみたいな感じで、どんどんやつれていくもんやさかい、わたし等も心配になってねえ。夜の見回りの時やらに、ちょっと話聞いてみたりしてんけど……入院しはった時にもう手遅れになっとったくらいやから、ご本人は、もう長いこと相当痛かったと思うねん。けど、それずっと、我慢してはったみたいで」

 どきん、と胸が動く。

「時々痛そうな様子は見せてはったみたいで、それで何度か、病院行き、とは言うたんですって。そんでも、まあ大したことないやろ、て本人がその都度、流さはったらしくて。ある日、家に行ったらもうそこで倒れてはって、そんで救急呼んで」

 ……ああ。

 わたしは目の奥がじいんと熱くなるような思いがした。

「なんでもっと強く、病院行けって言わんかったんか、て……無理にでもひきずっていったら良かった、て、森谷さんそう、何度も何度もねえ」

 ――痛いんやったらすぐ行け。

 いつもよりずっと、きつい口調とまなざしで言ったシンさんの顔が目の前浮かんだ。そうか……シンさん、そうだったのか。

「篠崎さん、森谷さんに内緒で入院しはってんて?」

 思わずしんみりとしていると、急に名前を呼ばれて、わたしは驚いて原さんを見直した。

 こちらを覗き込むようにして、原さんはにこにこと笑っている。

「何があったんか知らんけど、叔父さんにあんな心配さしたらあかんよ」

 わたしは言葉に詰まって、目元に皺を寄せて優しく微笑む原さんを見返した。

「あんな思い、もうさしたらあかんよ……あない大事に思てくれてはんねんから、ちゃんとこっちからも大事にしてあげな」

 わたしは何も言えないまま、ただこくりとうなずく。

「よし」

 原さんはシーツの上に出していたわたしの手をぽんぽん、と優しく叩くと、よいしょ、と腰に手を当てて立ち上がった。

「あ、わたしが篠崎さんとこ来たん、叔父さんには内緒ね。また暴れたん知られた思たら、向こうも気まずいやろから」

「あ、はい」

 うなずくと、原さんはにこっと笑って「ほな、お大事に」と手を振って病室を出ていった。

 後に残され、ほう、と自然にため息が出る。

 厳しく「病院に行け」と言った姿と、大声で病室に怒鳴り込んできた姿。そして実際には見ていない、病室の床に座り込んで膝を叩いて泣くシンさんの姿が脳裏にまざまざと浮かんだ。

 ああ、本当に……本当に、センセイがずっと、シンさんの傍にいてくれれば良かったのに。そうしたらシンさんは、そんな辛い思いをしなくて済んだのに。そんな風にひとりで泣かないで済んだのに。

 その哀しみが胸に突き刺さるようで、切なかった。

 そして自分が、シンさんに本当に悪いことをした、心底からそう思った。いくら知らなかったとはいえ。

 ――あない大事に思てくれてはんねんから。

 原さんの低い、やわらかい声が耳の裏に甦る。

 何だか顔に血がのぼってきて、わたしは膝を丸めてシーツの上に頬をうずめた。



 手術から四日目、わたしは無事退院した。

 あれからシンさんは毎日面会時間きっかりにやってきて、時間の最後まで部屋にいてくれた。

 傷の痛みは本当にあっという間に小さくなっていったし、今は忙しい時期なんだからずっとついててくれなくていい、帰って仕事して、と何度も言ったが、シンさんは頑なに譲らなかった。

 荷物をまとめて同室の患者さん達に挨拶すると、すい、とバッグをひとの手から取って先に立って歩き出す。

 エレベータを下りてそのまますたすたと受付まで歩いていくと、清算窓口でお金を払おうとするのにわたしは面食らった。

「ちょ、ちょっとシンさん、待って」

 事前にいくらくらい、というのを看護師さんに聞いてあったので、昨日のうちに病院のATMでお金はおろしてあった。それは安くはないけれど、でも今までのバイト代や仕送りを節約して溜めたお金で充分払える額だ。

「シンさん」

 名を呼んだ声を全く相手にもせずに、シンさんは窓口をわたしから塞ぐように立つとさっさとお金を払ってしまう。

「シンさん、それはさすがに駄目だよ。わたし払う」

 ひとを完全に無視して、どんどん出口へと歩いていくシンさんを急いで追いかける。

「それくらいわたし大丈夫だから。ねえ」

「――お前黙っとけ」

 病院の玄関を出て立ち止まると、シンさんは低い低い声で言って、顔半分だけ振り返ってじろりとこちらを睨んだ。

「それ以上なんか言うたら切れたんぞ」

「だって」

「ああ……そや、誕生日祝いやとでも思っとけ」

 わたしは途方に暮れて立ち尽くした。そんなこと言われたって、さすがにそれは困る。

 うちの親はあの通りの人達だから、もし盲腸で手術をする、と言えば、あっさり全額、ぽんと払い込んでくるだろう。ただそれだけで、二人ともこちらに来たりすることはないけれど。母親はもしかしたら来る、と言うかもしれないが、あの父親がそれを許す筈がない。

 それは正直判っているのに、言わずにいて全部自分で背負い込む、というのは、わたしが勝手に選んだことだ。なのにその負担をシンさんにかぶせるなんて到底できない。

 天下の公道で怒鳴られたっていい、これは承服できない、と口を開きかけた瞬間、

「――佐和さんと半分ずつ、てことで話はついてる」

 と、前を向いたままシンさんがぼそっと言った。

「え?」

「今回の費用は、俺と佐和さんとで持つ。……親代わりや」

「――――」

 いきなり心臓を撃ち抜かれたような思いがして、わたしは棒立ちになった。

「そやし、これ以上ガタガタ言いな。……判ったな」

 シンさんはわたしを見ないまま言うと、また歩き出す。

 わたしはゆっくり、深呼吸を二度して、その後を追って歩き出した。

 心臓がどきどきと、早鐘を打っている。

 少し距離を開けて、前をシンさんの広い背中が揺れている。

 シンさんと、伯母さん。

 ――親代わりや。

 ……ああ。

 その背中が、急に湧いて来た涙でゆらりとぼやけた。



 久々に帰ってきた家は、ひんやりと冷えていた。

「寒いなあ、この部屋。しんどないか。寝るか?」

 すとん、とバッグをこたつの上に落として、シンさんが尋ねてくる。

「ううん、大丈夫」

 わたしは急いでヒーターとこたつのスイッチを全開にして、台所に行ってやかんに水を入れ火にかけて。

「なんか要るもんあったら買うてくんぞ。早よ言え」

「うーん」

 わたしはちょっと首をひねった。まあ確かに、ずっと家を開けていたので多少の買い物はしときたいところだし、特にない、とか言ってしまうとまた怒られそうだ。

「うん、そしたら、牛乳と卵、かなぁ。あと……」

「あ、ちょ、ちょ待て、メモかなんかあるか」

「あ、うん」

 机の上からメモ用紙とペンを取って手渡す。

 他にヨーグルトや多少の野菜を頼むと、シンさんはメモをしてうなずいた。

「――了解。買うてくるわ」

「ありがとう」

 頭を下げると同時にやかんが音を立て始めたので、わたしは台所へ戻る。

 お湯をポットに移して振り返ると、シンさんがすぐ近くに立っていた。

「え?」

 面食らっていると、シンさんがずい、と握り拳をこちらに差し出す。

「……?」

 よく判らないまま両手を出すと、その中にぐい、と何かを押し込んで、ぱっと身を翻して部屋を出ていってしまう。

 とんとんとん、と早足で階段を下りる音――続いて、ばたん、と扉が開閉される音が聞こえて。

 ……何、だろう?

 手を開くと、そこにはくしゃくしゃになった先刻のメモ用紙がある。

「なんだ、これ……」

 小さく呟きながら丸められたそれを開いて――え?

 そこには乱暴に書きなぐられた、十一桁の数字があった。

 頭の数字は〇九〇――え、え、これ、もしかして。

 携帯……電話?

 知らず、呼吸が早くなった。

 まさかと思うけど……シンさん、電話、買ったの?

 一体どうして、って……あ。

 ふと思い至って、わたしは顔を上げた。

 電報がすぐに受け取れなかった、と口惜しそうにしていたシンさんの顔が頭に浮かぶ。

 その為に……?

 わたしは足から力が抜けて、ぺたんとその場に座り込んだ。



 その日の夜、わたしは恋人に電話をかけて、別れを告げた。

 いつものように電話はかけ辛かったけれど、それでも今までよりずっと楽な気持ちでいる自分に自分で驚く。

 もうどう思われたっていいや、と思ってるんだ、わたし。

 それをはっきり、自覚する。

 だってもう、自分達は終わりなのだから。

 相手は一言も反対することなく、わたしの言葉を受け入れた。

 自分でも拍子抜けする程、あっけなく電話は終わった。

 わたし達の十ヶ月間が。

 最後に恋人は小さく「ごめんな」と言った。

 わたしはそれが、少し嬉しかった。

 電話を切って、布団の中にすべり込むと、自然と吐息が口をつく。

 ……ああ、ほんとに、終わったんだなぁ。

 そう思うと意外なことに、こころが驚く程、軽くなって自由な気がした。

 もう相手の状況に一喜一憂しなくていい。もうあんな風に自分で自分を縛っていなくてもよくなったんだ。

 それは想像だにしなかった解放感で、自分でも驚いた。気がつかないまま、相手の存在がここまで自分の精神の負担になっていたことに。

 わたしは目を閉じて、久しぶりに深く深く眠った。



 次の日、伯母が京都までやって来た。

 わたしはシンさんと一緒に駅まで迎えに行く。

 昨日押しつけられた携帯番号については、あれから何となく聞けずにいた。聞かなくてもその思いは伝わっているような気もして。

 ホームで出迎えると、伯母が大きく手を振った。

「あんた、大丈夫なの? 寝てなくていいの?」

 開口一番、ひとの肩に手をかけ、心配そうに尋ねる。

「お腹切ってるのに、そんなすたすた歩いて……」

 ああ、ここにもまた、盲腸手術の知識が古い人がいるぞ。

 わたしは可笑しさをこらえて、その手を外した。

「平気。後で見せてあげる。もう、傷なんて呼ぶ程のレベルじゃないから」

「そうなの? でも」

「そっちこそ、インフルエンザは? どうなの?」

「ああもう、すっかり。いやほんと、来年からは予防接種しようと思ったよ。あんたも受けな。あれはもう、地獄だから」

「多分、肉体的しんどさレベルで言ったら、伯母さんの方が間違いなくわたしより上だったと思うよ」

 わたしは言いながら、伯母と並んだ。

 シンさんが伯母の荷物を手に取り、先に立って歩き出す。

「竜司、久しぶり」

 その背に伯母が穏やかな声をかけると、シンさんは少しだけ振り向いて「ん」と愛想の無い、短い声で答えて。

「お昼、食べようか。竜司、この辺なんかいいとこないの」

「んー……うどんとかで、ええかな」

「おいしきゃ何でもいいよ。ねえ」

「うん」

 わたしは伯母のあちこちに飛びまくる話を聞きながら、シンさんの後について歩いた。

 今年の林檎の出来はどうの、敏行伯父さんの姪っ子の結婚相手が変わってるだの、あれこれと話されるのをひたすら聞いている内、店にたどり着く。

 そこは田上沢さんと最初に一緒にご飯を食べた店だった。昼間はうどんをメインにランチを出しているらしい。

 十二時より少し前のお店は、まだすいていた。

 わたしと伯母は並んで座り、シンさんがその向かいに座る。

 注文を終えると、シンさんがポケットから何かを取り出して――あ。

 黒い、二つ折りの携帯電話。

「竜司、それ」

 伯母が目を丸くして声を上げる。

「言うとくけど、あくまで緊急用やから。佐和さん、絶対にレイコに番号、いや、電話持ってんのも教えんとってや。あ、お前もやで」

 と、こちらを見て言うのに、わたしも叔母同様に目を丸くする。

「え、なんで?」

 本当に判らなくて素直に聞くと、シンさんは苦虫かみつぶしたような顔でわたしを睨んだ。

「あほ、あいつに教えたらどえらいことになんねんで。一週間もせん内に、京都市民の半分は俺の番号知ってることになるわ」

 ……それは言い過ぎ、と思ったが、さもありなん、という気もする。

「同期ほぼ全員に教えそうやし、ガミに伝わった日には学生にまで伝わりそうやし……大体レイの奴、俺の取引先と俺より仲いいねんで。取引先なんかに電話持ってること知られたらかなわんわ」

 ますます、そりゃそうだろうなあ、という思いがした。レイコさん、全然悪気なくどんどん教えちゃいそうだもんな。

「ええ、でも、竜司」

「あいつに教えんねやったら、佐和さんにも番号教えんし。もし教えたら即番号変えるからな」

 不満げに唇をとがらせる伯母に、シンさんはびしっと釘を刺して。しかしこの伯母の口を閉じさせることも、なかなか至難の業という気がするのだが。

「……判ったよ。じゃ、番号教えて」

 しぶしぶといった顔で、伯母が自分の携帯を取り出す。

「ほんま、絶対広めんなよ。お前と佐和さんだけやぞ。あと、緊急以外にむやみにかけてくんなや」

「はあい」

 わたしは苦笑混じりにうなずいた。でもそんなこと言ったって、どうせ早晩、携帯持ってることなんてバレるに決まってるし、バレたらあのレイコさんがシンさんから番号聞き出せない訳がないし。

 読みが甘いと思うなあ、シンさん。

 わたしはこみ上げる可笑しさをこらえながら、運ばれてきたうどんを食べた。



 食事の後、シンさんとは別れて伯母はわたしの家に来た。

 どうやら何日か泊まり込んで面倒を見るつもりだったらしく、会ってみたわたしが存外に元気なのに拍子抜けしたらしい。

「だから大丈夫、って言ったじゃない。せっかくだから観光でもしていったら? つきあうよ」

「何言ってんのさもう。ああでも、ほんとびっくりした、元気そうで。あ、そしたら明日、買い物でも行く? そうそう、成人祝いもしなくっちゃあね」

「ええ、いいよ。入院費出してくれただけで、もう充分」

 わたしはお茶を伯母に出して、その向かいに座った。

「ほんと、ありがとう……ごめんね」

 頭を下げると、伯母は笑って手を振った。

「いいよ、これくらいはね。……純一が何にもしない分、あたし等がね」

 ――親代わり、と言ったシンさんとおんなじことを言う。

 わたしは胸がちくん、となるのを感じながら、自分のカップを手に取った。

「あれ、それ」

 伯母がそれを目にして、声を上げる。

「もしかしてレイコちゃん?」

「え、うん」

「そう、ちょっと見せて」

 伯母はわたしの手からカップを取ると、ためつすがめつ眺めた。

「うん、やっぱりいいねえ」

「伯母さん、レイコさんの作品、知ってるの?」

「持ってるもの」

「え?」

「前に送ってくれて。敏さんと揃いで」

「へえ」

 伯母が返してくれたカップを手に、わたしは座り直して。いいな、それ、見たい。

「レイコさんと会ったことあるの?」

「ああ、うん」

 伯母はうなずき、ちらっと思い出したように笑った。

「会ったのは一回だけだけどね。……一昨年、竜司のとこ行った時」

「え、一昨年?」

 思いもよらない言葉に、わたしはきょとんとして。だって一昨年っていったら、わたしはもう一回生で、こっちにいた頃だ。

「え、それって、もしかして……あの、夏に来た時?」

「そうそう」

 伯母は大きくうなずいて。ちょうどその夏、敏行伯父さんの親戚の結婚式が大阪であって、その後にわたしのところに立ち寄ってくれたのだ。

 じゃその時にシンさんちにも行ってたのか。ほんと、なんで内緒にしてたんだ、伯母さんたら。

 うちの親のことがあるとはいえ、もっと早く教えてくれたら良かったのに、という不満がわいて、それをぶつけると伯母は一瞬、何とも言えない微苦笑を浮かべた。

「……教えられるような状態じゃなかったんだよ」

「え?」

「卒業して、野々宮先生の工房に就職して、それからはほんとに落ち着いてたんだけど、三年くらい前に先生が亡くなられて……その後あの子、ほんと荒れてさ」

 病院で暴れた、という原さんの話が甦り、わたしは伯母を見直した。

「ひところは前以上に荒れちまって……もうどうしていいのかあたしも判らなくてね。近くにいようかとも思ったんだけど、それも嫌みたいでさ。仕事だけは一応こなしてたみたいなんだけど、それ以外の生活はもう無茶苦茶で」

 伯母はしみじみと言うと、お茶をずっとすする。

「まあ喧嘩して警察の世話になって、みたいなことは、時間が経つ内、少しずつ減ってはきてたんだけど……何て言うか、雰囲気がほんとに棘々しくなってさ。もう何にも自分のまわりには寄せつけない、って言うかね」

 どこか淋しそうに言う伯母の言葉に、わたしは原さんから話を聞いた時と同じ痛みを胸に感じた。ああ、本当にどうしてもっと長くシンさんの傍にいてくれなかったんだろう、センセイ。

「もう完全に世を拗ねた人みたいになっちまって……そういうの見てたからね、あんたが進学して、決めてきた家が竜司の近くだったのに、ほんとに驚いたんだけど、これは教えられないな、て思ったのよ。まあさすがにそこまではないかと思ったけど、万一あんたがあの子の警察沙汰にでも巻き込まれたらいけないと思って」

「そう……だったんだ」

 初めて聞いた話にわたしは驚きつつ、まあでもそれは確かに、自分が伯母でも教えないだろうな、と思った。

 でも。

「それじゃどうして」

「あの夏にね、竜司の家に久しぶりに行ったんだよ。そしたらそこに、レイコちゃんがいた訳」

 少しいたずらっぽい表情になって、伯母はわたしを覗き込んだ。

「まあ驚いたよ。だって、あんな子とつきあってくれる女の子がいるってだけで驚きなのに、あんな、いい子なんだもの」

 伯母の言葉にわたしは大きくうなずいた。まさにその通り。

「竜司もずいぶん、落ち着いてるように見えたし……だけど何だか心配でねえ。なんかやらかしてあの子を巻き込んじゃうんじゃないか、とか、それであの子が竜司に愛想尽かしちゃうんじゃないか、て思ってて」

 伯母が言いながら手でお茶のお代わりを要求したので、わたしはポットのお湯を急須に注いだ。

「で、その秋に、竜司に林檎、送ったのよね。そしたらレイコちゃんの方から、丁重なお礼状が来て」

 伯母は湯のみを受け取ると、ちょっと笑った。

「それから竜司抜きで、手紙や電話のやりとり、するようになって。去年の夏にさ、林檎のお礼、って言って、敏さんと揃いの湯のみ、送ってくれたんだけど、それが、ほんとに良くってさ」

 伯母は嬉しそうに目を細めた。

「手にした瞬間、ああ、て判ってね。ああ、大丈夫だ、って。この子ならきっと大丈夫、って……この子ならちゃんと竜司を受け止めてくれる、この子なら竜司も、いつかきっとまたちゃんと幸福を掴める、って」

 シンさんの家で初めてレイコさんのカップを手にした時のその心地の良さ、そしてそれを褒めた時のシンさんのやわらかな微笑みが目に浮かんだ。

 そうだ、レイコさんなら間違いない。

「それで、もう教えてもいいかと思ったんだよ。あんたはこっちに残るって言うしさ。レイコちゃんがずっと傍にいてくれるなら、あの子も滅多なふるまいはしないだろう、と思って」

「そうだったんだ……」

 以前から今ひとつ腑に落ちていなかったことにようやく納得して、わたしは大きくうなずいた。そうか、レイコさんのおかげか。

「でもさ、もっと早く教えたら良かったな、て思ったよ。あんたの為ってより、竜司の為にね」

「え?」

「だって竜司、ほんとに変わったもん、あんたと会うようになってから」

 急に意外なことを言われて、わたしはどきっとなった。

「ほら、二度目の荷物送った後に、あんたもうやりたくない、って言ったじゃない?」

「あ……うん」

「あれ聞いて焦ってさ。竜司がなんかやらかしたか、と思って、急いで電話してくるよう葉書書いてさ。それで、あんたがこういうこと言ってたけど、なんかやったのか、って」

「え……え、あれ話したの?」

 伯母の言葉に、わたしは仰天した。ええ、わたしあの時、なんて言ったんだっけ?

「言ったよ。だってあんたえらい機嫌損ねてたし。変なこと言ったんじゃないか、煙草が悪いんじゃないか、とか……そうそう、ほら、自分は便利屋じゃない、ってさ」

「ああ……」

 そういやそんなこと言ったような気も……ああ、顔から火が出そうだ。

「それ言ったら、竜司しばらく黙っちまってさ。とりあえず空の箱送るから、それでその時、千晴とちゃんと話してよ、て言ったんだよ」

「え、か、カラ?」

 更に予想外の言葉に、わたしは絶句した。空?

「そう、だってその時、すぐ送れるようなものがなかったんだもの。でもこのままじゃまずいと思ったから、とりあえず何とか会わせる機会つくるから、ちゃんと話せ、って、適当に新聞紙とか詰めて」

 三回目の荷物って……ああそうだ、あれだ、あの、急にご飯に引っ張っていかれた時だ。

 伯母からの荷物をさっさと奥に放り込んで、実に強引にひとを食事に引っ張っていったシンさんの姿を思い出し、わたしは改めて呆れた。あれ、空だったのか。

 そしてその帰りに、カップを手渡したことも思い出す。

 ああ、そうか……あの時シンさんはわたしにこう伝えたかったのだ。

 お前は俺にとって便利屋なんかやない、と。

 胸の奥がじんわりと温かくなる。

「それであんた等が会うようになったから、もう荷物はいいや、と思ってね。もともと、あんた達を知り合わせたくて送ったもんだし。ああいうことができるせいで、うちの母親もまだ家にいた頃、いらない面倒をしょったりしてたしね」

 そうだったのか……しかし伯母さん、策士だ。

「でもほんと、もっと早く会わせたら良かったよ。あんたが入院した時の竜司なんか、そりゃもう凄かったんだから」

 くっくっと喉の奥で笑う伯母を、わたしはちょっと睨んだ。

「わたし、教えなくていいって言ったのに。しかも電報って、何それ」

「だってしょうがないじゃない。一番早いし」

「そうだけど……なんて送ったの?」

「チハルニュウイン スグレンラクセヨ、って」

 妙なアクセントをつけて言う伯母に、わたしはますます呆れて。そりゃシンさんだって度肝抜かれたろう。

「血相変えて電話してきてさ。あの子のあんな切羽詰まった声、初めて聞いたよ。……おまけに来てみりゃ、今まで何言っても絶対に持とうとしなかった電話なんか買ってるし」

「それは確かに、わたしも驚いたけど」

「だからさ、あんた達、会って良かったんだよ。見てて思った。相性がいいんだ、あんた達って」

 わたしは何ともこそばゆいような思いを抱えて、やたら嬉しそうにしている向かいの伯母を見た。

 そうなのかな。

 そう……なんだろうな、きっと。

 ほかほかと胸があたたまってくるのを感じながら、わたしは伯母に微笑み返した。



 結局伯母は、その日から三日間、うちに滞在していった。

 さんざん断ったけれど結局押し切られて、成人祝いにと山のように靴や洋服を買い込んでくれ、高くて美味しいご飯を食べさせられた。

 それからレイコさんの店にも行って、幸さんや美由紀さんの作品も含め、随分と大人買いしていった。レイコさんはわたしに、「誕生日祝いにどれか好きなものひとつあげる」と言ってくれ、散々悩んだ挙句、家のカップと似合いそうなお皿を一枚、いただいた。

 シンさんとレイコさんと四人で食事もした。伯母とレイコさんは本当に仲が良く、どうもずいぶんと互いのシンさんについての裏話もしているようで、二人がくすくす話す横でシンさんが仏頂面しているのが見ていて可笑しかった。

 駅のホームで電車を見送ると、さすがに疲れがどっと出た。

 家に帰ると、久しぶりに静けさが身に沁みる。

 考えてみたら、伯母と二人きりでこんなに長く一緒にいたのは初めてだ。

 父よりも四歳年上の伯母は、若い頃に結婚した相手の仕事の関係で、ずっとアメリカに住んでいた。わたしが生まれてすぐの頃、自分の父親、つまりわたしにとっては祖父が亡くなって帰ってきた際、わたしの顔を初めて見たそうなのだが、無論わたしにその記憶はない。

 その後、伯母と結婚相手とは子供が生まれないまま、やがて相手は突然の事故で亡くなった。

 それが本当に伯母にはショックで、逆に日本に帰ってこられなかったらしい。一緒に暮らした家、一緒にすごした街をどうしても離れられずに。

 当時の伯母の話を、シンさんが少しだけ話してくれたことがある。

 知り合って以来、伯母は実にちょくちょく、こまめに手紙やら電話やらを寄越したり、現地のものやらを送ってきていて――それがある日、ぱたっと途絶えたのだという。

 まあいい加減飽きたんだろう、当初シンさんはそんな風に思っていたのだが、その期間が数ヶ月に及んだのと、当時高校生だったシンさんはそろそろ進路を考えないといけない時期にきており、意を決して自分から初めて電話をして、その時に結婚相手の事故のことを知ったのだという。

「あのひと、自分が一番しんどいやろに……開口一番、放ったらかしててごめん、とか言いよんねん。あほやろ」

 突き放した口調で言うシンさんの姿に、当時どれだけシンさんが伯母を心配したかが、返って透けて見えるようだった。

 そんな中、失意のまま何も手につかずに暮らしていた伯母にまわりから声がかかったのだという――料理教室を初めてみてはどうか、と。

 伯母は結婚していた当時から、近所のアメリカ人に頼まれるままに簡単な日本料理を教えていて、かなりの絶賛ぶりだったのだという。それで、いっそ仕事にしてみたらどうか、と声をかけてくれる人がいたのだそうだ。

 確かにこのまま職もなく外国で暮らしていける訳もないし、と始めた料理教室は予想より遥かに好評で、口コミで評判が広がり、なんと地元のテレビ局で小さなお料理紹介コーナーまで持つに至ったらしい。

 そうなるととことん凝り性な叔母は、材料にまでこだわり始めた。ちょうどその頃、日本から遊びに来ていた知人にいいものがあるよ、と送られたのが、敏行伯父さんの林檎だったのだ。

 ひと口食べて、いわゆる「ビビッ」と来てしまった伯母は日本に一時帰国し、伯父さんの農場を訪れ、半年後には、結婚していた。まわりの人達が驚く程すっぱり、アメリカでの仕事もキャリアも、捨ててきたそうだ。

「だって日本料理を教える人なんてアメリカ中に山といるのよ。でも敏さんの林檎をつくれるのは敏さんしかいないの」

 その昔なれそめを聞いた時に、少女のように頬を染めて語った伯母の姿を思い出す。結婚してもう七年になるが、このひとは今も伯父さんにベタ惚れなのだ。

 その結婚式が、わたしにとっての伯母との「初めて」の出逢いだった。

 その時の写真は、今でもわたしの宝物だ。

 わたしは中学の制服を着て、正装した伯母夫婦にはさまれて写っている。

 写真が苦手なわたしは、今見てもずいぶんとぎこちない顔をしているが、本当は心底嬉しかった。自分にこんな、素敵な血縁がいたことが。

 自分に「伯母」がいる、つまり父親に「姉」がいる、ということだけは知っていた。ただ、結婚して日本にいないとしか聞いていなかったので、今回の結婚式の話を聞くまでわたしはずっと、伯母はアメリカで結婚生活を平穏に送っている、と思っていたくらいだった。

 それに所詮、あの人の「姉」なのだ、そう思っていた。家族を捨てて男に走った祖母、その子供である自分の父、それがあんなにも歪んだ大人になっているのだから、伯母とて似たり寄ったりだろうと。

 今になって考えてみればずいぶん勝手な想像だったと思う。その伝でいけば、そんな男の娘である自分なんて更にろくでもない筈なのだったが、当時はそんなことまで考えが及ばなかった。

 けれど結婚式当日に初めて会った伯母は、そんなわたしの想像を粉々に打ち砕いた。

 当日控え室に着くやいなや、式場のスタッフの方にわたしは呼び出されたのだ――ご新婦様が、到着されたら姪御さんにすぐお会いになりたいとおっしゃっておりますので、と。

 いい年をして、しかも二度目の結婚で式なんて、という態度で無関心だった両親を置いて、わたしは伯母の控え室に移動した。緊張して、足がすくみそうになったのを今も覚えている。

 扉を開くと、伯母が振り返った。

 当時の伯母はもう四十を越えていたが、それでも目も眩むように綺麗だったことをよく覚えている。真っ白なドレスを着て、長いベールをまとって。

 最初の結婚の時は、結婚と渡米とがほぼ同時、というか、渡米が決まったのでとにかく急いで籍を入れたこと、そしてちょうどその直前に結婚相手が身内を亡くしたこともあって、伯母は式をしなかった。それが今でもちょっと無念だ、という話をちらっと敏行伯父さんにしたところ、なら今回はとびきり派手にするといいよ、と言ってくれたのだそうだ。あの寡黙で人見知りで基本地味な伯父さんがよくぞ、と思うと、こちらもベタ惚れだったのだなあ、と微笑ましくなる。

 何しろ「花嫁さん」というものを間近で見たのが初めてだったわたしは、もうのぼせあがってその場に立ちすくんでしまった。けれど伯母はそんなわたしの姿に、ぱあっと一面の笑みを浮かべて、すぐに駆け寄ってきたのだ。

「千晴ちゃん? ほんとに? こんなに大きくなって……覚えてないよねえ、あたし?」

 まくしたてるように言いながら、伯母はわたしをぎゅっと抱きすくめた。

 大人の人にそんなことをされるのは、自分の親も含め記憶にある範囲内で生まれて初めてで、鼻先をふんわりとくすぐる甘い香水とお化粧の香りに、わたしはむせそうになりながらも陶然とした。その、やわらかくあたたかく自分を包み込むひとの腕に。

 その瞬間に、わたしはこころまで伯母に抱きしめられたのだ。

「ずうっと会えなくてごめんねえ。これからは何かあったら何でも伯母さんに言うのよ、いいね?」

 伯母はこつん、とわたしの額に額をぶつけてそう言い――そのまなざしの真剣さに、わたしは動揺した。自分にそんなことを言ってくれる大人も、やっぱり、初めてだったから。

「しんどいことは全部、この伯母さんに相談すること。……約束」

 伯母は言葉も出ずにいるわたしの手を強引に取って、指切りした。

 ……ああ、このひとは判ってるんだ。

 それが判って、わたしは更に動揺した。

 あの人を親に持ってしまった自分が苦しんでいること。けれどもそれを誰にも言えずに、全部ひとりで抱え込んでいること。

 こんな大人がこの世にいるんだ、そしてそれは自分の「伯母」なのだ、それは驚愕の発見で……同時に目眩がする程、嬉しい事実だった。

 伯母はそれから、ちょうどシンさんにしたように、ちょくちょく手紙や電話をくれた。わたしもそれにこまめに返事をしたり、夏休みには敏行伯父さんの農場に遊びに行ったりして交流を深めていった。

 けれど実際のところ、わたしは家のことを伯母に話すことは殆どなかった。ずっと長いこと「話さないこと」が普通になっていた自分には、改めてそれを誰かに語るということができずにいたのだった。

 けれど高二の夏、あの事件が起きて……わたしはもうどうしようもなくなり、初めて伯母にSOSの電話をしたのだ。

 ああ、そういえば、あの時もずいぶん、伯母と長く一緒にすごしたっけ。

 わたしは引き出しの中にいつも大事にしまっている、伯母の結婚写真を手に取った。

 我が強くすぐにカッとなってしまう癇性で扱いにくい小娘だったわたしを、伯母は辛抱強く相手してくれた。わたしは伯母のおかげで、ずいぶんまともな人間らしくなったと自分でも思う。

 いつもは心地よいひとりの部屋の静けさが、今日は少しだけさみしいような心持ちがした。

「……ありがとう、伯母さん」

 写真をなでて小さく呟くと、輝くばかりに美しいドレス姿の伯母が、わたしに向かって微笑んだ。

 

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