41話
キーになる人物
レイモンド・ウォルソン(1939年生まれ)
ケンタッキー州出身。負傷後、本国へ帰還し療養。
1981年に議員選出馬、ウィスコンシン州選出。
1964年4月
ベトコン掃討作戦の為にラオスへの連続出撃が続き、隊員たちの疲弊や消耗が続く中で、俺たちは久々に長期休暇を得る事が出来たのである。
それで皆で俺のルーツである京都旅行をすると上官へ申告。
そして俺ジム・タケベ以下6名はアジア防衛条約機構の一環としてタイに駐屯していた日本海軍の二式大艇またの名を晴空と呼ばれる軍民共用の大型輸送(旅客?)飛行艇で、同国海軍が飛行艇用に使用している石垣飛行場へ向かっていた。
同機機内
「大変でしたねぇ…………大尉」
そうリックが言うと俺は「あぁ、だからこそ日本で羽を伸ばそうと言う話なんだよ」と言うとすぐにリックは「そうでしたね」と言うと俺は「だろ?」と言うと個室に入ってすぐに床に付いた。
翌日、海軍石垣飛行場に到着するとそこに併設された空港から大坂行きの旅客機へ乗り込む。
それから数日間、俺らは京都や大坂観光を楽しむと帰還予定の前々日に定期整備を終えて神戸から石垣基地へ経由でバンコクへ向かう二式大艇に便乗出来たのである。
楽しい休暇が終わり、同地の空軍基地で俺は再び飛行中隊指揮官として任務へ舞い戻った。
1964年5月2日
ラオス内のメコン川支流で作戦中の陸軍第234小隊を援護、しかしその支援も虚しく7日には2名の隊員を残し壊滅。同月11日にはラオス空軍の対空陣地から放たれた対空誘導弾で空挺部隊を乗せたC-130が撃墜され、43名の戦死者を出す。
俺はその直後の13日に対空陣地への制圧作戦に参加。試作対レーダー誘導弾を使用し、それなりの効果を上げる。
同年6月12日
この日まで俺ら友軍支援が比較的上手く行っていたが、この日はF-8は諸事情で護衛に随伴する事が出来ず、いつもなら見ることの無いラオス軍のMiG-19によって迎撃を受け、俺は攻撃中止命令を下すも1機が撃墜され、2機が帰投後破棄せざるを得ない位に大破(内1機、照準士官死亡)する被害を受け、乗員が死ななかった方の機体を操縦していた後の大統領であるレイモンド・ウォルソン大尉も左大腿骨に破片が当たり、2ヶ月の入院が命じられた。
そして彼がフィリピンの医療設備の整った空軍基地へC-130で搬送されるさいに俺は「レイモンド。お前が帰ってくるのをみんな待ってるからな!」と言うとレイモンドは「はい!隊長」と言い、笑顔を浮かべる。
それから数ヵ月後、俺は総計6名の部下を失い相棒のリックも負傷させ、自らも軽傷を負い、本国へ帰還し、3か月の療養を経てからトップガンへ入学し、F-4の操縦方法を学んでからリック共々、最新鋭の空母サラトガの所属で憧れの新鋭戦闘爆撃機であるF-4を装備の第12飛行隊へ配属された。
この時の俺は初の大型空母への勤務を命じられ、浮かれていたがこれが地獄の入り口だとはこの時知るよしも無かった。