第2話 そのお返事は、まだ
ジュリアンが両親を伴って訪ねてきたのは、三日後だった。
ロゼッタは父の隣に座り、向かいの三人に挨拶した。
ジュリアンの母親は、いつもなら笑顔で両手を取ってくれる。今日は目が合うと、深く頭を下げた。
「ロゼッタさん。本当に、申し訳ありません」
息子より先に謝られ、用意していた言葉を失った。
子爵が膝に置いた手を握る。
「息子から話を聞きました。ですが、こちらに都合のよい説明になっているかもしれません。ご息女からも、経緯を伺えますか」
父がロゼッタを見る。
頷いて、話した。
二人に呼び出されたこと。リュシーヌと結婚したいと言われたこと。三か月前から二人で会っていたこと。
誕生日の芝居の話になったところで、子爵夫人が息子を振り向いた。
「あなた、それは言わなかったわね」
「婚約の解消とは、直接関係がないと思って」
「私との約束を断って、リュシーヌをお誘いになったのです」
ロゼッタが言うと、ジュリアンは口を閉じた。
「私には、関係があります」
父が卓上の書面を、子爵の前へ滑らせる。
「娘の意思は確認しました。この縁談は解消しましょう。理由についても、認識を揃えておきたい」
「もちろんです」
子爵が書面に目を落とす。
ジュリアンが慌てて口を挟んだ。
「ですが、僕たちにも、合わないところがあったんです。最近は会うたびに、約束の話や、いつ来られるのかという話ばかりで」
「来ると言った日に来なかったからでしょう」
父の声は静かだった。
「君は約束を守ったのかね」
「……事情があった日も、あります」
「では、その事情に別の女性との外出が含まれていたことも、解消の理由として記す。それでよろしいですな」
最後は子爵に向けられた言葉だった。
子爵は息子を見ず、頷いた。
「異存ありません」
贈答品の返却や、両家から親族への連絡についても話が進んだ。すでに手配していた品の取り消しにかかる費用は、子爵家が負担するという。
父はその場で決められない細部を残し、最後にロゼッタを見た。
「ほかに、伝えておきたいことはあるか」
ジュリアンもこちらを向く。
ロゼッタは、二年間を思い返した。
最初にもらった花も、雨に降られて二人で笑った日も、覚えている。全部が嫌な思い出になったわけではなかった。
けれど、それを今、この場で話したいとは思わなかった。
「ありません」
差し出された書面に署名した。
ジュリアンも、両家の父親も署名する。
ペンが置かれた音を聞いて、ようやく息が楽になった。
*
「父上が、あんなに静かに怒るのは久しぶりに見た」
その夜、兄のマルセルが、居間の隣の椅子に座った。
話し合いの間は別室に控えていた兄も、経緯は聞いている。
「お兄様が、あちらに行かないか心配だったわ」
「父上に釘を刺されたからな。娘の婚約を解消する日に、息子の不始末まで増やすなと」
ロゼッタは少し笑った。
兄はその顔を確かめてから、一通の封書を差し出した。
「ヴィクトルからだ」
封蝋には、見覚えのある侯爵家の紋章があった。
「私に?」
「面会を申し込みたいそうだ。婚約が正式に解消されたあとで、お前に渡してほしいと預かっていた」
ヴィクトルは兄の友人で、家の食事にも何度か招かれている。最後に会ったのは、二か月ほど前だ。
ジュリアンの来訪が急に取りやめになり、家族と彼だけで夕食を取った。
あの日は気落ちしていたはずなのに、食後に兄と彼が始めた盤上遊戯を見ているうち、ずいぶん笑ったことを覚えている。
「お慰めのお言葉なら、いらないとお伝えして」
「そういう用件ではない」
兄は妙に慎重な口調だった。
「ただ、お前が今、人に会いたくないなら断っていい。そこは本人からも念を押されている」
ロゼッタは封を切った。
短い挨拶と、都合のよい日に話す時間をもらえないかという申し出。返事を急がないことも添えられている。
最後まで読んでも、用件は分からなかった。
「……お兄様は、何のお話か知っているのね?」
「知っている。だが、俺が先に話すのは違うだろう」
その返答に、少しだけ嫌な予感がした。
「次の縁談を、もう用意したの?」
兄はすぐ首を振った。
「俺も父上も、お前を急いで嫁がせるつもりはない。それだけは信じてくれ」
ロゼッタは兄の顔と手紙を見比べた。
ヴィクトルなら、会えない相手ではない。
「明後日の午後なら、とお返事を書いてもいい?」
「もちろんだ」
「何だか、お兄様のほうが緊張していらっしゃるみたい」
「そう見えるか」
「ええ」
兄は答えず、冷めかけたお茶を飲んだ。
*
二日後、ヴィクトルは約束の時刻ちょうどに訪ねてきた。
兄と並んで応接室へ入ってきた彼は、いつもより服装が改まっていた。ロゼッタが挨拶すると、丁寧に礼を返す。
茶が用意され、扉際に侍女が控える。兄は少し離れた椅子に腰を下ろした。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。お久しぶりです、ヴィクトル様」
話しながら、彼の前の茶器を見る。
砂糖を入れないのは、変わっていなかった。
その小さな見覚えに、肩の力が少し抜ける。
「今日は、あなたにお伝えしたいことがあって参りました」
「はい」
「私との結婚を、考えていただけないでしょうか」
ロゼッタは、彼の顔を見た。
それから兄を見る。
兄は口を閉じたまま、真面目な顔で頷いた。
「……どなたとの?」
「私との結婚です」
「私が、ですか」
「はい」
聞き直しても、答えは同じだった。
侯爵家当主のヴィクトル。独身であることは知っている。母の知人たちが、彼の縁談について話しているのも聞いたことがあった。
その彼が、なぜここで、自分に。
「兄に、何か頼まれたのではありませんか」
「ロゼッタ」
兄が困った声を出す。
ヴィクトルはそちらを一度見た。
「私から頼みました。あなたに面会を申し込むことを、許してほしいと」
「でも、婚約がなくなったばかりです」
「承知しています。時期が早すぎると感じられることも」
彼はそこで、膝の上の手を組み直した。
「お待ちするべきか、迷いました。ただ、あなたのご両親に別の縁談が持ち込まれてからでは、また申し上げられなくなるかもしれないと思ったのです」
また、という言葉が引っかかった。
けれど、それを尋ねる前に、別の疑問が口をついた。
「同情では、ありませんか」
隣の兄が動きかけたが、ヴィクトルは目を逸らさなかった。
「あなたが傷ついていると聞いて、心配しました。それは確かです」
否定されると思っていたので、ロゼッタは黙って続きを待った。
「ですが、心配している相手なら、誰にでも結婚を申し込むわけではありません」
胸が、妙な跳ね方をした。
「……私たち、二人でお話ししたことも、あまりありません」
「ええ。ですから、その機会をいただきたい」
ヴィクトルが少しだけ身を乗り出す。
「今日、お返事をいただこうとは思っていません。食事でも、散歩でも。あなたが負担に感じない形で、何度か会っていただけませんか」
「お会いしたあと、お断りするかもしれません」
「はい」
「それでも?」
「結婚を決めてから会うのでは、遅いでしょう」
自然に返されて、ロゼッタは言葉に詰まった。
断っていい。
そう言われても、相手は侯爵だ。兄の大切な友人でもある。
迷っていると、ヴィクトルが続けた。
「マルセルには、断られたからといって妹を困らせるなと、すでに言われています」
「そこまでは言っていない」
「ほぼ同じことを言っただろう」
兄が咳払いした。
二人のやり取りに、ロゼッタの口元が緩む。
ヴィクトルも、ようやく少し笑った。
その表情を見て気づく。
緊張しているのは、自分だけではなかった。
「……まずは、お話をするところからでしたら」
「ありがとうございます」
「結婚のお返事では、ありませんよ」
「分かっています」
彼は嬉しそうだった。
思わず、こちらまで笑いそうになるほど。
そこへ、兄が声をかけた。
「では今度、一緒に夕食でもどうだ。母上も喜ぶ」
「お兄様」
ロゼッタは考えてから言った。
「お天気がよければ、庭のお茶にしませんか。夕食より、気楽にお話しできそうだから」
ヴィクトルが頷いた。
「ぜひ。いつがよろしいでしょう」
卓上の小さな暦を引き寄せる。
次に会う日の相談をするのが、こんなに簡単だったことを、ロゼッタは少し不思議に思った。
窓の外では庭師が薔薇の枝を整えている。
あの庭へ、この人と出る。
まだ結婚など考えられない。
けれど、次に会う日は晴れてほしいと思った。




