第1話 親友からのお願い
「ジュリアン様を、私に譲ってほしいの」
親友は、ロゼッタの婚約者の隣に座っていた。
子爵邸の応接室。いつもロゼッタが座る場所で、リュシーヌが膝の上の手を握り締めている。
その手に、ジュリアンの手が重なった。
「……譲る?」
「こんなことをお願いできる立場じゃないのは、分かっているわ。でも、私たち、本気なの」
リュシーヌの目に涙が浮かぶ。
ロゼッタは向かいの椅子に座ったまま、二人を見ていた。呼び出された手紙には、大切な相談があるとしか書かれていなかった。
ジュリアンとリュシーヌが、揃って自分に頼み事をする。
その組み合わせが、まだうまく理解できない。
「ロゼッタ。僕からも頼む」
ジュリアンが身を乗り出した。
「君との結婚を、もう一度考え直したい」
「考え直すのですか。それとも、取りやめたいのですか」
彼の口が止まった。
隣のリュシーヌを一度見てから、言い直す。
「……婚約を解消してほしい」
つい先日、母と結婚式の招待客を数えたばかりだった。
まだ先のことだからと言いながら、母はもう、当日に着る服まで考えていた。ロゼッタも笑って聞いていた。
「理由は、リュシーヌと結婚したいから?」
「ああ」
「そうですか」
返事だけはできた。
どうして、と聞きたかった。自分に何が足りなかったのかも。
けれど、二人の重ねた手を見ているうちに、その質問を口にするのが嫌になった。
「いつからですか」
ジュリアンが眉を寄せる。
「そんなことを聞いて、どうするんだ」
「私は今、初めて聞きました。少しくらい質問してもいいでしょう」
「ロゼッタ、彼を責めないで」
リュシーヌが割って入った。
「私が好きになったの。ジュリアン様は、ずっと悩んでいらしたわ」
庇われたジュリアンが、重々しく頷く。
「君には、僕よりふさわしい人がいると思う」
ロゼッタは彼を見た。
別れを告げる男性が使う言葉として、本で読んだことがある。
まさか自分が言われるとは思わなかった。
「私にふさわしい方のお話は、結構です。いつからなのか、教えてください」
「……先月だ」
「三か月ほど前から、お話しするようになって」
二人の声が重なった。
ジュリアンがリュシーヌを見る。
リュシーヌは慌てて首を振った。
「違うの。最初から、こうなるつもりじゃなかったのよ。あなたのことを相談していただけで」
「私のことを?」
「最近、うまくいっていないと伺って……」
ロゼッタは膝の上で指を組んだ。
三か月前。
会う約束を断られることが増えた頃だ。
久しぶりに会えた日に、その寂しさを伝えたら、ジュリアンはため息をついた。
『会って早々、その話?』
帰りの馬車で泣いて、翌日、リュシーヌに話を聞いてもらった。
彼女は紅茶を注ぎながら言ったのだ。
『結婚前は、いろいろ忙しいのでしょう。彼を責めたらかわいそうよ』
「あなたにも、私から相談したわね」
「ええ。だから私、何とか二人の間を取り持ちたくて」
「それで、二人きりで会うようになったの?」
リュシーヌが唇を噛む。
ジュリアンは、重ねていた手を離した。
「気持ちは、どうしようもないだろう。僕だって君を傷つけたいわけじゃない」
では、この席に呼ぶ前に、何か一つでも傷つけずに済む方法を考えてくれたのだろうか。
ロゼッタには分からなかった。
「私も何度も諦めようとしたの」
リュシーヌが言った。
「でも、先月、お芝居に連れていっていただいたときに、この方と一緒にいたいって、どうしても――」
「リュシーヌ」
ジュリアンの声が低くなった。
ロゼッタは顔を上げた。
「お芝居?」
リュシーヌの目が泳ぐ。
「……ええ」
「何を見たの?」
「それは、今、関係ないだろう」
「ジュリアン様には聞いていません」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚いたが、取り消さなかった。
リュシーヌは演目を答えた。
ロゼッタが見たいと言った芝居だった。
ジュリアンには、席が取れなかったと聞いていた。
「いつ?」
誰も答えない。
「十二日?」
リュシーヌがジュリアンを見た。
それで分かった。
「私の誕生日ね」
「……家の用事が、早く終わったんだ」
ジュリアンが言った。
ロゼッタは彼を見つめた。
「席は取れなかったのでは?」
「そのあと、偶然、手に入って」
「それで、リュシーヌを誘ったのですね」
「たまたま会ったからだよ。君を呼びに行くには遅かったんだ」
誕生日の午後、ロゼッタは家にいた。
ジュリアンが来られなくなったので、母が菓子を用意してくれた。
夕方には、リュシーヌに手紙を書いた。
寂しいと書きすぎないよう、何度も読み返して。
翌朝には返事が来た。
『きっと来年は、一緒にお祝いできるわ』
「リュシーヌ」
「ロゼッタ、ごめんなさい。私……」
「私の手紙を、どんな気持ちで読んだの?」
リュシーヌの頬を涙が伝った。
けれど答えはなかった。
ロゼッタは鞄に手を伸ばした。
今日はジュリアンに渡すつもりで、小さな包みを持ってきていた。彼がなくしたと言っていた、よく使う筆記具と同じ品だ。
指先が包みに触れる。
そのまま、鞄の留め金を閉じた。
「婚約解消には応じます」
ジュリアンが息を吐いた。
「よかった。君なら、分かってくれると――」
「分かりません」
彼の表情が止まった。
「お二人が、私に黙ってお会いになっていたことも。私の相談を聞きながら、リュシーヌが何も言わなかったことも。理解はできません」
「でも、今、応じると」
「ええ。結婚はしません」
そこだけは、はっきりしていた。
この人と結婚したかった。
今日ここへ来るまでは、確かにそうだった。
けれど今は、二人の顔を見ているだけで、早く帰りたかった。
「両家への説明は、あなたからお願いします。あなたが別の方との結婚を望んでいると、事実をお伝えください」
「その言い方では、僕だけが――」
「私が、あなたに何か隠していたことはありますか」
ジュリアンは黙った。
「私は、あなたに隠していたことはありません。あなたとの結婚を楽しみにしていました」
最後の一言で、声が少し揺れた。
ロゼッタは立ち上がる。
リュシーヌも腰を浮かせた。
「待って。こんなお別れをしたいわけじゃないの。少し落ち着いたら、またお話ししましょう。私たち、ずっと友達だったでしょう?」
いつもなら、泣いている彼女の隣へ行った。
今日も一瞬、その癖で足が動きそうになった。
「……今日は、帰ります」
リュシーヌの横を通り、扉へ向かう。
ジュリアンは追ってこなかった。
*
帰宅すると、母が玄関広間にいた。
「お帰りなさい。ジュリアン様のお話は、何だったの?」
ロゼッタは手袋の釦を外そうとした。
うまく指が動かない。
「お母様」
母が近づいてくる。
「結婚は、なくなりました」
母の足が止まった。
「ジュリアン様は、リュシーヌと結婚したいそうです」
口にすると、急に現実のことになった。
母が何か言うより早く、ロゼッタは首を振る。
「詳しくは、少し後でもいいですか。お父様がお帰りになってから、ちゃんと話しますから」
「ええ。もちろんよ」
母は理由を重ねて聞かず、手袋の釦を外してくれた。
その指が優しくて、ロゼッタは顔を上げられなかった。
部屋へ戻ると、机に向かった。
誰かに話したかった。
今日あったことを、自分だけでは抱えきれなかった。
引き出しから便箋を出し、いつも使うペンを取る。
『リュシーヌへ』
そこまで書いて、手が止まった。
しばらく、その名前を見ていた。
悲しいことがあると、真っ先に手紙を書いた相手だった。返事が遅ければ、忙しいのだろうかと心配した。彼女が恋に悩んだときには、何時間でも話を聞いた。
今日も、リュシーヌに聞いてほしかった。
どうしてこんなことになったのかと。
便箋に、一滴落ちた。
インクが滲む。
ロゼッタはペンを置き、両手で顔を覆った。
婚約者の前でも、親友の前でも出なかった涙が、今になって止まらなかった。




