第五話
将軍に呼ばれた、と聞いた時から、頭の中でずっと同じことを繰り返していた。
なぜ。なぜ、将軍が私を。
まだ入隊して三日しか経っていない。訓練らしい訓練もしていない。将軍と言葉を交わしたことも、一度もない。それなのに、どうして。
型が悪かったか。それとも、どこかで粗相をしただろうか。
いや、待って。やましいことなら、いくらでもある。女であること、年齢を偽っていること、本名を隠していること、そして鉄嶺荘の出身であること。もしかして、そのどれかが——。
でも、あの一瞬で露見するなんてあり得るのだろうか。
(ありえない…よね?)
孟岩秋の背中を追いながら、白霜は息を整えた。
とにかく、否定する。証拠がなければ、言い張り続ける。それしかない。
でも——あの目の前で、本当に言い張れるのか。
二度、目が止まった。隠し事なんてできそうにない目だ。そういう目をした人間が、正面から問い詰めてきたら。
(腹を括るしかない)
足を止めずに、前を向いた。怖くないと言えば嘘になる。でも、ここで引き返せるはずもなかった。
◆
「入れ」
孟岩秋が扉の前で立ち止まると、それだけを言って廊下に残った。深く息を吸い、扉に手をかける。
「失礼します。凌博です」
部屋の中は、思ったより質素だった。必要最低限のものだけが置かれていて、余計なものが何一つない。その中央に、玄鷹が机の前に座っていた。扉が開いた気配を察したのか、書類から顔を上げて白霜を見る。中庭で見たのと同じ目だ。探る、というより観察しているような目で、どこか余裕すら感じさせる。
白霜は入口に立ったまま、その視線を受け止めた。逸らしたら、負けな気がした。
「凌博」
「はい」
「南方の渓陵村出身。十六歳。旅の武術師のもとで一年修行、槍の使い手」
書類を読み上げる声は淡々としていて、感情が読めない。だからこそ、少し不気味だった。
「はい」
「一つ聞く」
書類を机に置いて、立ち上がった。机を回ってこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩、ゆっくりと近づいてくるたびに、心臓が跳ねた。
そして、頭ひとつ分ほどの距離で止まると、玄鷹が、口を開いた。
ゆっくりと動く唇。その動きを、白霜はなぜか、じっと見ていた。
「お前は、女か」
頭の中が、真っ白になった。
音が、遠のく。部屋の中の全てが、一瞬止まったみたいだった。
(ばれた)
ばれた。ばれてしまった。
なぜ。どうして。頭の中でぐるぐると同じ言葉が回り続けて、うまく考えられない。
でも、ここで認めるわけにはいかない。
膝が震えそうになるのをこらえて、どうにか口を開いた。
「…男です」
将軍との関わりなんて皆無なのに、一体どこで気づいたのか。玄鷹の表情からは何も窺い知れず、ただその目だけが、こちらを見ていた。
「軍規は知ってるな」
「…はい」
「上官への虚偽申告は、杖刑二十回だ」
杖刑、二十回。大の男でも死ぬ可能性がある。自分の体なら——考えたくなかった。
でも、膝は折らない。折ったら、ここで終わる。
「もう一度聞く。お前は、女か」
低く、有無を言わせない声。気圧されながらも、必死に平静を装った。
「…お、男、です」
玄鷹はしばらく白霜を見ていた。何かを測るような間。部屋の中が、やけに張り詰めている。自分の心臓の音が聞こえそうなくらいだ。
時間で数えればほんの数秒なのだろうが、ひどく長く感じた。やがて、口が開いた。
「では確認させてもらう」
「な、何をっ」
「軍規に書いてある。上官の命令は絶対だ」
一歩、近づいてくる。思わず一歩後ろへ下がった。
その分開いた距離を玄鷹が詰め、気づいたら壁に追いやられていた。
玄鷹の手が、ゆっくりと伸びてきて、衣の襟に指がかかる。白霜は反射的にその手を掴んだ。
「…っ、」
動けなかった。白霜の手の上に、大きな手が重なる。じわりと伝わる体温に、体がますます固くなった。
力では到底敵わない。わかっているけれど、足掻きをやめれなかった。
白霜は前を向いたまま、息を殺した。将軍の顔が、近い。視界の端に、切れ長の目が見えた。こちらを見下ろしているが、表情は読めない。でもその目が、静かに、確かめていた。
玄鷹の指が、白霜の手をゆっくりと退けた。抵抗しようとしたが、力が違いすぎた。
襟が少し開いて、指先が鎖骨のあたりに触れる。白霜の息が、止まった。
冷たい指。なのに、触れた場所だけが、じわりと熱くなる。心臓がうるさくて、顔が熱い。
胸に巻いた布が、やけに意識されて、呼吸が浅くなった。これ以上は、本当にまずい。
(やめて)
必死に念じたのが通じたのか、将軍の指が鎖骨のあたりで止まる。派手に動く心臓の音は、きっとその指先を通して伝わっているのだろう。
将軍は、それ以上は動かなかった。ただ、見ていた。長い、長い沈黙だった。
やがて、玄鷹がため息をついた。
「…面倒だな」
言葉と同時に、手が引かれる。
白霜は乱れた襟を両手で押さえたまま、うつむいた。頬が熱くて、顔を上げられなかった。
「言い張るならそれでいい」
静かな声だった。
「ただし——俺に嘘はつくな。面倒を起こしたら、容赦しない」
返事ができない。代わりに首を縦に振った。玄鷹はそれ以上何も言わず、机に戻って書類を手に取った。その目は、もう白霜を映していなかった。
「下がれ」
深く頭を下げて、扉に向かった。
◆
廊下に出た瞬間、息を吐く。心臓が、まだうるさかった。頬の熱が、まだ引かない。
(なんだったんだ、今の)
ばれていない——いや、普通にばれているだろうけど、追い出されなかった。
でも、なぜ、追い出さなかったのか。
杖刑二十回と言いながら、結局何もしなかった。「嘘はつくな」という条件だけを出して、それ以上は何も聞かなかった。あの目は確かに、全部わかっていた。なのに。
(何を考えてるの、あの人は)
利用価値があると判断されたのか。それとも、別の何かを待っているのか。
どちらにしても、油断はできない。
触れられた場所が、火傷したみたいに、まだ熱かった。
扉が開いて、凌博が出てきた。
孟岩秋は壁に背をつけたまま、その顔を一瞥した。
頬が赤い。布巾を両手で押さえている。
(…なるほど)
それ以上は顔に出さなかった。
「戻れ」
廊下を歩いていく背中を見送った。
細い背中だ。槍の型は悪くない。だが本当に得意な武器は別にある。どこで習ったか——旅の師、では説明がつかない。長い間、武を叩き込まれた体の動きだ。
間者の可能性は、ある。だがそれにしては、隠すのが下手すぎる。
怪しいことに変わりはないが、将軍が判断した。自分が口を出すことではない。
孟岩秋は踵を返した。




