表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/5

第五話


将軍に呼ばれた、と聞いた時から、頭の中でずっと同じことを繰り返していた。


なぜ。なぜ、将軍が私を。


まだ入隊して三日しか経っていない。訓練らしい訓練もしていない。将軍と言葉を交わしたことも、一度もない。それなのに、どうして。


型が悪かったか。それとも、どこかで粗相をしただろうか。


いや、待って。やましいことなら、いくらでもある。女であること、年齢を偽っていること、本名を隠していること、そして鉄嶺荘の出身であること。もしかして、そのどれかが——。


でも、あの一瞬で露見するなんてあり得るのだろうか。


(ありえない…よね?)


孟岩秋の背中を追いながら、白霜は息を整えた。

とにかく、否定する。証拠がなければ、言い張り続ける。それしかない。


でも——あの目の前で、本当に言い張れるのか。


二度、目が止まった。隠し事なんてできそうにない目だ。そういう目をした人間が、正面から問い詰めてきたら。


(腹を括るしかない)


足を止めずに、前を向いた。怖くないと言えば嘘になる。でも、ここで引き返せるはずもなかった。



「入れ」


孟岩秋が扉の前で立ち止まると、それだけを言って廊下に残った。深く息を吸い、扉に手をかける。


「失礼します。凌博です」


部屋の中は、思ったより質素だった。必要最低限のものだけが置かれていて、余計なものが何一つない。その中央に、玄鷹が机の前に座っていた。扉が開いた気配を察したのか、書類から顔を上げて白霜を見る。中庭で見たのと同じ目だ。探る、というより観察しているような目で、どこか余裕すら感じさせる。


白霜は入口に立ったまま、その視線を受け止めた。逸らしたら、負けな気がした。


「凌博」

「はい」

「南方の渓陵村出身。十六歳。旅の武術師のもとで一年修行、槍の使い手」

 

書類を読み上げる声は淡々としていて、感情が読めない。だからこそ、少し不気味だった。


「はい」

「一つ聞く」


書類を机に置いて、立ち上がった。机を回ってこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩、ゆっくりと近づいてくるたびに、心臓が跳ねた。

そして、頭ひとつ分ほどの距離で止まると、玄鷹が、口を開いた。


ゆっくりと動く唇。その動きを、白霜はなぜか、じっと見ていた。


「お前は、女か」


頭の中が、真っ白になった。

音が、遠のく。部屋の中の全てが、一瞬止まったみたいだった。


(ばれた)


ばれた。ばれてしまった。

なぜ。どうして。頭の中でぐるぐると同じ言葉が回り続けて、うまく考えられない。


でも、ここで認めるわけにはいかない。

膝が震えそうになるのをこらえて、どうにか口を開いた。


「…男です」


将軍との関わりなんて皆無なのに、一体どこで気づいたのか。玄鷹の表情からは何も窺い知れず、ただその目だけが、こちらを見ていた。


「軍規は知ってるな」

「…はい」

「上官への虚偽申告は、杖刑二十回だ」

 

杖刑、二十回。大の男でも死ぬ可能性がある。自分の体なら——考えたくなかった。

でも、膝は折らない。折ったら、ここで終わる。


「もう一度聞く。お前は、女か」


低く、有無を言わせない声。気圧されながらも、必死に平静を装った。


「…お、男、です」


玄鷹はしばらく白霜を見ていた。何かを測るような間。部屋の中が、やけに張り詰めている。自分の心臓の音が聞こえそうなくらいだ。


時間で数えればほんの数秒なのだろうが、ひどく長く感じた。やがて、口が開いた。


「では確認させてもらう」

「な、何をっ」

「軍規に書いてある。上官の命令は絶対だ」

 

一歩、近づいてくる。思わず一歩後ろへ下がった。

その分開いた距離を玄鷹が詰め、気づいたら壁に追いやられていた。


玄鷹の手が、ゆっくりと伸びてきて、衣の襟に指がかかる。白霜は反射的にその手を掴んだ。


「…っ、」


動けなかった。白霜の手の上に、大きな手が重なる。じわりと伝わる体温に、体がますます固くなった。

力では到底敵わない。わかっているけれど、足掻きをやめれなかった。


白霜は前を向いたまま、息を殺した。将軍の顔が、近い。視界の端に、切れ長の目が見えた。こちらを見下ろしているが、表情は読めない。でもその目が、静かに、確かめていた。


玄鷹の指が、白霜の手をゆっくりと退けた。抵抗しようとしたが、力が違いすぎた。

襟が少し開いて、指先が鎖骨のあたりに触れる。白霜の息が、止まった。


冷たい指。なのに、触れた場所だけが、じわりと熱くなる。心臓がうるさくて、顔が熱い。

胸に巻いた布が、やけに意識されて、呼吸が浅くなった。これ以上は、本当にまずい。


(やめて)


必死に念じたのが通じたのか、将軍の指が鎖骨のあたりで止まる。派手に動く心臓の音は、きっとその指先を通して伝わっているのだろう。


将軍は、それ以上は動かなかった。ただ、見ていた。長い、長い沈黙だった。


やがて、玄鷹がため息をついた。


「…面倒だな」

 

言葉と同時に、手が引かれる。

白霜は乱れた襟を両手で押さえたまま、うつむいた。頬が熱くて、顔を上げられなかった。


「言い張るならそれでいい」


静かな声だった。


「ただし——俺に嘘はつくな。面倒を起こしたら、容赦しない」


返事ができない。代わりに首を縦に振った。玄鷹はそれ以上何も言わず、机に戻って書類を手に取った。その目は、もう白霜を映していなかった。


「下がれ」


深く頭を下げて、扉に向かった。



廊下に出た瞬間、息を吐く。心臓が、まだうるさかった。頬の熱が、まだ引かない。


(なんだったんだ、今の)


ばれていない——いや、普通にばれているだろうけど、追い出されなかった。

でも、なぜ、追い出さなかったのか。


杖刑二十回と言いながら、結局何もしなかった。「嘘はつくな」という条件だけを出して、それ以上は何も聞かなかった。あの目は確かに、全部わかっていた。なのに。


(何を考えてるの、あの人は)


利用価値があると判断されたのか。それとも、別の何かを待っているのか。

どちらにしても、油断はできない。


触れられた場所が、火傷したみたいに、まだ熱かった。


 

扉が開いて、凌博が出てきた。

孟岩秋は壁に背をつけたまま、その顔を一瞥した。


頬が赤い。布巾を両手で押さえている。


(…なるほど)


それ以上は顔に出さなかった。


「戻れ」


廊下を歩いていく背中を見送った。

細い背中だ。槍の型は悪くない。だが本当に得意な武器は別にある。どこで習ったか——旅の師、では説明がつかない。長い間、武を叩き込まれた体の動きだ。


間者の可能性は、ある。だがそれにしては、隠すのが下手すぎる。


怪しいことに変わりはないが、将軍が判断した。自分が口を出すことではない。


孟岩秋は踵を返した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ