第十話
翌朝、夜明け前に出発した。
山の中は静まり返り、足元すら見えないほど暗い。阿寛が持つ松明だけが、頼りなく揺れていた。昨夜より山が深くなる。枯れ枝を踏むたびに音が響いて、その度に全員が足を止めた。
四本目の旗は、日が昇り始めた頃に見つかった。尾根の岩陰に結ばれている。阿寛が「あった!」と声を上げかけたが、白霜に睨まれて慌てて口を押さえる。
五本目は、沢沿いの急斜面を登った先だ。足場が悪く、孫堅が何度か滑りかけながらも、阿寛に引っ張り上げられてどうにか登り切った。李従が地図に印をつけながら「これで五本」と呟くと、孫堅が珍しく満足そうな顔をしている。
「なあ、俺たち今一番じゃないか?」
阿寛が旗を五本まとめて抱えると、それを腰紐に吊るした。
「多分」
「多分じゃなくて絶対だろ!あの険しい道を選んだ俺の判断が正しかった」
「李従の判断だけど」
「細かいことは気にするな!」
李従の口元には笑み。孫堅は「油断するな」と呟いたが、まんざらでもなさそうな表情だった。
白霜も——悪くない気分だった。
そんな時だった。
茂みが、揺れる。
白霜が手で制した直後、男が一人、斜面を転がるように現れた。演習の参加者だ。見覚えのある顔——確か、別の隊の新兵だった。顔が青白く、右肩から血が滲んでいる。
「だ、誰か…」
男はそれだけ言って、膝から崩れた。孫堅が素早く駆け寄って体を支える。
「何があった」
阿寛が声を潜めた。
「あいつら…木刀じゃ、ない…本物の、刀を——」
男は息を切らしながら続けた。
「俺の組の二人が、やられた…まだ上に、いる…」
まだ、上にいる。
誰も、すぐには動かなかった。阿寛の顔が青ざめ、李従は無言で周囲を見回す。孫堅は男の傷を押さえたまま、白霜を見た。
「どうする」
「三人はこの人を連れて下山して。将軍に知らせてほしい」
「お前は」
阿寛の声が低くなった。
「上に残る」
「…なんで」
「一人の方が速く動ける。全員で当たっても木刀じゃ話にならない」
「それって——」
「無謀だ」
孫堅が、割り込んだ。いつも「やるべきことはやる」と言う孫堅が、珍しく険しい表情を見せている。
「相手は本物の刃を持っている。一人で行くな」
「行く」
「…それでも行くつもりか」
「行く」
同じ言葉を繰り返すと、孫堅の目が、かすかに揺れた。
「坊主!」
阿寛が白霜の腕を掴んだ。
「待って待って待って。死にに行くようなもんじゃないか。俺たちだって——」
「この人を置いていけない」
静かな声だった。
「傷ついた仲間を、見捨てるなんてできない」
はっきりと告げると、阿寛が口を開いたまま固まった。
「お前が囮になるってことか」
「囮じゃない。陽動だ」
「同じだろ!」
「違う。囮は捨て駒。陽動は戦略だ」
なぜか、阿寛が傷ついたような顔をした。孫堅も李従も、黙っていたが、きっと内心、みんな同じことを考えたのだろう。無駄死にするつもりだ、と。
「早く、行って」
白霜の言葉に、孫堅が一歩踏み出す。そして、白霜の目をまっすぐに見据えた。
「合流しろ。必ず」
「わかってる」
李従は口を開きかけて——閉じた。何かを言おうとして、やめた。その一瞬を、白霜は見逃さなかった。
三人が獣道へ走り出す。足音が遠ざかるのを聞きながら、白霜は逆方向へ向かった。わざと枝を踏み折りながら駆ける。
(こっちだ。こっちに来い)
◆
追手の足音が、白霜の方へ流れてきた。
五人、六人か。木々の隙間から見えた装備が、紛れもなく晏の兵士のものだった。将軍を狙って演習の混乱に乗じて山に入り込んだのだろう。
(残念だったね。お目当ての将軍は、山にはいないよ)
本物の刃を、木刀一本でどうにかする。普通なら話にならない。でも——やりようはある。
最初の一人が間合いに入った瞬間、踏み込んだ。相手の剣筋を読んで、刃の腹を木刀で弾く。金属音が山に響く。喉元を打つと男がよろめいた。倒れた体を踏み越えて、次へ。
二人目が横から来た。躱して、背後に回って、肘で打つ。三人目は剣を大きく振りかぶっていた——素人の動きだ。踏み込んで懐に入り、手首を返して剣を奪った。
手に馴染む感触。
(やっぱり、剣の方がいい)
四人目、五人目。本物の刃があれば話が違う。間合いが広がり、動きに余裕が生まれた。
六人目が踏み込んできた瞬間、白霜は体を半転させて剣を流した。男がよろめいた。その足が、地面を踏み外す。
白霜は気づくのが、一瞬遅れた。崖、だった。
六人目の体が落ちていく。ぶつかった白霜の体も、慣性に引きずられた。崖の縁を指先でかろうじて掴む。岩が手のひらに食い込む。
(踏ん張れ)
でも——足が、空を切った。
指が、滑った。
(あ、)
声も出なかった。ただ、空が遠ざかっていくのが見えた。




