慎が執事になるまで
結城慎は、結城譲治の兄、結城譲一の一人息子である。結城家のあの豪邸は代々結城家の本家が相続するものであり、譲一と譲治の父親である譲が長年暮らしてきたが、慎が生まれてすぐに亡くなってしまったため、長男で譲一が跡を継ぎ、九年間、慎はあの屋敷で暮らしていた。
結城家が名家であることは、慎も知っていた。幼稚園に通っている時の周りの眼差し、街の人間の眼差し、そして車に乗りながら見る普通の家々と自分が住む家を比較して、自分の家は普通の家と違うということを知っていた。譲一からも名家の生まれとしての振る舞いを教えられてきた。何より、譲一が病に倒れなければ、ゆくゆくは自分が結城家の本家として家を継いで行くことも自覚していた。
しかし、慎が五歳の時に譲一に癌が発覚し、九歳の時に四五歳という若さでこの世を去ってしまった。慎が一人だと悲しむから、と譲一はもう一人、子どもを願っていたが、結果的にそれも叶わず、慎は母の倫江と二人、この世に取り残されてしまった。結果的に、譲治が本家を継ぐこととなり、慎は母親と共に、ひっそりと結城家が所有する多くの別邸の一つで暮らして行くことを余儀なくされたのだった。
周りの見る目も変わった。慎が「本家」でなく「分家」の人間になったことは、街ですぐに噂になった。小学校4年生までの慎は、自分が何もしなくても周りの同級生が近寄ってきたが、分家になった途端、急に同級生の眼差しが変わった。分家になっても親しくしてくれたのは、「佐倉静音」という女子児童と、数人の男子児童だけだった。
倫江と譲一は結城家の伝統に従って見合い結婚であったものの、倫江は譲一を心から愛していた。闘病生活にもつきっきりで付き添い、譲一が亡くなった後は気丈に振る舞って葬儀を済ませ、慎の前では決して泣かない芯の強い女性でもあった。別邸で暮らすことになっても何も文句を言わず、ただ、慎が分家の人間になったとしても、無事に成長して幸せな家庭を持ってくれればと、そう願う、優しい母親だった。
しかし、倫江も、譲一の後を追うように、一年後、交通事故によってあっけなくこの世を去ってしまった。この一年で慎は父親を亡くし、分家として周りの環境が変わり、母親まで亡くしてしまった。めまぐるしく変わって行った目の前の事実と自分の心身が追いついて行かなくなり、世界の色が急速に色あせて消えて行く感覚にとらわれた。目の前に車が通り過ぎたら、自分も飛び込んでしまおうか、そう思った。これからどうなるかという不安で、泣きそうになった。
譲治が倫江の葬儀を取り仕切り、慌ただしくも何とか無事に終えた後、母親の遺影を目の前に呆然と立ち尽くしている慎を見て、譲治が静かに、
「慎、これから、私の家で暮らせ」
と慎の肩を叩いた。慎が譲治を見上げると、譲治は何を考えているか分からない、表情の無い顔で慎を見下ろしていた。
「伯父さん……」
譲治は185cm近くあり、慎との身長の差は40cm近くあった。無表情の譲治は慎にとって威圧的に見え、有無を言わさず従わせる、そんな雰囲気を醸し出していた。倫江と譲一がまだ生きていた頃、譲一と譲治の確執について話しているところを、慎は盗み聞きしたことがある。だからこそ、譲治がなぜ自分を引き取ろうとしているのか、慎は不安に思った。
「僕、どうなるんですか」
おびえた眼差しで譲治を見つめると、譲治は胸元から一つのピンバッチを差し出した。
「高校を卒業するまでは、私が君の面倒を見る。その代わり、高校を卒業したら、結城家の執事として、結城家に仕えるんだ」
そのピンバッチは、慎にも見覚えがあった。代々、結城家に仕える執事達が胸元につけているピンバッチ。金色の丸形で、蝶をモチーフにした紋章が描かれている。
慎が屋敷で暮らしていた頃、このピンバッチをつけた何人もの執事がせわしなく働き、その下に居る使用人に指示を出しながら、結城家の生活を支えていた。何の力も無い、九歳の自分に人生の選択肢は無い。譲治によって、今、この瞬間、慎の未来は決められた。
*
そして、譲治は宣言通り、慎を高校まで通わせてやり、人間としての最低限の教養を慎に身につけさせた。在学中も、執事の見習いとして長年結城家に仕える執事の元で最低限のマナーを学んで行った。十八歳の春、慎はピンバッチをつけて執事として結城家に仕えることになるのだが、突然譲治から呼び出され、「しばらくは別邸に仕えて欲しい」と言うことを告げられた。
「別邸、ですか」
本家のあの屋敷に執事として仕えると思っていた慎は、譲治の命令に一瞬言葉を詰まらせた。
「そうだ。……あそこには、私の大事な人と、その娘が住んでいる。しばらく、その二人の世話をして欲しい。いきなり本家に仕えるのも緊張するだろうから、見習い期間だと思って、しっかり務めを果たしてくれ」
あまり感情を表に出さない譲治だが、その時ばかりは少し目を伏せていた。
つまり、愛人とその娘の面倒を見ろと、そういうことか――慎は心の中で譲治を軽蔑した。表沙汰にしたくないことを、「生活費と学費の面倒を見てやった」ことと引き換えに自分に押しつける。こうして自分は譲治の奴隷として生きて行くのか。学生時代の初恋も青春も、そして他の同級生が羽ばたいて行くその姿を遠くで見ながら、自分はこの結城家というかごの中で閉じ込められて生きて行く。慎は十八歳にして自分の人生を諦めた。
そして、薫と綺羅々が待つ別邸へと、慎は向かったのだった。