結城家の一族
綺羅々には、忘れられない想い出がもう一つある。
それは、薫が死んで綺羅々が結城家に引き取られたあの日のことだ。
綺羅々はある日、車に乗せられて本家の屋敷に連れて行かれることになった。
生まれて初めて車に乗り、外の世界を知った。それは新たな新鮮な光景でもあり、恐怖でもあった。世界は薫と慎と譲治だけではなかったのである。黒塗りのベンツが通る度に、街の人の目が車に向けられた。その視線の意味がこの時の綺羅々にはまだ分からなかった。
結城家に向かう車は慎が運転し、後ろに譲治と綺羅々が座ったが、譲治は結城家に着くまで何も言わなかった。車内は緊張感に包まれ、自分がどこへ行くのかも分からないまま車が到着するのを待った。
車が着いた場所は、薫と暮らしていた和風の別邸とは違い、本家の屋敷は噴水付きの庭がある、西洋風の大きな屋敷であった。それは、普通の人間では一生働いても住めないような豪邸であり、結城家が名家であるということを証明していた。その景色に圧倒され、綺羅々は、これから自分はどうなるのだろうという気持ちと、薫が居なくなってしまった悲しみ、不安で胸が張り裂けそうになるのだった。
結城家に着き、慎が後部座席の扉を開けると、先に譲治が館に入った。次に下ろされた綺羅々は車から出るなり慎にしがみつき、不安な気持ちを無言で慎に伝えた。慎は人目を忍んで、綺羅々の頭を何度か撫でてやり、そして、綺羅々の前でかがむと、
「綺羅々ちゃん、これから僕は君を綺羅々様、と呼ばなければならないんだ。ここに来た以上、綺羅々ちゃんは、結城家の姫君、お嬢様として生きて行くんだよ。それでも、僕…いや、私は、綺羅々様の味方だから。それを忘れないで」
と小さな声で言った。慎の発言に、綺羅々の頭はたちまち混乱した。お嬢様、綺羅々様…聞きたいことは山ほどあったが、別の執事が慎と綺羅々を呼ぶ声がして、その時間を得ることは出来なかった。
初めて綺羅々と結城家の一族が顔を合わせたのは、大広間だった。赤絨毯の上に十数人は食卓を囲むことが出来るであろう長机と椅子が部屋の中央に置かれている。
慎に連れられて綺羅々が大広間に入ると、譲治を除く結城家の三人の視線が一斉に綺羅々に向けられた。その一番奥に譲治が座り、窓際の一番左端に義理の母親になる紘子、間の椅子を一つ挟んで義理の姉の那智、右側の一番奥の席に義理の兄である智が座っていた。
綺羅々は知らない人の視線を一身に受けて、思わず慎の後ろに隠れたくなったが、慎がさりげなく綺羅々を前に出して自分は扉の壁際に下がったので、それは叶わなかった。
「これから、綺羅々は我が結城家の家族として、迎え入れることになった。よろしく頼む」
譲治が静かに、だが低く通る声で一言、そう言った。
しかし、紘子と那智の顔は決してよろしくなかった。紘子はあからさまに唇を固く結んで忌ま忌ましげに綺羅々をにらみつけている。那智は両腕を組み、冷たい眼差しで綺羅々を見た。智だけは、好奇の眼差しで両眉を上げて、綺羅々の様子を見つめていた。
一方の綺羅々は見知らぬ三人の視線に耐えられず、拳を握りしめ、俯いた。
紘子は譲治の発言に対してあからさまに、
「なんで私達が愛人の子を育てなければならないの?そんなの嫌ですわ」
と吐き捨てて、譲治に不満を訴えた。那智も続いて、
「妹は欲しいと思ってたけど、こんな形での妹は望まないわ」
と言った。
……愛人の子?妹?
……私は一人っ子ではなかったのだろうか。この人達は、自分の家族なのだろうか。
綺羅々はますます訳が分からなくなった。こっそりと慎の方を振り返ると、慎は悲しげに睫を伏せて結城家の会話を聞いているようだった。
「大体、急に愛人の娘を引き取るだなんて、いい迷惑ですわ」
「お父様の考えが私には理解できない。どうしてこの由緒ある結城家に分家にもならない人間が入ってくるのかしら」
「まったくですわ。それに、あの子のために外部から呼んでいる使用人を全てお払い箱にするなんて、まったくどうかしてる。私達の生活が不自由になるじゃない」
紘子と那智はここぞとばかりに思いの丈をぶつけ、大広間はたちまち険悪な雰囲気に包まれた。綺羅々は、おそらく自分のことを言われているのであろうと思いながら、ただここから一刻も早く逃げ出してあの家に帰りたかった。薫が居ないなんて信じたくない。また薫と慎と三人で、穏やかな日を過ごしたい、そう心から願った。
しばらく紘子や那智の文句を黙って聞いていた譲治だったが、やがて、一言、
「この家の主は誰だ?紘子、那智、お前はいつからそうやって偉そうにものを言うようになったんだ」
と険しい目つきをして威圧的に言い放った。すると、途端に大広間は静まりかえった。紘子も那智も譲治にそう言われるとそれ以上何も言えなくなってしまい、不満げに黙ってため息を吐いた。
「智、お前はどう思うんだ?」
先ほどから一言も発言をしない智に対して譲治が問いかけると、智は譲治の顔は見ずに、
「俺は別に良いですよ。妹が出来るのは」
と言って、綺羅々の方に身体を向けて俯く綺羅々の姿を見た。
「そういうことだ。使用人は代々この家に住み込みで働いている執事達で十分にまかなえる。お前達の生活になんら支障はないはずだ。……慎、綺羅々に部屋を案内してやれ。それから、これからの生活についても、慎から十分綺羅々に説明しておくように」
そう言って譲治は席から立ち上がり、大広間から出て行ってしまった。
譲治が大広間から居なくなるなり、紘子は再び大きなため息を吐いて脚を組んだ。那智も机に拳を突いて俯いている。智だけがすっと席を立ち上がり、那智の方まで歩いてきた。そして一言、「これからよろしく」と言って、綺羅々の頭を優しく撫でた。綺羅々が恐る恐る顔を上げると、智は微笑んでいた。その表情は、緊張した綺羅々の心を少しだけ解したのだった。
「綺羅々様。こちらへお越しください」
後ろで慎の声が聞こえる。その声色は明らかに別邸に居たときの声ではなく、よそ行きの声色だった。綺羅々が振り返ると、慎が扉を開けて綺羅々を待っていた。先に智がその扉から出て大広間から出て行き、綺羅々は呼ばれるがまま慎の元へと歩いて行った。拳を開くと手は汗でびっしょりと濡れていて、綺羅々は一気に疲れを感じた。
綺羅々が慎の元までやってくると、慎は綺羅々の前を歩いて絨毯が続く屋敷の廊下をゆっくりと歩いて行った。
「ねえ、慎、私、これからどうなるの?」
綺羅々が後ろから問いかけても、慎は返事に答えなかった。ただ、静かに音を立てず、廊下を歩いて行く。玄関ホールを経由して二階へ上がり、綺羅々は二階の一番奥の部屋へと案内された。
「今日からここが綺羅々様のお部屋です」
部屋に入るなり、綺羅々はその部屋の大きさに驚いてその場に立ち尽くした。
それは、別邸の居間の何倍あるかも分からない広さで、自分が今日からここで暮らすと言われても、夢としか思えない。
天蓋付きのベッドが部屋の中央にあり、その横には二人は軽く並んで座れるであろう大きさの勉強机、窓際には小さな丸テーブルが一つと一人用のソファが二脚置いてある。さらに、廊下側の部屋の奥には、トイレとバスルームまで備え付けられているのが分かった。
「……どういうこと?全然わかんないよ、慎」
慎は綺羅々の部屋の扉を閉め、綺羅々の前に跪いて恭しく頭を下げた。
「…綺羅々様。あなたには難しい話が沢山出てきて、一度に理解するのはきっと無理だと思います。でも、はっきりと言えることは、綺羅々様は今日からここに住むということ。そして、あの別邸には二度と戻らないということ。そして、私と綺羅々様は、あの別邸に居た時のように気軽に遊べなくなってしまう、ということです」
慎の眼差しは真剣そのものだった。あの優しい慎の瞳ではなく、別の世界の人間を見るような眼差しで綺羅々の顔を捉えていた。綺羅々は、唯一の心のよりどころであった慎から突き放されたような気持ちになって、途端に瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
「なんで?なんでなの、わかんないよ、愛人って何?あの人達は誰なの?」
「あの方々は、今日から綺羅々様の新しい家族になる方です。窓側に座っていらっしゃったのが紘子様であなたのお母様、もう一人の女性は那智様であなたのお姉様、そして、頭を撫でてくださったのが、智様であなたのお兄様です」
「私のお母さんは一人しか居ないよ」
慎はいたたまれなくなって綺羅々から目をそらした。
「私からは、今の綺羅々様に上手に申し上げることが出来ません。申し訳ありません……」
慎は泣きそうになって唇をかみしめていた。
「慎……?」
「綺羅々様のお世話は、私が責任を持ってさせていただきます。今までのように出来ることと、出来なくなることがありますが、それでも、私は綺羅々様の傍に出来るだけいられるように、努めます。どうか、辛い生活になるかもしれませんが、私を忘れないでください」
そう言うと慎は綺羅々を強く抱き締めた。綺羅々はこれから何が起こるか分からなかったが、その慎の抱き締める力の強さに、小さく頷いて、そして「わかった」と小さく返事をした。
*
それから九年後の今、綺羅々は再び慎に強く抱き締められている。思えば慎が自分から綺羅々を力強く抱き締めたのは、薫が死んだ時と、綺羅々が結城家に初めて来た時、そして今、この時だけだった。
「ねえ、慎。どうして、こんな、私のことが、好きなの?」
綺羅々は目を閉じたまま、慎の腕の中で呟いた。
「私、慎に迷惑しか掛けてない」
すると、慎は、震える声を何とか抑えて、
「あなたが成長して行く姿を、ずっと傍らで見守ってきました。笑っている時も、泣いている時も、苦しそうにしている時も、ずっとありのままのあなたを見てきました。私は、そのお姿に、いつしか、どうしようもなく惹かれてしまったのです」
と言い、綺羅々の肩を抱いた。
今度は、慎が綺羅々と過ごした日々を思い出す番だった。