出会いと別れ
綺羅々が譲治に連れられて結城家を訪れたのは、約九年前、綺羅々が九歳の時である。その時の、紘子と那智の顔を綺羅々は今でも忘れることが出来ない。
衝撃と絶望。
嫉妬と軽蔑。
そして、憎悪。
二人は笑顔一つ見せず、綺羅々を一瞥した後、二度と綺羅々の顔を見ようとはしなかった。その時、幼いながら、自分はこの家に歓迎されていないのだということが分かった。
綺羅々の母親、四方田薫が死んだのは、結城家を訪れるちょうど二週間前だった。葬儀は譲治と、綺羅々、そして慎だけでひっそりと執り行った。元々綺羅々は母親と二人暮らしで、さらに二年前からは慎が毎日、家事の手伝いにきていた。そのため、譲治の顔を見たのはそれまで週に一、二回しかない。だから、譲治では無く、慎の手をずっと握りしめていた。そして、薫が帰ってくることを、祈っていた。
*
生前の薫は着物がよく似合う女性で、好んで着物を着ていた。黒髪を綺麗に結い上げ、落ち着いた柄の着物を普段から着ており、凛とした佇まいでよく和室の縁側から外の庭園を眺めていた。綺羅々の容姿は殆ど薫に似ていた。黒髪に切れ長の大きめの二重、紅く色づいた唇―。
ただ薫は三十三歳にして子宮癌を患っていることが発覚し、普段通りの生活が段々と送れなくなってきた。譲治に入院を勧められたが断り続け、綺羅々にも病気を隠した。その代わり、体調が悪化した時のための世話役として、譲治に使用人の派遣を頼んだのである。それが約十一年前の出来事であり、派遣されたのが結城慎だった。
慎は当時十八歳で、執事として働きはじめたばかりだった。いきなり結城家の執事として働くのは大変だということで、譲治の別邸の一つに住んでいる薫の家で薫の手伝いと綺羅々の世話をすることになったのである。
七歳の綺羅々が初めて慎に会った時、「あまり表情がない人だな」と感じた。何かを諦めたような瞳をして、もしかすると、自分と同じで、寂しいのかな、と綺羅々は感じた。
結城家は大地主の名家と言うこともあり、綺羅々の存在は譲治にとって表沙汰にするのは好ましいことでは無かった。そのため、世間の目を忍んで育てられ、しばらくの間は出生や存在は隠されて育っていくことになった。本来は薫が担う役目を徐々に慎が担うようになり、勉強から、遊び相手までこなすことになった。最初は慣れない仕事にぎこちなくこなしていた慎も、段々と人形遊びが上手くなり、勉強の教え方も上手くなった。料理も薫に教えてもらいながら、一つ一つ着実に覚えていった。薫が医者に往診に来てもらっている時も、綺羅々の気をそらすのが上手になった。
「ねえ、慎って、お父さんの知り合いなの?」
綺羅々は勉強の最中、ふと慎にこう尋ねたことがある。
「そうだよ。僕は、綺羅々ちゃんのお父さんのお兄さんの子どもなんだ」
そう言う慎の瞳は、なぜか、どこか寂しげに見えた。
「うーん、何だか難しいなあ」
「綺羅々ちゃんの言うとおり、お父さんの知り合い、ってこと。お父さんが忙しいから、僕が綺羅々ちゃんと薫さんのお手伝いをしに来ているんだよ」
「ふーん……」
「ほら、勉強しよう。次は算数だね」
「算数嫌い」
「そんなこと言わないで、頑張ろう」
綺羅々が別邸の外に出ようとしたり、勉強を放棄したりする事件などちょっとした騒ぎはあったものの、今まで甘えられる人間が薫しか居なかった綺羅々にとって慎は兄のような存在になり、つかの間の幸せを手に入れることが出来た。
一方の薫は年々具合が悪くなり、最期の方は気力だけで生きている状態だった。二年生きているだけでも奇跡だと言われた。さすがの綺羅々も母親の異変に動揺し、自分も積極的に家事を手伝うことで薫を何とか助けようとした。しかし、薫は殆ど床に伏せって起き上がれなくなっていた。
「ねえ、お母さん、死んじゃうの?どうすれば助かるの?」
薫が床に伏せって具合が悪そうにしている時、綺羅々は慎に泣きながらすがりついた。慎は悔しそうな表情で、俯いたまま黙っていた。
「……」
「ねえ、なんで何も言わないの?」
「薫さんは、優しい人なんだ。誰にも何にも迷惑をかけたく無いんだ」
「言っている意味が分かんないよ!迷惑をかけたって良いから、助けてよ、慎」
慎はかがんで綺羅々の身体を強く抱き締めた。綺羅々は慎の腕の中で大声を上げて泣いた。
薫が死んだのは、その三日後のことである。普段から口数が少ない譲治だが、薫の顔を見るなり、正座になって声を押し殺して泣いた。譲治が人目を憚らず泣いている姿を見たのは、綺羅々に取ってはそれが最初で最後だった。
そして、綺羅々が結城家に引き取られてから、綺羅々は自分が置かれている立場について、否が応でも思い知らされることになる。
まず、薫と譲治は本当の夫婦では無く、いわゆる愛人関係にあり、自分は愛人の娘だということ。それから、薫は譲治がよく通う割烹料理屋の女将をやっていたということ。薫が作る料理は美味しかったが、経営が悪化して店をたたもうとしている時に、譲治が援助を申し出て、そこから男女の関係に発展していったということ。綺羅々が生まれてからは人目を忍んで薫の家に通い、援助を続けながら生活させていたということ。
綺羅々は紘子や那智からその話を聞かされる度に耳を塞いだ。それでも事実は変わらない。それに、譲治本人からは決してこの話は聞かなかった。自分は本当は望まれないで生まれた子どもなのではないか、自分なんて居ない方が良かったのでは無いか、という気持ちが芽生えるようになっていった。
しかし、三周忌の日、譲治と外食をすることになった時、その店の女将が着物を着ている姿を見て、ふと薫の着物姿を思い出した。そして、かつて薫と譲治が出会った割烹料理屋なのではないかという気がした。譲治は何も言わずに、女将の後ろ姿を時折眺めながら日本酒を口にしていたが、その瞳には薄い涙の膜が張っていた。
その様子を見て、綺羅々はまだ譲治が薫を愛しているのでは無いか、と思った。だから自分を孤児院に入れずに、引き取ったのではないかと。
それでももう薫は居ない。そして、結城家に引き取られたことは、結城家に引き取られてからの日々を思い出しても、決して綺羅々にとって幸せな環境とは言えなかった。
それでも、綺羅々には慎が居た。慎の存在のおかげで、何とか綺羅々は結城家で生きていくことが出来たのである。