禁断
慎がサンドイッチを配膳用のカートに乗せて綺羅々の部屋に戻ってきた時、綺羅々はまだ扉に背を向けてベッド上でうずくまっていた。
綺羅々は目を閉じたまま扉が開く音がするのを聞いていたが、どうしても慎の方を振り向けなかった。どんな表情で振り向けば良いのか分からなかった。
「綺羅々様、昼食をお持ちしました。もう三時ですので、簡単なお菓子も添えてあります」
慎は配膳カートを机の脇に寄せて、サンドイッチが載った皿を机に並べ始めた。綺羅々に声を掛ける調子は、いつもの慎で、動揺している素振りも、ぎこちない素振りもみられなかった。一方の綺羅々は何も言わず、膝を抱えて、部屋の奥を見つめていた。
「綺羅々様?」
返事をしない綺羅々に、慎は綺羅々が寝ていると思ったのか、ベッドに近づいてきた。それでも綺羅々はそのまま動かずに慎を待っていた。慎が綺羅々の顔をのぞき込むと、綺羅々は顔だけ上に向けて慎の顔を見た。
「身体の奥が、変な感じがする」
「……?」
「慎にあんな風にされてから、私、身体の奥がずっと、変な感じがする。これって、どういうこと?」
慎は綺羅々の言葉に動揺して瞳をそらした。視線の先には、綺羅々のワンピースは身体を折り曲げているせいで包帯を巻いた太ももが少しちらついて見える。
「それは……」
「変だよね、こんなの。慎は普通なのに。私、熱は下がったけど、やっぱりおかしいままなのかな」
慎は答えに窮した。綺羅々は、人目を忍んで育てられ、「そういう」教育を誰からも、いや、自分もしなかった。確かに、時折見せる無防備な姿が、紘子や那智にとっては「うぬぼれている」「色目を使っている」ように見えたかもしれない。本来、着替えや包帯を取り替えることだって、男である自分はやらないものだ。しかし、本人には悪気も無ければ、罪も無い。ただ、甘えられる大人を探している、そういう風に慎には見えた。それすらも慎には愛しく思えた。
綺羅々の無知というのは、そういう境遇に生まれた不運、――自分と同じ、「不運な環境」に生まれたからなのだ。
でも、綺羅々が「欲情」という現象に戸惑っている姿を見て、慎も普通で居られるはずが無かった。傷付けてはいけない、さっき部屋を出てきた時、そう誓ったはずだった。でも、綺羅々が自分に欲情している、その事実だけで、何もかも全てを放り投げて、今すぐ綺羅々をこの腕に抱き締めたいと、慎は思った。自分の全てを受け止めて欲しい、「執事」なんて立場を超えて、一人の男女として、この屋敷で暮らしたい。綺羅々が一言でも「抱き締めて欲しい」と言えば、あの時のように、抱き締めてやりたい、そう思った。
しかし、綺羅々はそう言わなかった。ゆっくりと上体を起こし、そして、
「ごめんなさい」と切なげに笑い、
「私の言ったこと、気にしないで」と言葉を続けてベッドから起き上がった。
「これからは、気をつける。お兄様となんて、到底考えられないけど、でも、もし、何か間違いがあったら、私はこんな辛い思いなんてしたくないから、全力で逃げるわ」
綺羅々は慎の顔をほんの少しだけ一瞥して、横を通り過ぎ、サンドイッチが置かれている机に向かって裸足のまま歩き出した。そのほんの僅かな距離、慎は綺羅々の腕を掴んで、自分の腕の中に引き寄せた。
「……すみません、綺羅々様」
「ま、慎?」
綺羅々は智に抱き締められた時と同じように、とっさの出来事に緊張して慎の腕の中で身体を強ばらせた。智は綺羅々の様子を感じ取って身体を離したが、慎は身体を離さなかった。むしろ、綺羅々の身体を離すまいと、力強く自分の腕の中に押し込めた。
「智様にも、同じような気持ちを抱くなんて、絶対に嫌だ。身体が疼くのは、私の前だけにしてください」
慎は綺羅々の後頭部に自分の顔を埋めるような形でじっとその場に立ち尽くした。
「慎、何言ってるの……?」
「すみません、綺羅々様。もう、仮面をつけ続けるのは、無理です。ずっと、ずっと……あなたが、好きでした」
慎の声は震えていた。綺羅々は、初めて慎の震える声を聞いた。それに、ずっと執事として仕えてくれた慎が、こんな私を「好き」だと言っている。綺羅々にはあまりに非現実的な出来事だった。しかし、身体を包む慎の温もりが、その非現実的な出来事を現実だと証明している。
「慎、私……」
「何も言わないで、しばらくこのままで居てください。そして、私を、このまま執事として綺羅々様の傍に置いてください」
綺羅々は慎の腕をそっと掴んで、そして慎との出会いを思い出した。
綺羅々と慎の出会いは、十一年前に遡る――。