嫉妬
「お兄様は?」
綺羅々が慎の手を握ったまま辺りを見回すも、智の姿はすでに無かった。
「帰られました。大分前に」
そう言う慎の表情は淡々としていたが、手からは手袋をはめていても人間らしい温もりが伝わってくる。あの夢を見て、慎の手を握って、綺羅々は少しずつ「私は今ここに居る」という感覚を取り戻し始めた。
「そう、お兄様、何か言ってた?」
「いえ、突然倒れた綺羅々様を心配されていらっしゃいましたが、どうしても片付けなければならない仕事があるとのことで、お帰りになりました」
「……」
綺羅々は天蓋ベッドの天井を見つめた。智に突然抱き締められたことなんて、慎に言えるはずも無かった。私と慎は言葉でこそ言わないものの、何か心の奥で繋がっている、そんな気持ちがして、言うのが恥ずかしかった。それは、家族のような絆なのか、はぐれもの同士の共鳴なのか、恋愛感情なのか、はっきりと自覚できるものではないが、それでも大切に想っている慎にだけは言いたくなかった。
「綺羅々様」
慎の問いかけに綺羅々は天井から慎に視線を移した。慎の目は、心なしか怒気を孕んでいる。
「……。こんなことを言うのは憚られますが、智様に、何かされませんでしたか」
まさに自分が今考えていたことを慎に問われて、綺羅々は無意識に目を背けた。慎は質問に答えない綺羅々に、手に力を込めて無言で答えを迫った。
「痛っ、慎」
「兄妹と言えども、嫌なことがあったら嫌だと言わなければなりませんよ」
慎に窘められるのは随分珍しいことだった。一応は綺羅々の方が立場は上であり、慎は執事としていつも綺羅々のお願いや命令を聞く立場である。しかし今は、珍しく慎が苛立っていた。
「何かって、別に……。体調が悪いから、心配してるって言われて、抱き締められただけ。きっと、スキンシップの一環じゃないかしら」
綺羅々は努めて冷静に答えたが、慎が怖くて視線を合わせることが出来なかった。慎が怒っているのは珍しいことだ。いつも優しい慎がなぜこんなにも怒っているのか、綺羅々には気持ちを図りかねた。
もしかして、……いや、そんな訳は無い、と綺羅々は思い直した。
だって自分は、愛人の子どもで、怪我だらけの身体だから。誰も愛してくれはしないだろう。そう言う思いが常につきまとっていた。
『うぬぼれるのもいい加減にしなさいよ』
『その色目を使うような瞳があの女にそっくりなのよ』
結城家に居た時のあの言葉が蘇る。
綺羅々はこの家に来てから、うぬぼれているつもりは無かったし、慎に色目も使ってはいないつもりだった。確かに、執事としての仕事以上のことをお願いしたこともある。でも、それは、女として愛して欲しいというよりは、「甘えたい」という純粋な気持ちからだった。
綺羅々はひたすら「甘える」ことに飢えていた。執事の慎になら、甘えられると思った。
「私、もしかして、うぬぼれてたかしら。色目をあなたやお兄様に使っていたかしら」
綺羅々の手は微かに震えていた。そのまま、慎の手を離そうとすると、慎は抵抗せずに綺羅々の手を離してやり、代わりに綺羅々の瞳を静かに見据えた。そして、自分の手袋を外すと、綺羅々の右目の眼帯を外し、綺羅々の目の上の傷にそっと触れた。
「……いえ、綺羅々様はうぬぼれていません。色目を使ってもいません。綺羅々様は、心も身体も傷付いている。その傷を癒やすためにここに来た。私は、智様にあなたに新しい傷を付けて欲しくない。あなたをお守りしたいのです」
綺羅々の目の上の傷は、自分で付けたものだ。結城家に居る時、精神不安定になった綺羅々が目を切りつけようとした時に、慎に止めに入られてしまい、目の上の傷に微かな傷が付けいてしまった。その傷を隠すために、綺羅々は眼帯をしている。
「お兄様が、私に傷を付ける?」
綺羅々を抱き締めた時の智は、決して自分を傷付けようとしていなかった。慎以外に結城家で綺羅々をかばってくれていたのは智だけだった。綺羅々には慎の言葉の真意が分からなかった。
「智様は、あなたのことを一人の異性として見ていらっしゃいますよ」
慎の言葉に綺羅々は衝撃を受けた。思いがけない言葉に、顔中が熱くなっていくのを感じた。気持ちを落ち着けるために上体を起こし、胸に手を当てて軽く息を吐いた。
「…ま、まさか。何を言っているの?お兄様は、私を可愛い妹だって」
「そんなのは嘘です。私は、ずっと黙っておこうと思っていました。でも、今日の智様の振る舞いを見て、私はもう我慢の限界を超えました」
慎は、窓ガラス越しに見つめ合った智の眼差しが忘れられなかった。あれは、決して那智には見せない眼差しだ。間違いなく、前に宣言されたとおり、綺羅々を女性として見ている。「兄妹」という立場を上手に利用して、自分の思い通りに事を進めようとしている。美しい白鳥を狙う、狩人の目つきだった。
――そんなこと、絶対にさせない。
慎は立ち上がり、膝をベッドに掛けると、上体を起こした綺羅々の身体を再びベッドの上に押し倒した。そして四つん這いで綺羅々に乗り、綺羅々の腕を綺羅々の顔の横で掴んだ。
「智様は、あなたとこういうことがしたい、と思っていると言うことです」
綺羅々は目を見開いて慎の顔を見上げた。慎の瞳は欲情して濡れていて、眼差しはぞっとするほど艶があった。そして限りなく綺羅々の顔に自分の顔を近づけて、しばらくそのまま綺羅々の瞳を見つめた。
慎の腕の力強さと迫力に圧倒されて、綺羅々は抵抗できずに、慎と見つめ合った。慎に腕を掴まれているだけなのに、身体の奥が熱くなり、芯が疼いた。その感覚に戸惑って、綺羅々は視線を揺らした。私は慎に、甘えたいだけじゃなかったのだろうか、もしかして――。
そう思った時、慎は突然ふっと口許を緩めて、綺羅々から腕を放した。そして身体を離し、ベッドの横に腰掛け直した。綺羅々は放心状態のまま、天井を眺めた。
「すみません、おふざけが過ぎましたね。綺羅々様、男は兄だろうが誰だろうが、男なんです。例え血が繋がっていても、相手が恋愛感情を抱けば、そう言うことをしたいという欲求が生まれます。だから、綺羅々様も気を付けてください」
慎はいつもの穏やかな口調の慎に戻っていた。
「少し遅いですが、昼食にしましょう。サンドイッチを作って参ります」
綺羅々の言葉を待たずに、慎は部屋から出て行ってしまった。綺羅々の身体の疼きはまだ収まらずに、どうやって処理をしたら良いのか分からないまま、うずくまって目を閉じた。
慎のあの眼差しが、はっきりと脳裏に焼き付いている。
『いくら執事とは言え、慎も男だからね。それを忘れたらいけないよ』
智の言葉が蘇った。
男と女。そんな風に考えたことも無かった。包帯を取り替える時に感じるあの眼差しは確かに男だった。でも、それ以上のことは決してしなかった。着替えや洗濯では男ということを感じたことも無い。だから慎が「執事」ではあるが、「男」であるということを、必要以上に考えないで今まで接してきた。しかし、今の私のこの身体の疼きは何だろう。そして、慎のあの眼差しは何だろう。本能が、何かを囁いている。これ以上考えては駄目、そう自分の理性が本能の上に被さって塞いだ。
綺羅々は結局、慎がサンドイッチを持ってくるまでそのままの姿勢で目を閉じていた。
一方、綺羅々の部屋を出た慎は、身体の中の熱を抑えるのに何度も大きく深呼吸を繰り返した。あの綺羅々の眼差し、微かに動く内股の気配、あのまま綺羅々を見つめていたら、自分は執事であることを忘れていたかもしれない。智には気を付けろ、なんて言いながら、自分が真っ先に綺羅々を傷付けてしまいそうだった。それが怖くて何とか執事の顔を貼り付けて出てきた。
綺羅々はどう思っているのだろうか。自分をまだ執事として見てくれるだろうか。でなければ、自分は彼女の傍に居ることは出来ない。智が来て冷静さを欠いた自分に後悔した。
慎にとって綺羅々は大切な「姫」である。しかし、綺羅々にとって慎は「執事」であり、決して男と女の関係ではない。あくまで、結城家に居る限り、これまでの関係を続けなければいけない、慎は最後にもう一度だけ呼吸をして、昼食を作りに廊下を歩いて行った。