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智と綺羅々

「綺羅々、ここの生活は慣れてきたか?」

 慎が部屋から出て行くと、智は額から手のひらを離して椅子に深く腰掛けた。

「こっちの方がずっと、住みやすいです」

 綺羅々は智とは目を合わせず、自分の額を触った智の手を眺めた。

 慎とは違い、智は指先もごつごつしていて、慎と身長も同じ位なのに体格が良い。慎は筋肉質ではあるが、智には、外国人の血が入っているからか、骨格全体ががっしりとしていて、野性的な男らしさを感じさせる。


「そうか。こうやって人目を忍んで暮らす生活も悪くないだろうな。……俺も、出来るならそうしたい」

 智は空を、窓越しに眺めた。快晴だった空に、うっすらと雲がかかり始めている。

「お兄様は結城家の跡継ぎですもの。私は所詮、結城家のお荷物に過ぎません」

 綺羅々は紘子や那智に言われた様々なことを思い出して、表情を曇らせた。智が来るのが苦手なのは、かつて結城家に住んでいた時の辛い記憶が脳裏を過ぎるからだ。


『愛人の子どもを育てるなんて、私、いやですわ』

『あんたなんて所詮、結城家の分家にすらなれない汚れた血なのよ』

『あんたの顔を見てると虫唾が走る』


 悪いのは譲治に他ならないが、その矛先は常に綺羅々に向かっていた。智が居る時、智は常に綺羅々をかばってくれたが、智が居ない時の方が圧倒的に多かったのだ。

「綺羅々」

 智が不意に、綺羅々の眼帯に親指を触れた。綺羅々は驚いて反射的に後ろに身体を背けた。そんな綺羅々の姿を見て、智は寂しげに眉を下げて笑った。

「ごめん、そんなに驚かなくても。綺羅々が何か考え事してたから、心配事でもあるのかと思って」

「ごめんなさい、何でもありません」

 綺羅々は首を振って、頭を下げた。

「俺は跡継ぎなんて、別にしたくないよ。綺羅々といっそ遠くまで行けたらいいのに、と思うこともある」

 智が綺羅々をじっと見据えているのが、綺羅々には分かった。智は、着々と跡継ぎへの道は固まっていて、その道を歩む決意も表明しているのに、時々こうしてふと、本音なのかどうか分からないことを口にする。そうすると綺羅々はなんと答えたら良いのか分からなくなるのだった。


「お話中、失礼します」

 慎がお盆に紅茶のカップとティーポットを持って綺羅々の室内に入ってきた。机の前まで来ると頭を下げ、二人の前に温めた紅茶のカップをソーサーの置き、ティーポットからアールグレイの紅茶を注いだ。

「ちょうど良いところに、どうもありがとう」

 智はカップを手に取り、慎を一瞥してアールグレイの匂いを嗅いだ。そして、

「ああ、良い匂いだ」

 と言うと、そっと紅茶を口に含んで飲んだ。

 一方の綺羅々も遠慮がちにカップを手に取り、紅茶を口に含み、舌の上で味わってから嚥下した。

「恐れ入ります。私はお二人のお話を邪魔するといけませんので、庭の手入れに戻ります。もし、何かあれば遠慮無く、窓を開けてお申し付けください」


 綺羅々は、智が来ると心なしか慎がよそよそしくなるように感じて寂しくなった。慎の言葉はいつも通り穏やかだが、どこかひんやりと心のシャッターを下ろして、何かを見ないようにしている、そんな眼差しをしている。

 慎はお盆を両手に抱え、再びお辞儀をして綺羅々の部屋に出て行った。智はその後ろ姿を、目を細めて眺めている。智は分家の慎をどう思っているのだろうか。


「……慎との二人の生活はどうだ?」

「慎は、何でも出来て、とても優秀な執事です」

 その言葉を聞くと、智は紅茶のカップをそっとソーサーの上に置いた。

「何でも、と言うと?」

 綺羅々は慎にしてもらっていることを思い浮かべた。食事の世話、庭の手入れ、洗濯、掃除、着替え、包帯の取り替え、そして――。恋愛感情の有無はともかく、執事の範疇を超えたことは、ここで言うのは得策では無い。綺羅々は無難に、

「食事、洗濯、掃除、庭の手入れ、雑用全般です」

 と答えた。洗濯、という単語に智が反応して指先を机の上で数回トントンと叩いた。

「洗濯、ね」

「……勿論、下着は、自分で洗っていますわ」

「まだ何も聞いてないのに」

 智は口端をつり上げて、わざとらしい笑みを浮かべた。

「意地悪ですよ、お兄様」

「ま、綺羅々が考えていることは当たっているよ。いくら執事とは言え、慎も男だからね。それを忘れたらいけないよ」

 再び庭に出てきた慎の姿を智は見逃さなかった。慎の一挙一動に注目しているのが綺羅々にも伝わる。


「お兄様は、私と慎の関係を心配しているのですか?」

「それはそうさ。君は俺の妹だろ」

 那智は決して綺羅々を妹扱いしなかったが、智は綺羅々を妹扱いしている。自分の親の愛人の子どもなのに、どうしてそんなにも優しく出来るのだろう。

「綺羅々は、俺を兄と思ってくれてるか?」

 智は再び綺羅々の目を見据えた。その瞳は真剣だった。うっかり見つめ合うと、その濃い茶色の瞳に吸い込まれてしまいそうで、綺羅々はいつも智をちゃんと見ることが出来なかった。


「私は一生、一人っ子だと思っています。お兄様には失礼なことを申し上げてしまいますけれども、どうしてもお兄様が来るととても緊張してしまいます。私は、結城家の人間ではないのです」


 その言葉を聞くなり、智は思い詰めたような表情をして立ち上がり、綺羅々の後ろに回り込んだ。綺羅々が驚いて智の方を振り向くと、智は身体をかがめ、綺羅々の身体を後ろからゆっくりと抱き締めた。


「綺羅々が結城家で辛い思いをしたことは、俺も知ってる。でも、俺は、綺羅々の味方だということを忘れないで欲しい。少なくとも、俺は綺羅々を妹だと思ってる。それだけは、忘れないでくれ」


 耳元で智がささやくと、綺羅々の身体は思わず強ばった。智に抱き締められるのは、初めてだった。

「ごめん、急に抱き締められたら驚くよな。大丈夫だよ、俺は妹として、綺羅々を抱き締めただけだから」

 綺羅々の身体のこわばりを感じ取ると、ささやきかける声とは裏腹に、茶化すように笑って身体を離し、頭をポンポンと優しく叩いた。そして、窓の外を眺めた。庭の手入れをしているはずの慎と目が合った。慎の目は冷たく、軽蔑するように智の姿を捉えていた。


 綺羅々は綺羅々で心臓の鼓動が早まり、何をどう処理したら良いのか分からなくなっていた。智は結城家に居た時から女には潔癖で、浮ついた話も聞いたことが無い。見合い話も全て断っていると聞いていたし、純粋な妹である那智ですらスキンシップを取っている姿を見たことが無い。そもそも、兄は妹を抱き締めるものなのだろうか。


 綺羅々は頭がクラクラしてきた。包帯を取り替えたあと、念のため慎から常備薬の解熱剤をもらって飲んだが、急な来客と予期せぬ行動に緊張して、熱がぶり返してきたのかも知れない。ふらふらと椅子を立つと、ベッドに向かって歩き出したが、視界がぐらついてその場に倒れた。


「おい、綺羅々、大丈夫か?」

 段々と遠のいていく意識の中で、智の声が聞こえた。


 綺羅々は意識の境界線で、うっすらと夢を見た。黒い手が、自分を闇の奥に引きずり込もうとしている。どこか違う世界へ引きずり込もうと、追いかけてくる。綺羅々はその手から必死に逃げて、何とか逃げきると、急に草原が広がり、女子高生がこちらに手を振っていた。よく見ると、それは自分自身だった。その横には、執事でない慎も居て、一緒に手を振っている。


綺羅々はその二人に向かって走って行こうとしたが、二人との距離はどんどんと遠くなっていき、やがて見えなくなった。いつのまにか綺羅々は何も無い草原に一人で立ち尽くしており、偶然近くに大きな樹の前を見つけると、疲れ切って樹の下に座り込んだ。すると、執事姿の慎がどこからか現れて、「何をしているのですか」と優しく話しかけ、綺羅々の横に座り、そして綺羅々は慎の肩に頭をもたれかけて目を閉じた。


 おかしな夢だったが、綺羅々の瞳からはうっすらと一筋の涙がこぼれ落ち、頬を伝った。意識が現実に戻ってくると、綺羅々はベッドの上に寝かされているのが分かった。そして、先ほどまで居たはずの智の姿は無く、代わりに執事姿の慎の姿がベッドに腰を掛けていた。慎は綺羅々の涙をそっとぬぐってやり、微笑んだ。


「綺羅々様、大丈夫ですか」

 綺羅々は自分の身体が軽くなっているのを感じ、慎の解熱剤が効いて熱が冷めてきていることに気付いた。


「うん、もう、大丈夫みたい」


 そう言って綺羅々は、慎の手をそっと握った。慎は綺羅々が手を離すまで、握られた手を離さなかった。


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