智と那智
綺羅々と慎が想い合いながら新たな生活をスタートさせた一方、結城家では、那智の結婚式が数日後に控えていた。
那智は相変わらず談話室で本を読むのが好きで、ドビュッシーの「夢想」をかけながら、ソファに座って英語の本を読んでいた。
「……何の用?お兄様」
那智は扉の傍に居る智の気配に気付いたのか、顔も上げずに呟いた。すると、扉のところに智がひょっこりと姿を現した。
「気付いてたのか」
「当たり前でしょ」
「入ってもいいか?」
「どうぞ」
智は知っている。那智は、言い方はつっけんどんだが、本当は繊細で傷つきやすい子だと言うことを。
「何か用?」
「何か用って、それはお前、数日後にここから居なくなるんだから寂しくなって来たんだよ」
「……そう」
智は、那智の横に腰をかけて、談話室全体を見渡した。ここには色々な書物や音楽のCDが置いてある。那智は昔から、自分の部屋にこもるよりも、こうしてここで本を読んだり音楽を聴く方が好きだった。
「これ、ドビュッシーだよな」
「私が好きな曲の一つ。切ないでしょ」
「切ない、か。これから御曹司に嫁ぐ女の子が言う言葉じゃないな」
「政略結婚だし、別に、私、あの人のことそんなに好きじゃないもの」
「何でだ?顔も良いし、人柄も悪くなさそうだったのに」
「何となくよ」
会話は淡々と続いていき、那智は決して本から目を離そうとしなかった。智は自分の肘を太ももの上にのせて、少し前のめりになってソファに腰をかけ直した。
「慎と綺羅々に会ってきたよ」
「……何でそんなことをわざわざ私に報告するの?」
「俺とお前は似てると思ったからだよ」
「どういうこと?」
那智は困惑して思わず本から目を離し、智の横顔を見つめた。智の横顔は少し寂しげに目を伏せていた。
「お前、慎が好きなんだろ?」
あまりに唐突な質問に、那智は、身体を強ばらせて、そのまま黙ってしまった。
「何よ、お兄様、いきなり」
「最近まで気付かなかったよ。お前のお兄様なのにな」
自嘲気味に智は笑い、那智は動揺して瞳を揺らしている。
「別に好きなんかじゃないわ」
「いや、思い返せば、お前は慎が好きだったって言う証拠になりそうな想い出はいくらだって出てくる」
「そんな言いがかりはやめて」
さすがに那智もいらだち、本を乱暴に閉じて、部屋から出て行こうとした。智はその腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「やめてよっ」
「俺の話を聞いてくれ。いずれお前ともそう会えなくなるだろ。最後くらい、腹を割って話そうじゃないか」
那智は俯いたまま、抵抗を止め、その場に立ち尽くした。
「俺は、綺羅々が好きなんだ」
その言葉を聞いて、那智は心底不快そうに智を見つめた。
「ふふふ……お兄様まであの子に入れ込んでいるなんてね。おかしいと思ってたのよ。かいがいしく世話をしていたりして。やっぱりそうだったのね。あの子は、本当に男たらしの血が流れているんだわ」
「どういうことだ」
「昔、お父様に割烹料理屋に連れて行ってもらったこと、覚えてない?」
智は必死に記憶をたぐり寄せたが、あまりはっきりとしたことは思い出せなかった。
「あまりよく覚えてないな」
「そうね、お兄様は忙しい人だから。あそこの割烹料理屋の女将と、お父様の間に出来た娘が綺羅々なのよ」
「確証はあるのか?」
「慎と綺羅々に確認したから。お父様があの女将を見る目は、お母様に向ける視線とは全然違った。あの女は男たらしなのよ。だから綺羅々にも男たらしの血が流れてる」
那智は唇の皮膚が切れそうなほど唇を噛んだ。
「私は、慎に告白したわ。でも、駄目だった。慎は、綺羅々が好きなのよ。それに、お兄様まで好きだなんて」
那智の瞳には涙が浮かんでいた。負けず嫌いの彼女は泣くのを必死に堪えて上を向いた。
「お母様はお父様の財産にしか興味が無いし、お父様は何を考えているかよく分からない上に、愛人の子を連れてきて大切に扱う。お兄様だって、結局は綺羅々の味方。慎だって私に振り向いてくれない。私はね、政略結婚のための道具でしか無いのよ」
「那智……」
智は那智に何て声をかけるべきかためらった。彼女は愛に飢えていたのだ。昔は素直で活発で負けず嫌いだった那智は、慎が来て、そして、綺羅々が来て、段々と変わっていってしまった。――何て不幸なことだろう。
「どうしても綺羅々が許せなかった。憎くて堪らなくて、それで、あの子の瞼に傷をつけてやったのよ」
智は絶句した。あの眼帯の下の傷は、那智がつけたと言うことは知らなかったのだ。箝口令でも敷かれていたのだろうか。
「……そう、だったのか」
「軽蔑するでしょ?大切な想い人を傷つけた妹に」
「……」
「でもね、もうそれも全て過去のこと。私はもう、ここを離れることが決まったの。御曹司とせいぜいよろしくやって、跡継ぎを残せるように頑張るわ」
あまりにも投げやりに言う那智がいたたまれなくなり、智は立ち上がって、那智を抱き寄せた。
「なっ、何よ!やめて!」
「愛情は別に異性だけの間のものじゃないだろ。兄弟の愛情だってあるじゃないか。それだけは覚えて置いてくれ。俺だって叶いそうに無い恋をしているし、恋が叶わなかったとしても、綺羅々は俺の妹だ。俺は綺羅々に妹として好きだって言ってるが、そんなのはとんだ嘘だ。妹として考えたら、那智、お前の方がずっと付き合いだって長いし、那智の方が好きだ」
「…っ…」
「それに俺だって、いずれ当主として、妻を迎え入れなきゃならないんだ。その相手を好きになれるかなんて分からない。最初から、俺たちに選択肢なんて無いんだよ」
那智は堪えきれず、智の腕の中で涙を流した。そんな那智の背中を、智は優しく撫でてやった。
「お前に何かあったら、俺はお前のところへ行くよ。兄として。それだけは忘れないでくれ。お前はお前の幸せを掴めるように頑張れよ」
那智は無言のまま、小さく頷いた。
ドビュッシーの夢想は、いつの間にか終わって、談話室は静かな気配に包まれていた。那智の涙が止まるまで、智と那智はそのままそこに立っていた。




