慎と智
庭で慎が花の手入れをしている。相変わらず、あの執事の格好で、上にコートを羽織り、手だけ農芸用の手袋にはめている。
綺羅々は慎にベッドで休むように言われたが、眠る気分にはなれなかった。眠ると、何か深い闇が自分を襲ってきそうで怖かった。得体の知れない、「本当の自分ではないのではないか」という感覚。きっと、熱が治れば、そんな不安からは解放される。そう思いながら、どうしても綺羅々は横になることが出来ずに、朝食を食べたテーブルの椅子に腰掛けて、庭にいる慎の姿を見つめていた。
初冬を迎えようとしているのか、家の塀の向こうにうっすらと見える高い木々の木の葉が少しずつ散っているのが分かる。そのいくつかが結城家にも紛れ込んできて、慎はその掃除を終えたらしく、ゴミ袋の中に枯れ葉が半分ほど溜まっていた。
慎は土の中に植えられた可愛らしい花々の水やりと、状態観察をしている。慎は何でも出来る器用な執事だ。慎の生い立ちについては、父から聞かされたことがあるが、慎本人からは直接聞いたことは無い。そして綺羅々も、慎に自分の生い立ちについて話したことは無い。たまに慎が影のある表情を見せると、慎も綺羅々も複雑な事情を抱えた人間である、という感覚が心の中に入り込んできて、綺羅々は形容しがたい、何とも言えない気持ちになるのだった。
ピンポーン……。
不意に、屋敷にインターフォンの音が響き渡った。慎が顔を上げ、偶然、窓辺にいる綺羅々と目が合った。そして、その場にいてください、と両手を下に向ける仕草をして、自ら門の方へと歩いて行った。
私に会いに来る人なんて、一人しかいない。
……智だ。
少し遠くから男の話し声が聞こえる。きっと智に違いない。車が入ってくる音がして、やがてその音は消えた。
結城智。結城家の長男で、今年三十歳になる。譲治からは早く結婚して跡継ぎを、と迫られているらしいが、本人は一向に結婚する気配を見せない。慎と違ってどこか飄々としており、何を考えているかが読めない男だ。しかし、紘子や那智と違って、綺羅々にはなぜか優しかった。譲治がいないとき、綺羅々をかばってくれるのは智だった。そして綺羅々が別邸に移ることになったとき、真っ先に反対したのが智であり、結局別邸に移ることになったときも、自分がたまに様子を見に行くと買って出た。なぜ、智が自分にここまで優しくするのか、綺羅々にはよく分からなかった。愛人の娘という境遇を哀れに思ったのか、それとも何か別の考えがあるのか―それすら分からない位、智は捉えどころの無い男だった。
一方の慎も、インターフォンが鳴った瞬間から、智が来たと感じ取った。あの車のエンジン音、そして、自分たちが住む屋敷に訪れる人間など、智くらいしかいないからだ。
慎は農芸用の手袋を外し、執事の手袋をはめ直した。そして、コートについた土を落として脱ぎ、丁寧にたたんで片腕に掛けた。車用のシャッターの横に、来客用の小さな扉がある。慎はその扉を開け、外の様子を確認した。
やはり、慎だった。
赤色のフェアレディZの車の運転席の窓が開き、智が手を挙げた。智はサングラスを掛けており、その表情をうかがい知ることは出来ない。
「慎くん、突然来てしまって申し訳ない。大丈夫かな」
慎の心の中は艶やかな赤色のボディとは正反対に、たちまち黒色に染まっていった。しかし、それを智には決して悟られてはいけない。
「いえ、問題ありません。ただ、綺羅々様は熱を出しておられまして、体調があまり優れません」
「そうか、心配だな。顔を見て、帰るだけにするよ。お土産もいくつか持ってきた」
智は声色一つ変えずに言った。サングラスのせいで表情もよく分からない。ただ、慎が車用のシャッターを開けると、智はまた軽く手を挙げて、すっと別邸に入ってきた。
そのまま駐車場へと車を止め、中から智が姿を現した。
智の身長は慎と殆ど差が無い。栗色の髪の毛は、母親である紘子譲りの髪の色だ。慎とは異なり、所々にパーマを掛けて外側に髪の毛が跳ねている。額は広めに空け、前髪も他の髪となじませている。眉は太く、くっきりとした二重で、全体的に彫りも深い。唇は全体的に厚めだ。彫りが深いのは、紘子がスペイン人のクォーターであることも影響しており、雰囲気は少し西洋的でもある。
智はサングラスを外し、慎に向かって微笑んだ。手には細長い紙袋と、普通の紙袋の二種類が握られている。どちらも高級そうな紙袋だ。
「庭まで本当に綺麗に手入れされているね。慎くんの仕事ぶりは完璧だ」
慎が智を家の中に案内する途中、庭をちらりと見て智が呟いた。
「ありがとうございます。大切な妹様をお預かりしておりますので、綺羅々様が気持ち良く過ごせるようにするのが私の務めです」
慎は外向きの態度で淡々と言葉を返した。智はふっと口許を緩め、慎の後ろ姿を眺めた。慎は家の扉を開け、智に「どうぞ」と言って中へ入るように促した。智が軽く会釈をし、中に入ると、右手には靴箱、左手には生け花や置物が飾られている。沢山来客があっても良いように、玄関は広めに設計されている。智には見慣れた光景だ。
智が家の中に入ったことを確認すると、慎は手早く智専用のスリッパを靴箱の上の戸棚から出し、玄関から一段上がったところに置いた。智は靴を脱ぎ、そのスリッパを履く。慎は智の靴を「失礼致します」と言って、靴箱の中へと収納した。慎は外用の革靴から室内用の革靴に履き替え、コートを脱いで家へと上がった。
「君だけ家の中でも靴なんて、うちの親父も変なところ物好きと言うか。設計も洋館なら靴のままで良いのに、こういうところ日本人だよな」
慎の姿を見て、智は苦笑した。譲治は執事の格好にこだわりがあるのか、家の中でも靴を履かせる。しかし、他の人間は室内履きなのだ。
「日本の心も大切にされている方ですから、譲治様は」
慎の言うとおり、洋風作りのこの屋敷にも、和室がある。屋敷は二階建てで、玄関のすぐ前が階段になっており、二階に繋がっている。基本的に廊下の絨毯は落ち着いた赤色で統一されている。庭側にそって部屋が振り分けられており、一階の左側には厨房と大きな客間、そして客間の向かいにお手洗いがある。右側の奥から綺羅々の部屋、使われていない部屋を挟んで慎の部屋があり、慎の部屋の向かい側が浴室に繋がっている。階段脇の奥の部屋は物置、二階は主に譲治や家族の部屋、そして和室があるが、和室以外は鍵がかかっており、二階は殆ど使用されていない。二階については和室と廊下は毎日掃除するものの、個人の部屋に勝手に入ることは許されておらず、結城家がそろうときだけ鍵を預かり、中を掃除することになっている。
慎は智のコートを預かり、そのまま智をつれて綺羅々の部屋の前まで歩いて行き、扉をノックした。
「はい」
綺羅々が小さく返事すると、慎は扉を開け、智を中に通した。
「……お兄様」
綺羅々は突然の来客に嬉しさよりも困惑したような表情を浮かべた。しかし、智はそんな綺羅々の様子を気に留める様子も無く、綺羅々が座っている窓辺のテーブルの向かいの席に腰掛けた。
「綺羅々、風邪引いたんだって?」
「そうみたいです。なんだか身体が熱っぽくて」
「そうか」
そう言うと、智は綺羅々の額に自分の手のひらを当てた。慎はその様子を見て、また黒い感情が心の中を支配していくのを感じた。智は綺羅々の兄、何のためらいも無く綺羅々に触ることの出来る男、その事実が慎を苛立たせる。智のコートをコート掛けに掛け、早くなる鼓動を落ち着かせようと誰にも聞こえない大きさで小さくため息をついた。
「ただいま、お飲み物をお持ち致します」
そのまま慎は気持ちを落ち着かせるために、自ら部屋を出て行き、自分のコートを自室に戻すと、そのまま厨房へと向かった。
『俺は、綺羅々が好きだ。血の繋がった妹だろうが、関係ない』
いつか、智は慎にこう言ったことがある。智は、慎が綺羅々に好意を持っていることを知っていて、わざと宣言したのだ、慎はそう思った。だからこうして綺羅々の様子を見に来るし、自分に綺羅々と触れ合うところを見せつけてくる。それが例え些細な触れ合いであったとしても、智からすれば「兄妹だから」で片付けられるものだ。自分と違って、綺羅々の「お願い」がなくても触れ合うことができる。
だから慎は智が来ると、落ち着かない。早く帰って欲しい、そう思いながら、「執事」でいることに徹するのだった。