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そして、別邸へ

 智は、綺羅々が別邸へ行く前日の昼、スーツケースと共に結城家に帰ってきた。当初はストが終わるのを待って帰国する予定だったが、慎が執事と発表されたことを譲治から聞いて、帰国するのを延長し、ギリギリになって帰ってきたのだった。


 智が譲治への挨拶を済ませ、綺羅々への土産を携えて彼女の部屋に向かったとき、綺羅々の部屋の扉は既に開け放たれていた。中を覗くと、綺羅々の部屋は殆ど片付いており、段ボールが数箱積み重なって部屋の隅に置かれていた。綺羅々はと言うと、窓辺の椅子に座って、空を見上げていた。


「綺羅々」

 智が扉のところから声を掛けると、綺羅々は声のする方へ振り向いた。太陽の光が綺羅々の髪に当たり、艶やかな髪が一層輝いて見えた。しかし、右の目には、眼帯が掛けられていたので、智は驚いた。美しい姿とは対照的に、所々包帯が巻かれ、右目に眼帯をした綺羅々は、あの「影」を纏った雰囲気を醸し出している。

「お兄様……帰られたのですね」

 綺羅々は立ち上がり、智に向かって軽くお辞儀をした。

「その眼帯、一体、どうしたんだ」

「……たいしたことはありません。転んで、怪我をしてしまって」

 転んで怪我をしただけで眼帯をするのだろうか、智は綺羅々に色々と聞きたかったが、背後に視線を感じたので、智はそれ以上、何も聞かなかった。


「智様、お帰りなさいませ」


 視線の主は、慎だった。この声を聞くと、智の心はどうしようもなく苦しくなる。明日から、慎と綺羅々は二人で別邸へ移り、生活を始めるのだ。自分の手の届かないところで。


「ああ、帰ったよ。ただいま」

 智は柔らかな笑みを顔に貼り付けて、慎の方に振り返った。慎は深々とお辞儀をし、そして部屋の中へと入ってきた。

「帰国が遅かったので、心配致しておりました」

「ああ、フランスで飛行機ストがあってね。でも待っているうちに、急にもう少し滞在を延ばしたくなったんだ」

「さようでございますか。無事に帰られて、何よりです」

 表面上は他愛のない世間話でも、当人同士は外向きのよそよそしい声で空虚な会話をしているのが分かっている。二人は、決して相容れない同士ということも。

「綺羅々、綺羅々の誕生日祝いもかねてお土産を買ってきたんだ。喜んでくれると、いいが」

 そう言って、智は綺羅々に赤色の高級そうな手提げ袋を差し出した。

「これは……?」

「とりあえず、開けてみてくれ」


 綺羅々は智から手提げ袋を受け取り、窓際の机に置くと、中から箱を取りだして、蓋を開けてみた。それは、貴族の格好をしている二人の男女が台に乗った、小さなアンティークオルゴールだった。

「オルゴール、ですね。回してみてもいいですか」

「もちろん」

 綺羅々は、ネジを回してオルゴールを見つめた。すると、リストの「愛の夢」と共に、二人の男女が台の上でくるくると踊り始めた。音楽が流れる間、その場に居た三人はその音色に聞き入った。綺羅々は、その二人を見て、自分と慎を重ね合わせた。それは、慎も同じだった。ただ、智だけは、自分と綺羅々を重ね合わせていた。


 音楽が鳴り終わると、綺羅々は大事そうにそのオルゴールを持ち上げ、智を見つめた。片目しか見えなくても、それはとても澄んだ眼差しだった。

「お兄様、ありがとうございます。ずっと、大切にします」

 智はその澄んだ眼差しを見ると、殆ど「ただの部屋」になってしまったこの部屋が、無性に寂しくなった。綺羅々を抱き締めて引き留めたくなる程だったが、智が居たので、それは叶わなかった。


 *


 綺羅々が別邸へと移る前の最後の夜、結城家はようやく一堂に会し、いつもより豪華な食事が振る舞われる夕食会が開かれた。紘子、那智、智、綺羅々、それぞれ静かに、そして思い思いに食事を食べた。皆がデザートまで食べ終わると、譲治が口を開いた。


「明日、綺羅々は結城家の屋敷から離れ、別邸に移ることになる。それぞれ、思うことがあるだろう」

 譲治を含めた四人は一様に複雑な表情を浮かべた。後悔、憎悪、嫉妬、愛情、一言では言い表せない、感情が渦を巻いている。

「ただ、私は一言、謝りたい」

 譲治は少しの間、目を伏せ、そして一言、

「……すまなかった」

 そう言って、頭を下げた。その「すまない」には、あらゆる意味が込められていた。紘子を心から愛せずに愛人を作ったこと、薫を愛するが故に、子どもをおろさずに薫に育てさせたこと、愛人の子どもを結城家に迎え入れたこと、家族をないがしろにしたこと、慎に面倒をおしつけたこと、綺羅々の心身に傷を負わせたこと――。全ては、「今更」だった。しかし、結城家の当主として皆の前で頭を下げたことは、深い意味を持っていた。


 皆は黙って、譲治の姿を見つめた。紘子も、那智も、智も、綺羅々も、慎も心に抱える感情を打ち消せないまま、それでも譲治の姿を眺めた。これが今まで起こった出来事に愛して、何の解決になる訳でもない。それでも、綺羅々は明日から居なくなり、結城家には表面上の平和が訪れる。


 そのまま食事会は終わり、解散となった。慎を含めた執事達が食器を片付けようとテーブルに歩み寄ると、智が慎に近づいてきた。

「慎、後で、バルコニーに来てくれるか。少しだけ、話したいことがある」

 耳元で智が囁くと、慎は首筋の裏にぞくりと冷たい空気を感じた。

「……かしこまりました」

 智はそのまま去って行き、慎と執事達は食器を手早く片付け、それぞれの持ち場へと戻って行った。智はすぐに綺羅々の部屋に向かわずに、智に呼ばれたバルコニーへと向かった。


 *


 バルコニーと言えば、那智に告白された場所でもある。開放的な場所の方が、自分の想いを吐露しやすいのだろうか。慎がバルコニーに着くと、既に智がバルコニーの柵に背を持たれて、屋敷の屋根を見上げていた。


「来たか、慎」

 慎が来ると、智は軽く手を挙げた。その顔は、綺羅々にオルゴールを渡しに来たときよりも些か清々しい表情をしているように見えた。

「お話とは、一体?」

「さっき、父さんに話をつけてきたんだ。俺は、たまに慎達の様子を見に、別邸に行くことにしたよ」

「……私の執事としての腕は、そんなに信用されていないのでしょうか」

 慎は目を細めて智を見た。

「いや、違う。ただ、綺羅々のことが気になるだけだ」

 智は首を左右に振り、そしてバルコニーに預けていた背を離して、真っ直ぐに立った。生暖かい風が流れ、智と慎の髪を揺らした。

「旅行に行って、自分の気持ちと向き合ってみた。素直に、一人の人間として。そしたら、あることに、俺はやっと気がついたんだ」


 智は強い眼差しで、慎の瞳を捉えた。そして、力強く、

「俺は、綺羅々が好きだ。血の繋がった妹だろうが、関係ない」

 と言った。慎はその目力に圧倒されたが、あくまで冷静な声色で言葉を返した。

「言う相手を、間違えていらっしゃいませんか」

「……いや、間違ってない。俺は、慎、お前に言いたい」

「何故、私に」

 慎がはっきりと自分に言い返さないことを、智は腹立たしく思った。慎が綺羅々を「ただの愛人の娘」として見ていないことは明白な事実で、自分と綺羅々が接しているときに向ける眼差しが特別な意味を含んでいることを、慎自身が気付いていない訳がなかった。

「それは、お前が一番よく分かってるだろう」

「……」

「とにかく、たまに綺羅々の様子を見に行くよ。できるだけ事前に連絡するようにはするが、ふらっと立ち寄るかもしれない。綺羅々にも伝えておいてくれ」

 智は自分が言いたいことを言い終わると、バルコニーの出入り口の方へ向かって歩き出した。そして、慎とすれ違うとき、慎の肩をそっと叩いた。

 慎は、智が出て行くまで、無意識に真一文字に結んでいた。


『俺は、綺羅々が好きだ。血の繋がった妹だろうが、関係ない』


 改めて言われると、もう智を意識せずには居られなかった。これからも、綺羅々には智の気配がつきまとうだろう。慎は心を落ち着かせるために大きく深呼吸をして、そして何とか「執事の顔」に戻った。綺羅々の部屋に行って、寝る前の準備や、包帯を取り替えなければならない。綺羅々と接しているときだけが、慎は慎で居られるのだった。


 *


 翌日、小さなトラックと、黒塗りの車が玄関に横付けされ、綺羅々の荷物が執事達によって着々と運ばれて行った。見送りに紘子と那智はこなかったが、那智は二階の部屋の窓から荷物が運ばれて行く様子を眺めていた。

(さようなら、慎)

 声にならない声で、那智は外で荷積みを手伝う慎の姿を見つめた。


 智だけは綺羅々を玄関まで見送りに来た。

「綺羅々、慎から聞いていると思うが、たまに、様子を見に行くから。元気でな」

 あくまで兄として、綺羅々の頭をぽんと叩いて、笑みを繕った。綺羅々は、智がそこまでしてくれる理由が分からなかったが、それでも兄として自分を最後まで可愛がってくれることは、すさんでいた綺羅々の生活の中では、ありがたいことだった。

「ありがとうございます。どうか、お兄様も、お元気で」

 綺羅々は深々と頭を下げ、黒塗りの後部座席に車に乗り込んだ。既に後部座席には譲治が乗り込んでいる。慎は運転席に座り、そして綺羅々が乗り込んだことを確認すると、別邸に向かって小さなトラックと共に出発した。


 その姿を、慎も、二階に居る那智も、ずっと見えなくなるまで見つめていた。

 こうして、綺羅々は結城家から別邸へと、十八歳にしてやっと移り住むことになったのであった。


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