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最後の事件

 今度は、譲治が帰国するのと入れ替わりに、智が旅行に出ると言って唐突に出かけてしまった。智は旅行に出る前、綺羅々に、いつか渡したケーキをプレゼントしにやって来た。

「お兄様……旅に、出られると聞きました」

「父さんが居ない間に色々やらされていたから、少し遠くで羽を伸ばそうと思ってね。これ、覚えてるか。俺が帰ってきた時に、綺羅々が喜んで食べてくれたケーキだ」

 そう言って笑った智の瞳は少し寂しげだった。

「はい、お兄様の優しさが、嬉しかったです。ありがとうございます」

 綺羅々はケーキが入った箱を受け取り、頭を下げた。あの時見せた笑顔を見せるほど、綺羅々はもう幼くなかった。ただ静かに微笑んで、智に礼を述べた。

「綺羅々が別邸に行く前には帰ってくるよ。色々とまた、手伝わせてくれ」

「ありがとうございます。私なんかのために」

「……そんな風に、言わないでくれよ」


 そして、智は結城家からしばらく姿を消したのだった。


 *


 那智は、綺羅々が別邸に移ると聞いて、心底嫉妬していた。


 自分は、結城家の人間として、結婚し、何もしなくても誰もがうらやむ生活を手に入れることができる。しかしそれは、自分の自由と引き換えでもある。結城家というブランドを背負い、もしかすると愛することができないかもしれない夫になる男と一生を添い遂げる。

 自分の意志はそこには反映されない。


 綺羅々は、確かに今まで不自由な生活を送ってきた。自分達のせいで精神病院にまで入った。しかし、それは当然だと思った。それなのに、自分の想い人と信頼関係を築き上げ、何故か智まで味方につけた上で、譲治に十八歳になればここを離れてある程度の自由を謳歌することを保障された。それは那智には決して手に入らないものだった。あの娘はずるい――。


 那智が見合いをする日も近づいていた。おそらく、その見合いを経て、よほどのことが無ければ正式に結婚することが決まるだろう。色々な段取りを経て、数年内には籍と挙式を入れるに違いない。その前に那智は、どうしても、慎に、自分の想いを告げたかった。今まで自分が抱いていた気持ちを吐き出して、そして、綺羅々と一緒に行かないで、自分が結城家を離れてしまうまで傍に居て欲しい、と。


 そして、那智は、ある日の夕食後、慎を二階のバルコニーに呼び出した。


「那智様、いかがなさいましたか」

 那智が夜風に当たっていると、後ろから慎の声がした。「結城家の執事」らしい、物腰の柔らかい、でも自分の感情を決して表に出さない外向きの声だった。

「……私ね、お見合いが決まったの」

 バルコニーの柵に掴まったまま、那智が夜空を見上げていった。風がふわりと吹く度に、那智のワンピースの裾がふわりと揺れた。

「本当ですか、それは誠におめでとうございます」

 慎は那智が見ていないところでも深々とお辞儀をして、那智に声を掛けた時よりも明るい声を出して祝福の言葉を掛けた。でも、那智にはその「執事らしさ」が気に入らなかった。

「私、本当はお見合いなんてしたくないと思ってる」

「……何故、でしょうか」

「好きな人が居るの」

 那智の言葉を聞いて、慎は聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように、急に黙り込み、視線を揺らした。なんと言葉を返すのが適切なのかを探っているようだった。

「その好きな人はね、ずっと傍に居るのに、遠くて、全然心を開いてくれなかった。おまけに、私が大嫌いな子をとても大切にして、傍目から見たら、恋人みたいに寄り添ってるの」


 慎は、那智の告白を聞いて、綺羅々がある晩に言っていたことを思い出した。


『最近、お姉様は慎のことを良く見てるから』


 ――まさか。


 綺羅々は、次の日、腕に沢山の傷をつけていた。自傷癖はすっかり収まっていたはずなのに、突然の発作を起こして慎は動揺したが、理由を聞いても、決して答えてはくれなかった。ただ、ある執事が談話室の前を通った時、那智が綺羅々に何か怒っているのを見かけたと言う。それと何か理由があるのではないか……。


 しかし、那智は告白をしてから、黙り込んでしまった。満天の星空の下、気まずい沈黙が、二人の間に流れた。


「私が、何を言いたいか、分かっているでしょう、慎」

 低い声で那智が言うと、ゆっくりと、慎の方に振り返った。慎と那智の目が合い、そして那智は、しっかりと慎の目を見つめた。

「……」


「私、あなたのことが、ずっと……ずっと、好きだった」


 那智は瞳に薄い涙の膜をたたえて、慎の方まで歩いてきた。無意識に慎が後ずさりすると、那智は思い切り慎の身体に自分の体重を預けて抱き付いてきた。そして、那智は慎のシャツに顔を押しつけ、そして背中を掻き抱いた。慎を驚いて目を見開き、息を飲んだ。那智が抱き付いてきた反動で持ち上がった腕は、那智の身体を抱き締めず、宙に浮いたまま、行き場を失った。


「ねえ、お願い。綺羅々じゃ無くて、私の執事になって。ずっと、言いたくても言えなかった。もう、これ以上あなた達を見ているのは辛いの。……お願い」


 那智は、慎の身体の温もりを初めて感じて、気がつけば涙を流していた。鼻をかすめる慎の匂いも、那智の慎への気持ちを堪らなく増幅させた。最初から、断れられること位、分かっている。でも、自分だけずっとこうして気持ちを抑えているなんて、もうできなかった。


 慎は苦しそうに顔をゆがめ、僅かの間目を閉じた。そして、那智の肩をそっと抱くと、自分の身体から離し、一歩間を取った。

「――すみません、那智様」

 そしていつもより深くお辞儀をし、そのまま顔を上げなかった。那智は、涙を見られないように袖で瞼を拭い、咳払いをして俯いた。

「そう」

「私がお仕えする人は、一人と、決めています」

「……綺羅々でしょ」

 慎は何も言わなかった。ただ、過去の事実から考えれば綺羅々しか考えられなかった。

「どうしてあの子なの?」

 慎はゆっくりと上体を起こし、そして、拳を軽く握りしめた。

「綺羅々様を守れるのは、私しか居ないからです」

「私達がいじめてきたからよね、散々」

 那智はふふ、と自嘲気味に笑い、そして眼差しを明かりがついている綺羅々の部屋の方へと向けた。

「一つ気になっていることがあるんだけれど」

「なんでしょうか」

「……あの子の母親って、四方田薫、じゃないの?」

 慎は思わず目を大きく見開いた。何故、誰も知らないはずのことを、那智が知っているのだろうか。

「あの子が成長してから、誰かに似てるなって思ったの。誰に似てるか、考えてみたら、昔、一度だけ『よもだ』っていうお父様に割烹料理屋に連れて行ってもらったことがあったことを思い出したわ。お母様もお兄様も気付いてないみたいだけど、私は良く覚えてる。あの女の顔を。美人だった。とても。それにお父様は、薫さんって呼んでいたわ」

 慎は動揺した。この事実を、譲治に言うべきかどうか迷った。

「誰か言ったところで、別にどうにもなる訳じゃない。私は結城家の人間であることを誇りに思っているし、お父様を貶めたい訳でもないから」

 そう言うと、那智は、いつもの気位が高そうな顔つきに戻って、慎の横を通り過ぎていった。

「那智様」

 慎は、バルコニーを出て行こうとする那智に声を掛けたが、那智はそのままバルコニーから去って部屋へと戻っていってしまった。


 それから綺羅々が別邸へ行くまでの最後の一年半は、驚くほど静かに毎日が過ぎていった。紘子は綺羅々が家を出て行くと知ってから綺羅々に無関心になり、那智も慎に想いを告白してから見合いを済ませ、結婚に向けて準備することになった。譲治は数ある結城家の中から別邸を選び、綺羅々をつれてその別邸を何軒か見に行った。


 このまま、綺羅々は無事に結城家を離れることができるはずだった。

 しかし、最後の事件は、綺羅々を別邸に連れて行く執事が発表された日に起こった。



 綺羅々が別邸を離れる一週間前、夕食後の場で譲治は「綺羅々に同行する執事を結城慎にする」と告げた。智も同席するはずだったが、フランスで飛行機のストがあり、帰国が遅れていた。そのため、発表は、智を覗いた結城家と、執事達の前で発表された。


 慎は折に触れて譲治に綺羅々に同行したいと告げていたし、日常生活や今までの経緯を見ても、慎にすることがごく自然なことだった。それについてはその場では誰も異議を唱えなかった。


「綺羅々、夕食後、ちょっといいかしら」

 綺羅々が部屋へ戻ろうとした時、那智が後ろから声を掛けてきた。今までに聞いたことが無い、驚くほど優しい声だったので、綺羅々は反射的に振り返ったものの、すぐに身体が強ばった。

「あ……はい、」

「お母様が、生け花をやっている部屋があるでしょう。あそこに、今夜の九時に、一人で来てくれるかしら。プレゼントしたいものがあるの」

 那智はにっこりと微笑み、綺羅々の手を握った。那智の手は、背筋が凍るほど冷たかった。

「わ、分かりました」

 綺羅々は俯き、小さく返事をした。あの日以来、綺羅々は那智が一層苦手になってしまった。できるだけ付き合いを避けてきたが、それでも呼ばれれば行くしか無い。

 部屋へ戻ると、大きくため息を吐き、残り一時間の間、綺羅々はそわそわして部屋をうろうろと宛ても無く動き回った。


「失礼します、那智様」


 不意に扉を叩く音がし、慎が入ってきた。綺羅々が時計を見ると、きっかり八時半になっていた。そうだ、もう、シャワーに入って、包帯を取り替えてもらう時間だった。綺羅々はどうするべきか迷って、その場で腕を抱え込んだ。そんな様子を見て不審に思ったのか、慎は怪訝そうに、

「どうかなさいましたか?」と綺羅々に近づいてきた。

「その……九時に、お姉様に呼ばれて」

 慎は心の中にざわざわと波が立つのを覚えた。

「どこに呼ばれたのですか?」

「プレゼントがあるから、お母様が生け花をする部屋に一人で来て欲しいって」

 紘子の趣味は生け花で、生け花専用の部屋が設けられている。常に鮮度の良い花が保管され、生け花をするための道具もそろっており、生け花をする環境には最高だった。

 慎は、那智が綺羅々に素直に何かをプレゼントするとは思えなかった。しかし、下手に引き留めると綺羅々や那智に不審がられると思い、その場では綺羅々を止めることはしなかった。

「……そう、ですか。では、今日包帯を取り替えるのは、それが終わってからにしましょう」

 ようやく時間になって綺羅々が部屋を出て行くと、慎は、何回か深呼吸をして心を落ち着かせた。そして、様子を見に行くために、時間を置いてそっと二人が邂逅しているであろう場所へと、足音を忍ばせて向かった。


 *


「綺羅々、来てくれたのね」

 綺羅々が時間通りに生け花をする部屋へと向かうと、すでに那智は部屋の真ん中にある大きな机の前に立っていた。机には、那智が生けたと思われる生け花の鉢が置かれていたが、生け花は真っ白いバラが乱雑に挿してあり、周りには統一感の無い花が無造作に挿された、あまり美しいとは言えない生け花だった。その異様な光景に、綺羅々はたじろいだ。

「こっちへ来て」

 那智が手招きすると、綺羅々は恐る恐る那智の元へと近づいていった。那智の手には、花鋏が握られている。

「この白いバラはね、包帯だらけの綺羅々をモチーフにしたの」

 綺羅々の脚には傷を隠すために包帯がまだ巻かれている。腕にも、自傷した跡を隠すかのように所々包帯が巻かれている。

「でも、何か、足りないの。分かる?」

「お姉様……」

 綺羅々は、生け花を見つめる那智の常軌を逸脱した眼差しが怖かった。

「血、血が足りないの」

 そう言うと、那智は綺羅々に花鋏を差し出した。

「その色目を使うような瞳があの女にそっくりなのよね」

「色目……?あの女……?」

 綺羅々は、那智が何を言っているのか分からなかった。


「四方田薫。あなたの母親。あなたの母親も、無意識に人に媚びるような眼差しをしてた。一回した見たことが無いけれど、成長したあなたの顔を見ると、段々幼い頃の記憶が鮮明になってきて、夢の中に出てくるのよ。お父様のあの眼差しと一緒に」

「どうして、私のお母さんのことを知って……」

「そんなことは、今、重要な話じゃ無いわ。ただ、あなたは、母親と一緒で男に媚びる才能があるみたいね。慎も、智も、あなたに夢中みたいじゃない。それが気に入らない。母親の代から受け継がれてきた汚れた血と、その瞳が」

 そう言うと、花鋏を綺羅々に押しつけた。

「このバラに、色が欲しいの。あなたの瞳から出た血で、このバラに色をつけてくれる?」

 那智は口許をゆがめて、白いバラを一本手に取り、そして綺羅々に見せつけた。

「それは……、できません……」

 綺羅々は震えた手で花鋏を持った。逃げようと思っても、身体全体が恐怖で震えて動かなくなってしまった。すると那智は声を荒げて、綺羅々を恫喝し始めた。


「どうして!?あなたは、自分の身体を傷付けるのが得意でしょ!なのに、どうして私の前じゃできないのよ!あなたは男の前じゃなきゃ、自分の身体を傷付けられないの!?」

 綺羅々の脳裏に、昔のトラウマが蘇る。その間も、那智は延々と綺羅々を罵倒し、自傷を迫った。

「さあ、さあッ、やりなさいよ、綺羅々……!見せてよ、私に、あなたの血を!」

 綺羅々は、震える手で、花鋏の先端を自分の右目に向けた。もう、耐えられない。もう、やるしか……――。

 綺羅々は、手を引いて、そして自分の右目に向かって花鋏を押し込んだ。

 その時だった。


「駄目です、綺羅々様!」

 後ろから、慎の声がした。綺羅々はその声に驚いて、花鋏を刺す位置がずれてしまい、右瞼の上に大きな傷がついた。切り傷からは、ポタポタと鮮血が滴り、綺羅々の頬を伝い落ちた。

 綺羅々はその場にへたり込み、呆然と那智を見上げた。慎は綺羅々の方に駆けつけ、そして花鋏を取り上げ、那智をにらみつけた。

「なんてことをするのですか!那智様!」

 慎の声は怒りで震えている。今まで見たことの無い程怒りに満ちた眼差しで、那智を見つめると、那智は歯ぎしりをして拳を握りしめた。

「……どうしても、綺羅々に、仕返しがしたかった。ただ、それだけよ」

 そう言うと、その場に立ち尽くして、黙ってしまった。慎は急いで綺羅々を抱き上げて医務室に連れて行き、応急処置を受けた。

 このことはすぐに譲治に報告されたが、綺羅々が那智に対して何もしないで欲しいと言ったことや、見合いが控えていることもあり、那智への具体的な罰などは何も行われなかった。その代わり、綺羅々は眼帯での生活を余儀なくされた。


 結局、最後の一週間、綺羅々と那智は顔を合わせることは無かった。眼帯の理由も、那智、綺羅々、慎、譲治以外は誰も知らされず、また綺羅々の自傷癖のせいだということになった。


 そして、綺羅々が別邸へ行く前日、智がようやく帰国した。


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