譲治の決意
譲治は、旅行に出かけてから六ヶ月後に帰ってきた。空港まで執事に迎えに来てもらい、夕方頃、ひっそりと結城家に着いた。どこへ行ってきたかについては誰にも言わなかったし、誰も聞く事が出来なかった。ただ、いつもより思い詰めた表情をしていた。そして、帰国後の夜、久しぶりに結城家一同で食事をした時、綺羅々の包帯が腕にまで増えているのを見ると、痛ましそうに目を細めた。
食事の時、結城家に会話は無い。譲治は寡黙で元々多くを語らない人間であったし、綺羅々の存在がある事で、紘子も那智も積極的に口を開きたがらなかった。そんな空気感の中では、智も静かに食事を取っている。
一通りの食事を終え、それぞれが部屋に帰っていこうと立ち上がると、譲治が大きく咳払いをした。
「少し、待ってくれ」
譲治が皆の前で何かを言う事は滅多に無いが、ある時は重要な事が多い。部屋が一気に緊張感に包まれ、紘子、那智、智、綺羅々、そして後ろに控える慎を含める執事達は譲治の方に注目した。
「……旅行でしばらく家を空けていてすまない。今日は、皆に伝えたい事がある」
すると、譲治は綺羅々の方を見て、一度深呼吸をし、
「綺羅々を、別邸に住まわせる事に決めた」と続けた。
その場に居た皆の目が、一斉に見開かれた。殆どの者は驚きの感情からだったが、那智と智には動揺の感情も含まれていた。綺羅々も、突然、別邸に住む事を許可されて、戸惑った。しかし、譲治の瞳は、まっすぐと綺羅々を見据えていた。
「ど……どうして、急にそんな決断を」
智は平静を装っていたが、言葉が微かに震えていた。那智も、
「今更、なんでそんな事をおっしゃるのですか?」
と戸惑いを隠せない様子で譲治を見つめた。
「家を空けて、色々と考えを整理した。もうすぐ綺羅々は十八歳になる。もう私の手を離れても良いという結論に至った。今後の結城家のためにも、十八歳になったら綺羅々には別邸で暮らしてもらう」
その言葉に紘子は、腹立たしそうに腕を組んで、
「最初から愛人の子どもなんて引き取らなければ良かったのに。本当に、今更ですわ。それに、わざわざ別邸に住まわせなくても、一人で自立してもらえば良いんじゃないのかしら」
とため息を吐いた。
「私の勝手で綺羅々にはこの家に来てもらった。面倒を見る責任はあると思っている。ただ、綺羅々が結城家を完全に離れて一人で暮らしたいのであれば、その手続きを取る事も出来る。綺羅々の自由だ」
譲治は、力強く、はっきりと通る声で言った。今度は、綺羅々の返事を、皆が注目する番だった。
「私は……」
綺羅々は、自由になりたかった。紘子の視線にも、那智の視線にも、智の気遣いからも離れたかった。ただ、世間を知らない綺羅々にはすぐに独り立ちする勇気も無く、現実的な選択肢は、やはり別邸で暮らす事から自由を始める事だと思った。
「……別邸で、暮らしたいです。いずれ、もし、自立できる能力が身についた時は……ご迷惑にならないよう、結城家を去りたいと思います」
譲治と二人きりなら堂々と言えたであろう言葉も、皆に注目されていると思うと視線が怖くなり、綺羅々は俯いて小さく呟いた。
「綺羅々、今のお前の状態では、別邸で暮らすのは難しいんじゃないか」
智の視線を感じる。きっと、腕の包帯を見て言っているのだろう。智は、那智との間に起こった事を知らない。
「その事については、執事を誰か一人つけるつもりだ」
綺羅々の代わりに譲治が意見を述べた。
「執事が一人、この子にかかりっきりになったら、また人手不足になります」
今度は那智が冷たい声で言い放った。
「それについても、綺羅々が居なくなれば、また使用人に戻ってきてもらうつもりだ。問題ないだろう」
紘子はふん、と鼻を鳴らして、
「それなら、どうぞご自由に」と言い、納得したようだった。
那智と智は納得できない様子だったが、言い返す理由も無く、口を噤んだ。
「誰を執事につけるかは、これから決めるつもりだ。他に何か質問はあるか」
譲治の問いに、誰も何も言葉を発する事は無かった。
そして、綺羅々の別邸暮らしは、綺羅々が行動する必要も無く、あっという間に決まったのだった。
*
「お父様は、一体、何を考えていらっしゃるのかしら」
綺羅々は部屋に帰ると、ベッドに腰を掛けて膝に手を置いた。
「あの場に居た誰もが、そう思っている事でしょう。ただ、別邸で暮らすのは、綺羅々様が何より望んでいた事。施設で暮らすよりものびのびと生活する事が出来るのは喜ばしい事ではないですか」
慎は綺羅々のネグリジェとタオルをクローゼットから取り出して、綺羅々の横に置いた。
「勿論、そうだけれど……執事の件、もし、慎と離ればなれになって、新しい執事と一緒に暮らすのは、気が引けてしまうわ」
慎は綺羅々の前に跪き、右手をそっと握って綺羅々を見上げた。
「私から、譲治様に説得してみます。きっと譲治様も、あの場で明言を避けただけで、事情は分かっているはずです」
「……そうね、でも、これ以上、私はわがままを言えないわ。お父様からあんな風に言われてしまったら、慎を執事にして欲しい、とまでは……」
綺羅々は、那智の眼差しを思い出した。那智がどういう想いを慎に抱いているかは分からないが、きっと執事の事について思う事があるに違いない、とは感じていた。
「まだ時間はあります。私も今更、他の方にお仕えする気持ちにはなれません。それを分かってもらいましょう」
そう言って、力強く綺羅々の手を握りしめた。綺羅々は、左手を慎の手の上に重ねて、泣き出しそうな笑顔で小さく頷いた。
「ありがとう、慎」
*
智は、夕食後、すぐに譲治の部屋に向かった。勿論、譲治が居ない間に代理で行っていた事の報告をする目的もあったが、一番は綺羅々の事だった。一通りの事を報告し終えると、早速綺羅々の話を切り出した。
「なぜ、綺羅々を急に別邸に移すつもりになったのですか」
「それは、綺羅々のためだと思ったからだ」
「……あなたはいつもそうやって大事な事を言わない。これ以上あなたの気まぐれに付き合うのはうんざりだ。正直に理由を言ってください」
智は、譲治の机を叩いて、怒気を孕んだ眼差しを向けた。すると譲治は、椅子から立ち上がって窓際に立ち、夜の庭を遠い眼差しで見つめた。
「今更だという事は分かっている。……お前には言いにくい事だが、綺羅々の母親……薫に縁のある地を巡り、滞在して、気持ちを整理した。そもそも綺羅々を屋敷に連れてきたのはこの私のエゴだ。薫の面影を残した彼女を傍に置いておきたかった。ただ、成長していくうちに、どんどんと壊れていく綺羅々を見ていると、自分のした事に対して罪悪感を抱くようになった」
智は大きくため息を吐いた。
「呆れて物も言えませんね。愛人を作った上に、その愛人との間に出来た子どもを本当の家族をないがしろにしてまで育てたいなんて、そんなの子どもも本当の家族も誰も幸せになれない。少し考えれば、分かるはずだ」
「そうだな……すまない」
譲治はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。そして、それ以上会話をしたくない、という雰囲気で、部屋の奥に消えていってしまった。
智は吐き出しきれない想いを抱えたまま部屋を出、階段を上がると、二階のバルコニーに出た。
――父親に復讐しようと思っていたはずが、いつの間にか綺羅々を意識するようになってしまった。学歴も地位も、お金も持っている。金目当ての女ばかりで、避けてきたが、女はいくらだって寄ってきた。でも、綺羅々は自分に振り向く素振りすら見せない。愛人を愛したあの男の血が自分にも流れている。自分は何て惨めな男だ。
執事の事は明言しなかったが、きっと慎になるに違いない。自分のこの想いを、どこに吐き出せば良いのか、智はどうしようも無く苛立って、自分もしばらく家を空けようか、そう思いながら澄んだ夜空を見上げた。