那智の想い
綺羅々が自由になるための説得は、そう簡単にはいかなかった。まず、譲治がしばらく家を不在にすることになった。譲治はたびたび、長期の旅行に一人で出かけてしまうことがあったが、今回の件は、譲治は現実から目を背けるためでは無いか、と慎は推察した。
智の存在もやっかいだった。譲治の代理として色々と忙しくしていたものの、その合間に車椅子の綺羅々を慎の代わりに散歩に連れて行くと言って連れ出したり、譲治が帰ってきたら、入れ替わりに旅行へ連れて行こうと誘ったりした。綺羅々をリハビリに連れて行くのも智が買って出た。綺羅々にとって、智の好意はありがたかったが、慎に対する以上の気持ちを智に抱くことは出来ず、かえって憂鬱だった。慎もまた、綺羅々と智が二人で居ると、気が気でなかった。
そんな二人も、朝と夜寝る前の時間は二人で過ごすことが多かった。朝は朝食の後、庭を散歩するのが日課になっており、二人は時間が許す限りゆっくりと散歩した。綺羅々は自分の車椅子を慎が押してくれるのがとても嬉しかったし、慎も自分が綺羅々を支えているという実感が嬉しかった。
しかし、そんな二人が散歩する様子を、自室の窓から遠巻きに見つめている人物が居た。
――那智だ。
*
那智は、慎が初めて結城家に来た時、一目見た時から、ずっと、彼に恋をしていた。世間ではそれを一目惚れ、と呼ぶだろう。幼い頃は本家も分家も関係なく、慎と接してきたし、成長するにつれて自分と慎が置かれている立場が明確に理解出来るようになっても、那智は慎への想いを捨て去ることが出来なかった。慎が自分に心を開いていないことも分かっていた。立場の違いから、告白することが許されないということも。
でも、自分がいつか誰かに嫁がされるまで、慎が執事として側に居てくれるなら――。そんな淡い想いを抱いて慎を見つめてきた。しかし、慎は十八歳で突如居なくなり、二年帰ってこなかった。
そして、二年後、唐突に「それ」はやって来た。当然譲治に呼び出され、明日から愛人の娘を迎え入れ、世話役として慎を仕えさせるということを告げられたのだ。慎の帰りを待ちわびていた、那智は雷に打たれたような、強い衝撃を受けた。
何故、愛人の子どもに、慎を奪われなければならないのか。何故、愛人の子どもを結城家で育てるのか。
怒りが込み上げ、渦を巻いた憎しみを、結城家に来て間もない、まだ九歳の綺羅々に容赦なくぶつけた。自分でも大人げないことをしていることは分かっていた。でも、居なくなれ、居なくなれ、居なくなれ。慎を返して……そんな一心で、綺羅々に心ない言葉を浴びせた。
でも那智と紘子が綺羅々をなじる度に、慎は綺羅々を裏で庇って大切に扱った。暴れるようになっても見捨てずに側に居続けた。自分に心を開かなかった慎は何故、綺羅々にはあんなに優しくするのか。許せなかった。
綺羅々の精神が壊れ、病院に入院することになった時、那智は心底ほっとした。やっと、慎は執事として結城家に仕えてくれる。でも、慎は綺羅々が居なくなってからずっと苦しそうに、そして淡々と仕事をこなしているように見えた。
おまけに、放っておけばいいのに、智が綺羅々の様子を見に行くと言って、出かけていった。那智と智は決して仲は悪くなったが、智は女性に潔癖なところがあり、浮ついた噂も聞いたことが無い。それなのに、愛人の娘に何故あれほど親切にするのか。
綺羅々が居なくなっても、結城家から綺羅々の空気が消えることは無かった。
何故、何故、何故、綺羅々に優しくするの――。
そんな那智に縁談の話が持ち上がったのは、それから二年後、ちょうど綺羅々が結城家に帰って来る直前だった。
譲治に呼び出され、結城家と繋がりのある大企業の子息と見合いすることを告げられた。その子息は、智が帰国した食事会で那智の姿を見て、ずっと気になっていたとのことだった。
那智の容姿は、紘子似の智とは異なり、髪の色は譲治と同じ黒に近い焦げ茶色で、ウェーブがかったボブヘアーである。前髪を切りそろえ、眉は自然な流れに沿って描き、瞳はやや垂れ目の二重、鼻は母親譲りですっと高く、唇は父親に似てやや薄めだ。
相手が那智とぜひ会いたがっている、父がそう言えば、拒否する権利は那智には無い。もしその子息と結婚すれば、繋がりはより強固なものとなり、将来は社長夫人になる。今も、これからも、自分は何不自由ない生活を保障されるだろう。それでも、那智は何かに飢えていた。
しかも、綺羅々が再び結城家に帰ってきた。何故か、大けがをしているのに、以前よりも、晴れやかな顔をしていた。慎もそんな綺羅々に穏やかな眼差しで寄り添っている。まるで、恋人みたいに。智も進んで綺羅々の面倒を見ようとする。何故、そうやって綺羅々に優しくするのか、那智は苛立った。
特に、慎の穏やかなあの眼差しが、自分に向けられていたら――そう思うと、どうしようもなく悲しくなって、那智はいつしか慎の行動を無意識に目で追うようになった。すれ違う時、夕食を取る時、一挙一動が気になり、そして、一緒に視界に入る綺羅々を邪魔に思った。
*
三ヶ月経っても、まだ譲治は帰ってこなかった。
綺羅々の怪我は、当初の診断より回復が遅れていたが、リハビリを重ねるうちに、松葉杖をつけばゆっくりと自分で歩けるまでに回復していた。しかし、綺羅々の両脚は崖から落ちた時に岩肌に引っ掛けて大きな傷が付いてしまい、今も縫合した跡が残っていた。そのため、骨折が治ってきても、包帯を巻く生活は続けていた。
包帯は朝と夜、着替える時と寝る前にベッドで慎に取り替えてもらうことが習慣になっていた。慎はゆっくりと、丁寧に、壊れ物を扱うかのように、包帯を巻くことに時間をかけた。
「慎は包帯を巻くのが本当に上手ね」
「おそれいります。脚の傷は、少しずつ目立たなくなってきましたね」
「それでも、この傷は一生残ると、医者に言われたわ」
「もし、私があの施設に居れば、と思うととても辛いです」
「そうね……あの時、慎と一緒に遠くに行ければ良かったのに」
そう言って、綺羅々は慎の頭をそっと撫でた。慎の髪はサラサラとして滑らかに指が通った。慎は静かに綺羅々に頭を撫でられていた。
包帯を取り替え終わると、綺羅々はベッドに横たわって布団に潜り込み、そして目を閉じた。慎は綺羅々が寝ようとしていると思い、部屋の電気を消そうと入り口へ歩き出したが、「ねえ、慎」という声が聞こえて振り返った。
「何でしょうか、綺羅々様」
「慎とお姉様って、最近、何かあった?」
唐突な質問に、慎は戸惑って一瞬、言葉に詰まった。
「特別、何もございませんが」
「そう」
「何か、気になることでも?」
すると綺羅々は、少しの間を置いて、
「最近、お姉様は慎のことをよく見てるから」と言った。
「……気がつきませんでした。でも、那智様は、私がまだ子どもだった頃、よく遊んでいただいただけで、特別な関係にあった訳ではありません」
「そう、なら、いいの。おやすみなさい」
そうして綺羅々はそれ以上言葉を発することは無かった。慎は綺羅々が言ったことが気になったが、静かになったのでそれ以上聞くのは憚られ、部屋の電気を消し、綺羅々の部屋をそっと後にした。
*
翌日、綺羅々は読書するための本を探しに行くために、松葉杖をついて談話室に向かうと、偶然、ソファに腰を掛けて本を読む那智の姿があった。
「あ……お姉様」
綺羅々が声を上げると、那智は綺羅々の気配に気付いて顔を上げた。しかし、那智にとって、今、綺羅々は最も会いたく無い人物で、顔も見たく無いし、声も聞きたく無かった。大きくため息だけ吐くと、綺羅々を無視して読書を再開した。
綺羅々は一瞬傷付いたように視線を下に落としたが、以前から気になっていた慎に対する視線の意味が気になり、本棚の方では無く、那智の方まで歩いて行った。那智はできるだけ綺羅々の方を見ないように読書をするふりを続けたが、綺羅々が自分の前で何も言わずに立っているので、顔を合わせず、
「何か、用かしら」とだけ呟いた。
「一つ、お聞きしても良いでしょうか」
「読書に夢中だから、手短にお願い出来る?」
「最近慎をずっと、見ていらっしゃいませんか?」
いきなり核心を突く質問に、那智は動揺してページをめくる手が震えた。
「……何を言いだすかと思えば。私が父親の愛人の娘の執事なんてジロジロ見る訳無いでしょ」
そう言いながらも、那智の呼吸は無意識に速くなっていった。なるべく態度に出さないように努めたものの、体中が熱くなって、すぐにその場から逃げ出したくなっていた。
平静を装う那智を素直に信じた綺羅々は、
「…そう、ですよね。すみません」と言って頭を下げた。しかし、意図せず綺羅々が放った次の言葉が、那智を打ちのめしてしまった。
「ただ、何だか、寂しそうに、見えた気がして」
その言葉に、那智の顔はたちまち赤くなっていくのを感じた。
――何だか、寂しそうに、見えた気がして。
何よ、それ。あんたのせいじゃない。綺羅々。あんたが居るから……
気がつけば、那智は綺羅々の身体を思い切り突き飛ばしていた。
「うぬぼれるのもいい加減にしなさいよ」
そして、そのまま綺羅々を置き去りにして、自分の部屋へと戻り、夕食も取らずに部屋に引きこもってしまった。
*
その夜、綺羅々は久しぶりに発作を起こした。那智が夕食の時間に現れなかったからだ。きっと、自分のせいに違いない。慎が夕食の片付けに出ている間、綺羅々は何年かぶりに自分の身体に傷付けた。脚には包帯が巻かれているので、腕の辺りにペティナイフで何度も何度も傷を付けた。
『うぬぼれるのもいい加減にしなさいよ』
質問をした時、綺羅々には、何の悪気も無かった。ただ、理由が知りたかった。何故、慎を見つめているのかを。その瞳が、何故、寂しげなのかを。でも、自分が言ったその一言が、那智を怒らせてしまった。今まで口でひどいことを散々言われても、手を出されたことは無かった。それくらい、那智は怒っていたのだ。
同じ言葉がぐるぐると渦を巻いて再生されていく。施設に入る前の、言葉の暴力がフラッシュバックして、綺羅々はパニックになった。
――私は、うぬぼれている。結城家の人間でも無いのに、気軽に話しかけてしまった。たった一瞬の自由に味をしめて、勝手に何かを勘違いしていた。私は、所詮、愛人の娘で、私のことを受け入れてくれる訳が無い。話しかけるなんて、どうしてそんなことしたのだろう。どうして、どうして……
そうして、部屋に慎が戻ってくるまで、綺羅々は何度も自分の腕に傷を付けた。慎が部屋に帰ってくると、綺羅々の腕は血まみれになっていた。




