綺羅々の決意
二年間の空白を経て結城家に戻ると、玄関に紘子と那智が立っていたが、その眼差しは二年前と何も変わらなかった。車椅子になった綺羅々を見て、蔑んだ眼差しを向けるだけだった。ただ、綺羅々は驚くほど清々しい笑顔で帰ってきた。
「ただいま戻りました」
その笑顔とはつらつとした口調は、紘子と那智を驚かせた。
*
綺羅々が居なかった空白の二年間、智以外にも譲治と慎に変化があった。
まず、譲治は、綺羅々が居ない二年の間、酒を飲む回数が増えた。仕事をしていない時はひたすら自室にこもり、部屋から出てくることは滅多になくなった。ひっそりと綺羅々が隔離されている施設に行っては、引き返すという行為も何度かあった。そのことは、譲治以外、誰も知らない。
そして、智から綺羅々が飛び降りて病院に居ると連絡が入った時、譲治はひどく動揺して、受話器を持つ手が震えた。決して感情を表に出さない譲治も、この時ばかりは目を閉じて唇を強くかみしめた。
慎は綺羅々の部屋の手入れを毎日しながら、他の執事と一緒に結城家の家事全般を担った。綺羅々を家に迎え入れて使用人を減らしてから人手不足は深刻で、執事自ら料理の配膳や庭の手入れなど、雑用を担うことも多くなっていた。黙々と作業をこなし、執事に与えられた部屋で綺羅々を想って寝る、という毎日が延々と続いた。結城家専属の執事には、休日は冠婚葬祭以外、殆ど無い。ただ、老後何をしなくても暮らしていける程の給料は約束されていた。
保護者としてなのか、それとも別の感情なのか、どうしようもなく綺羅々に会いに行きたいと思った日もあったが、自分の車が無い慎にとって、会いに行くことは叶わなかった。綺羅々に会いに行くと言ってフェアレディZに乗る智を複雑な感情で見つめることしか出来なかった。
だから、綺羅々が崖から飛び降りたという一報を聞いた時、胸が張り裂けそうになった。綺羅々は「結城家」に囚われている限り、一生自分を傷付けることになるだろう、どうにかしてやれないものか、自分の非力さを悔いた。
二人は、病院で綺羅々に会った時、綺羅々の痛々しい姿に、居ても立っても居られなくなった。譲治は目を反らし、慎は瞳に涙を浮かべた。
話は全て智から聞いていた。施設を出て結城家に戻ること、再び慎を執事にすること。
綺羅々はいびつな笑顔を浮かべて、車椅子の上で「ただいま」と言い、智に押されながら二人に近づいてきた。譲治に似てあまり本心を表に出さない智も、この時ばかりは申し訳なさそうに「すみませんでした」と頭を下げた。
帰りの車の中、綺羅々は二年前と同じ光景を眺めて、懐かしい気持ちになった。結城家に戻るのは怖い。でも、今の綺羅々には、慎への感情以外は、やれば何でも出来る、という気持ちになっていた。外に出るためなら、何だって出来る。結城家に戻っても、私はもう、誰にも縛られない。
――私は、誰にも縛られない世界へ行く。
結城家に帰ったら、真っ先に譲治に話をしようと思った。たぶん、それは許されないだろう。でも、綺羅々は時間をかけてでも、手に入れる。そう覚悟を決めた。
*
驚く紘子と那智を横目に、玄関ホールを抜け、智と慎が綺羅々の車椅子を持ち上げて二階へ上がろうとした時、綺羅々は譲治の方を向いて、
「お父様、お話があります」
と言った。
「……なんだ」
「それは、お父様のお部屋でお話したいのです。出来れば、お兄様と慎も一緒に」
四人で話をするということは、何か大事な話なのだろう。譲治と智、慎は顔を見合わせた。譲治が暫しの沈黙の後、静かに頷くと、智と慎は車椅子を持ち上げるのをやめ、慎が綺羅々の車椅子を押して譲治の部屋へと向かった。
譲治の部屋に入ると、譲治と智が部屋の中央のソファに机を挟んで相対して着席し、綺羅々と慎はソファの横に立った。
綺羅々は、すぐに話を切り出さなかった。部屋中の本棚に並べられた本に目を配り、譲治の部屋の空気を吸った。カーテンから漏れる木漏れ日の光に目を細め、最後に、ようやく譲治を見た。譲治は綺羅々と目を合わせずに、机を見ていた。譲治は綺羅々に何を言われるか分からず、綺羅々を恐れていた。
「――私を、別邸に隔離してください」
唐突に発した言葉に、三人は一様に目を見張って綺羅々を見た。綺羅々は、譲治の目を一瞬も反らさずに見据え、譲治の返事を待っていた。しかし、最初に言葉を発したのは、譲治ではなく、智だった。
「綺羅々、それじゃあ、施設に居るのと変わらないじゃないか。結城家に居れば、俺や慎、父さんも居るだろう」
「別邸には、慎を連れて行きます。私は一人ではありません」
綺羅々は智を一瞥もせずに、譲治の返事を待った。
「……それは……」
譲治が口ごもると、綺羅々は冷ややかな声色で、
「出来ないのですか?」
と言った。それは、崖から飛び降りる時、智に放った時と同じ言葉、つまり、綺羅々は譲治を試していた。
「紘子や那智が居るからか?」
譲治が何とか絞り出すと、綺羅々は、
「ただ、私は自由になりたいだけです」と言った。
たちまち、四人の間に沈黙が流れた。慎は車椅子のグリップを握る手袋の下が、汗で濡れていることに気付いて、汗を拭うようにグリップを握り直した。
「俺は賛成できない」
智がはっきりと綺羅々に向き直って、言った。
「慎は綺羅々に情が入りすぎているし、万が一綺羅々が逃げ出したいと言ったら、二人はどこかに行くかも知れない。それは結城家にとっては良くないことだ」
「どうして、慎は私に情が入りすぎていると思うのですか?」
智はハッとして口を噤んだ。あの日、見た光景は、綺羅々は知らないはずだった。慎や綺羅々から直接それぞれの思いを聞いたわけでも無い。慎を見遣ると、何も言わずに黙っていた。
「綺羅々の状態が不安定である以上、慎の目を離れて突然、命を絶つようなことがあってもならないし、今は少なくとも二人で暮らせるような時期じゃ無いと、俺は思っている」
慎は軽く咳払いをし、綺羅々の質問には答えずに別の切り口で意見を述べた、すると、譲治は「そうだな」と一言呟いた。
「そう、ですか…」
綺羅々は失望して睫を伏せた。そして、
「……分かりました。では、この話は終わりにします。慎、部屋に連れて行ってくれる?」
と言って、慎を見上げた。
「よろしいのですか」
「ええ、お兄様が言うことはごもっともですわ。時間をとらせて申し訳ありませんでした」
そうして、綺羅々を乗せた車椅子は慎によって譲治の部屋の外へと消えていった。
あっさりと引き下がった綺羅々に智は胸をなで下ろしたが、譲治は綺羅々の言葉に心が揺らぎ始めていた。
(――私を、別邸に隔離してください)
その言葉が、いつまでも譲治の頭の中で再生された。
*
他の執事に手伝ってもらって、車椅子を二階へ運び、綺羅々は部屋へと戻った。慎が扉を閉めると、綺羅々はすぐに、
「慎、今でも私の執事をやりたいと、思う?」
と呟いた。
「二年間、会いに行けなくて、申し訳ありませんでした」
慎は車椅子のグリップから手を離し、綺羅々の前に跪いて頭を下げた。
「……もう、会えないかと思った。段々と慎の姿が遠くなって、残像になって、消えそうだった」
「私は誰の執事でも無く、昔も今も、綺羅々様の執事です。だから、綺羅々様が結城家に帰ってくると知って、私を執事としてまた傍に置いてくれると知って、本当に嬉しかった」
慎は顔を上げ、綺羅々の手をそっと握った。
「でもね、私は自由になれないみたい。この屋敷で、永遠に暮らしていくことになるの」
「……私が傍に居ます」
「もう、それだけじゃ満足できない。私は自由になりたい。だから、…慎。私に協力して欲しいの。この屋敷から抜け出して、二人で別邸へ行きましょう。時間をかけてでも良い。お父様を説得するわ。どんな手を使ってでも――」
二年会っていなかった綺羅々の目は、驚くほど澄んでいた。
「二年間会えなかったことの、償いになるのなら、私は綺羅々様の執事として、何でも協力致します」
慎は再び恭しく頭を下げた。




