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逃亡

 智が綺羅々と距離を縮められないまま、綺羅々は十六歳になっていた。綺羅々の方は、成長していく身体とは裏腹に、人間らしい「感情」がどんどんと色あせていき、最近は智が話しかけても、「うん」「そう」しか言わなくなっていた。綺羅々はすっかり暴れなくなったが、代わりに人形のように感情が無くなって生きたまま死んでしまうのではないか、と慎は思った。そうなれば、何も果たせないまま綺羅々を失う事になってしまう、急に不安になった智は、思い切って綺羅々を連れて外出する事にした。


 智は外の世界を知らない綺羅々を遊園地に連れて行こうと思っていた。こんな世界もあるのだ、と知ってもらいたかった。その時、いつかケーキを持っていった時のように笑顔を見せてくれるだろうか、そんな淡い期待も抱いていた。


 綺羅々は、家から持ってきたワインレッドのワンピースに身を包み、腰の辺りまである髪の毛を梳いてもらってから、久々に外に出た。智が一緒に外出するといった時は、「うん」としか言わなかった綺羅々も、自然の中の新鮮な空気が綺羅々の身体にすう、と取り込まれていくと、身体の中で止まってしまった何かが目覚めていくのを感じた。そして、綺羅々は目を閉じ、風の音、鳥のささやき、木の葉が擦れる音を聞いた。エンジンの音、遠くで鳴り響くサイレンの音、全ての音が綺羅々の身体を駆け巡っていく。ドロドロとしていた血が、新鮮な空気で鮮血に戻っていくような気がした。


「綺羅々、どうした?」

 なかなか自分の方にこない綺羅々を怪訝に思った智が愛車のフェアレディZの扉を開けて綺羅々を呼んだが、綺羅々はしばらく病院の庭の真ん中で腕を広げて目をつむっていた。天窓からしか見ていなかった太陽が、今、自分の全身に降り注いでいる事が嬉しく、しばらくそのままにしていたかった。


 ――解放された。


 自分は今、つかの間でも自由だと思うと、綺羅々は無性に走り出したくなった。結城家から病院に来ても、私は解放なんてされていなかった。このまま外の世界を知らないまま死ぬのは嫌だ。もっと知りたい、もっと、もっと、もっと。閉ざした心の中の感情が堰を切ってあふれ出し、綺羅々は目を閉じたまま走り出した。どうなってもいい、ただ、この空気を纏って、自分の知らない世界へ飛んでいきたい。綺羅々は全速力で走り出した。


「おい、綺羅々、何やってる!」

 智は車から慌てて出て、自分の車ではなく、病院の裏側へ走って行く綺羅々を追いかけた。追いかけながら、あの無表情だった綺羅々が、急に勢いよく走り出した事に戸惑いを隠せなかった。今、彼女が何を考えているのか智には図りかねた。

 ただ、彼女が自殺を図る事だけは避けなければならない。


 祈るような気持ちで綺羅々を追いかけると、綺羅々は病院裏の崖の上に立って、また腕を広げていた。そこからは、街が一望できた。


 智は全身にびっしょりと汗をかいていた。ここまで走ってきた時に出た汗と、綺羅々が死ぬのではないかという冷や汗が混じって、気分が悪くなりそうだった。

「き、綺羅々、大丈夫か?」

 智が綺羅々を刺激しないようにそっと近づくと、綺羅々はあの時の笑顔をいとも簡単に見せた。智はその笑顔に一瞬、心を奪われた。

「ねえ、お兄様。今、自分が今まで見た事の無い世界がここに広がってる。私は、どこへだって行ける。そうでしょう?」

 綺羅々は片足のつま先を、崖の先端のぎりぎりまで一歩踏み出した。


「……ああ、そうだよ、綺羅々。でも、死んだら、その世界は二度と見られなくなる」

 智は数メートル先に居る綺羅々に向かって、一歩、また一歩と、距離を詰めていった。

「死ぬつもりなんて、毛頭無いの。でも、私は、一生、あの施設か、結城家に幽閉されるのでしょう?だとしたら、自分の足であっちの世界に行くしかないじゃない」

「そんな事無い、綺羅々。俺が、お前を守ってやる。そうだ、二人で暮らそう。綺羅々の好きなところに住もう」

 智はしょうも無い嘘を吐いている事が恥ずかしくなった。そんな非現実的な事を口にして、綺羅々を説得できる訳が無いのに、何故こんな言葉が口をついて出てきてしまうのだろう。

「ふふ、お兄様は『嘘つき』ね」

 綺羅々が呟いた言葉の矢は、智の心臓を思い切り突き刺した。復讐も嫉妬も何もかも、自分の浅はかさを、全てを見透かされているような、そんな気がした。


「駄目だ、綺羅々、死なないでくれ。嘘じゃない」

 智は今まで発した事の無い強い口調で言った。綺羅々が智の瞳を見ると、その眼差しは本物だった。

「……では、お兄様。二つ、お願いがあります」

 綺羅々は智を試すように、もう片方のつま先も崖の先端ぎりぎりまで踏み出した。後は綺羅々の意志があれば、落ちて死ぬ事が出来る状態まで来ていた。

 二人の間に張り詰めた空気が流れる。

「俺に出来る事なら、何でもする」

「一つ、結城家に私を戻してください」

「分かった」

「もう一つは、慎を私の執事に戻してください」

 二つ目のお願いを聞いた時、智は決定的に打ちのめされた。喉がからからになって何も言葉が出てこない。


「……出来ないのでしょうか」

 綺羅々は智を真っ直ぐに見据えている。慎を執事に戻せば、綺羅々と良好な関係を築くタイミングを失ってしまうだろう。智には、どうしても「あの光景」が目に浮かんでしまい、冷静な判断が出来なくなっていた。どうしても、「わかった」の「わ」の部分で言葉に詰まってしまい、息をのんだ。

「お兄様はいつも何を考えているかわかりませんね」

「ちょっと、待ってくれ、わかっ…」


 綺羅々は智の言葉を待たずして、広げた腕を下ろし、そして、片足からそっと、崖の下に向かって落ちた。飛び降りた、というより、すっと落ちていった。

「……ッ、綺羅々、綺羅々――!」

 綺羅々が飛び降りた瞬間、智の足も無意識に動き出した。そして、崖の手前で目をつむり、自分の全てを恥じた。ちっぽけな自分の嫉妬も、何もかも見たくなかった。自分のせいで綺羅々が死んだと、考えたくなかった。


 それでも、確かめなければならない。数回、大きく息を吸い込み、恐る恐る目を開け、崖の下を覗いてみた。目の前に広がった光景に智は腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。崖は高く見えるだけで、数メートル下にはもう一つ足場のようなものがあったのだ。綺羅々はそこに倒れて、血を流して気を失っていた。


 智は震える手で携帯電話を取りだし、救急車を呼んだ。


 そして、綺羅々をこの施設から出して別邸へ連れて帰り、慎に会わせる、そう決断した。


 *


 綺羅々は全治二ヶ月の重傷だった。両脚を骨折し、しばらくの車椅子生活を余儀なくされた。智の知り合いの病院に秘密裏に入院させ、数週間治療を受けさせた。入院している時の綺羅々は、また施設に居た時のような無表情の眼差しに戻っていた。


 そして、退院の日、智が車椅子を押しながら玄関ホールまで行くと、そこには、二人の姿があった。一人は、サングラスを掛けた譲治、もう一人は……慎だった。


 譲治は綺羅々の足を見て、苦しそうに唇をゆがめて目をそらした。

 一方の慎の瞳は潤んでいた。痛々しい姿の綺羅々が辛かったのか、それとも、今まで会いにこなかった事に対する罪悪感なのか、やっと会えた事に対する喜びなのか、それをくみ取る能力は、二年間離れていた綺羅々にはすぐに見抜く事が出来なかった。


 ただ、一言、声を静かに震わせて、

「生きててよかった」と呟いた。

 一方の綺羅々も、二年間押し殺していた気持ちがぐちゃぐちゃになって渦を巻き、すぐに整理する事が出来なかった。何とかいびつな笑顔を作って

「ただいま」と言った。


 こうして、二年間の施設での隔離を経て、綺羅々は再び結城家に戻る事になった。


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