結城智という男
智は、施設で綺羅々に会う度にざらざらとした気持ちになることに戸惑っていた。何故、自分は一回りも離れている綺羅々にこれほどまでに心惹かれるのだろうか――。
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智は十歳になるまで分家の子どもとして生きてきた。結城家の習わしに従って、譲治と紘子は見合い結婚し、結城家で二番目に大きい別邸で暮らしてきた。その時本家だった慎とは、異なる幼稚園、小学校へと通っていたが、最初から分家の人間ということもあり、慎とは違ってごく普通の子どもとして、他の子どもと遊んで過ごしてきた。
しかし、譲一が死んだことでその生活は一変した。譲治達は結城家という絶大なブランドを手に入れ、小学校でも智を見る目が変わった。その変化に、智は戸惑った。分家は分家なりに名門の小学校に通っていたものの、今までのように気軽に友人と遊べなくなってしまった。それはとても寂しいことであったが、自分の住む家が大きな屋敷に変わると、智の中に「自分は特別な人間だ」という感情が芽生えるようになった。智は頭も良く、容姿も良く、運動神経も良かったので、中学校でも、注目の的であり、内心誇りを持って生きてきた。大学も有名難関大学に入り、学生生活を謳歌した。
しかし、父親の譲治はいつだって自分に関心を持つことは無かった。そもそも譲治が何に関心を持っているのか、智にはよく分からなかった。結城家・本家のブランドを手にして喜んでいるのは紘子の方で、譲治は淡々としていた。紘子や那智や、自分を愛しているのかさえ、智には分からなかった。
それに、智には「慎」の存在もつきまとった。慎は自分と年が近く、本家の人間であったにもかかわらず、父親と母親が死んだことで天涯孤独になり、将来執事になることを引き換えに、学生生活を送っていた。結城家の分家ということもあり、それなりの学校に通わされていたようだったが、智と同じ学校に入ることは無く、そしてその瞳にはいつも「暗いもの」がつきまとっていた。智はどこかで慎を哀れんでいたが、一方で「慎と自分は違う」という感情を持っていて、あまり交流を持たなかった。一方の那智は慎に好意を持っていたようで、本家と分家の垣根を越えてよく話しかけていたが、慎は那智に対しても心のどこかで一定の距離を置いているように見えた。
しかし、智が十九歳の時、慎は突然居なくなってしまった。那智はさみしがり、譲治に慎の行方を尋ねると、「執事の見習いに行っている」とだけ言った。そもそも、何故、慎を遠戚の養子にせず、わざわざ執事として本家に置いたのか、智は昔から不思議でならなかった。
その理由は、二年後に分かった。譲治の愛人の子ども、綺羅々が結城家にやってきた時、慎が傍について居たのである。
譲治は綺羅々が来る前日になって、急に、紘子、那智、智を呼び出して、長年隠していた事実――つまり、愛人がいて、子どもが居ること、そして、自分の屋敷で育てると言うこと、執事には慎を置くということを告げた。綺羅々が家に来る前日の紘子と那智の顔を忘れることは出来ない。紘子と譲治は元々正反対と言える性格で、あまり仲が良いとは言えなかったが、プライドの高い紘子は譲治に愛人がいるという事実が許せなかったらしく、美人だが気の強そうな顔が、鬼のような形相に変わっていた。
一方の那智は、自分の父親が別の女性と不倫していたという事実、それから、慎が綺羅々の傍にいるという事実に打ちのめされたらしく、ブツブツと何かを呟いて唇をゆがめ、眉間に皺を寄せた。
智は、父親の告白を聞いて、長年、譲治が長年自分達に無関心だった理由が分かったような気がした。つまり、愛人の子を結城家に迎え入れるほど、その愛人に入れ込んでいて、家族にはそれほど関心が無かった、という訳だ。智は自嘲気味に笑った。なんて、ひどい父親だろう。いつからその愛人に入れ込んでいたんだろうか、もしかすると、本家になる前から入れ込んでいたのではないか?
父親が入れ込むほどの愛人の娘、自分の屋敷にまで招き入れて傍に置いておきたい娘とは、一体どんなものなのだろう。
そして、綺羅々が慎と共に屋敷にやって来た時、昨晩事実を知らされていたとは言え、綺羅々の前で紘子と那智は再度反発した。一方の綺羅々は肩くらいまで髪を伸ばし、切れ長の大きめの二重に、紅く色づいた唇が印象的だった。大人になれば美人になるだろうという予感を持たせる、そんな少女だった。
紘子と那智が綺羅々をなじるのを見ながら、敢えて自分はその選択肢から外れようと思った。父親に復讐するなら、もっと手の込んだやり方では無いといけないと思った。
それは、良き「兄」を演じて、愛人の面影を残す綺羅々を取り込み、表面上、恋愛関係になる、ということだった。自分は確実に次期の本家筆頭になる。綺羅々と恋愛関係になれば、それは許されない行為となり、そういう境遇を作り出した父親は苦しむだろう。
その時、父親はどうするのか。時間を掛けてじっくりと復讐するつもりだった。
しかし、その計画に着手することはなかなか叶わなかった。未来の結城家の筆頭当主になる身として、留学経験をさせられることになり、五年間、結城家を開けることになってしまったのだ。
留学経験の五年間は有意義なものではあったが、帰ってくると、結城家は五年前より一層ギスギスとしており、綺羅々の様子は明らかにおかしくなっていた。綺羅々が紘子や那智からそれなりの仕打ちを受けることは覚悟していたが、綺羅々の変貌ぶりは智の想像を上回っていた。自分が手を下さなくても、綺羅々が自滅していくのは明白だった。父親がこの状況を知らないはずは無かったが、慎が居ることを理由に、傍に置いておくのをやめなかった。
綺羅々は智が思っている以上に美しく成長していた。ケーキを素直に喜んだ綺羅々の笑顔は人形のように愛らしかったが、それよりも直後に見せた「影」の方が智の心を惹き付けた。それは、理屈では説明できない、自分でも分からない感情だった。
この家で起こった事態を把握しながら、少しずつ「兄」としての役割を果たそう、そう思った矢先、智は慎と綺羅々の異様な関係を目の当たりにしたのである。
自分がいない間、二人は二人だけの世界を築き上げていたのだ――。慎を見上げる綺羅々のうっとりした表情は、ぞっとするほど色気があった。綺羅々を見つめる慎の眼差しも普通の執事のソレとは違った。
つまり、自分は、とっくに慎に先を越されていたのだ。「兄」としての役割を果たす前に、慎が綺羅々を奪っていた。「分家」の慎に先を越されていることが悔しかった。父親に復讐するためには、このまま二人を一緒にしては危険だ、智は慎と綺羅々を離ればなれにして、自分が正当な「兄」として、綺羅々の気持ちを自分に向けさせよう、そう思った。そして、何とか父親を説得させて、施設に入れさせた。
しかし、綺羅々は施設で智と会う度に、よそよそしい態度をとった。慎の前で見せたあの表情とはほど遠い、「他人」として接する態度は、智を傷付けた。最初は自分がこれほど優しくしているのに、何故、自分では駄目なんだ、と思った。しかし、会う回数を重ねる度に、段々と、何故、自分は彼女にこれほど、惹かれるのか、とも思い始めた。
綺羅々は、いつも触ると壊れてしまいそうな薄い膜に包まれていた。横顔は、美しくも、影をたたえていて、寂しげに誰かを待っている。プレゼントをもらっても、愛想笑いをするだけで、ケーキを渡した時のあの笑顔は二度と見せなかった。彼女が醸し出す雰囲気は、智の心をざらつかせ、かき乱した。時々綺羅々が「慎」と口にすると、身体のあらゆる臓器が締め付けられ、どす黒い感情が湧いてくるのを感じた。父親が愛した女性の娘に、まさか自分が恋をしているとは、決して思いたく無かったが、綺羅々を、手に入れたい、と思うようになった。慎に見せたあの顔を、自分にも見せて欲しい、そう思うようになった。
智はそれが、父親に対する復讐なのか、慎に対する対抗心なのか、綺羅々に対する恋心なのか、もはや分からなくなっていた。