精神病棟
綺羅々は五年ぶりに黒塗りの車に乗った。前に乗ったのは、この屋敷に来た時――それ以来、外に出たことは無い。
車には、後部座席に譲治と智、助手席に綺羅々、そして運転手に慎の五人が乗っている。
行き先は智が探した病院で、片道二時間はかかる長い道のりだったが、綺羅々に行き先は告げられなかった。ただ、珍しく外出する時、紘子と那智が玄関まで見送りに来てくれた。二人は恐ろしいほどに、優しい微笑みをたたえていた。
その時、綺羅々は、自分はとうとう、この屋敷から追い出されてしまったのだ、と確信した。これから向かうのは、きっと、追い出された自分にふさわしい場所なのだろう、そう惨めな気持ちになったが、屋敷の中で窮屈な思いをしなくて住むことに対して安堵する気持ちの方が大きかった。
二時間の道中、車の中に会話は無かった。譲治は相変わらず寡黙で、智は何か物思いにふけっている様子だった。慎に至っては、初めて会った時のあの顔……何かを諦めた顔で運転をしていた。
フロントガラスから入ってくる景色は、綺羅々のすさんだ心を明るくした。人々が生活する町並みだけでなく、海や山も見えた。自分が住んでいるこの世の中には、自分が知らない、こんな開放的なものが溢れているのか、と綺羅々は感動した。山の中に車が入って行くにつれて、視界に入る世界も木が多くなり、その木から木漏れ日が射し込むと、まぶしさに目を細めて、目を閉じた。外に出られたら、良いのに。綺羅々は自分が外で思う存分身体を動かし、踊っている姿を想像してみた。
目を閉じて想像にふけっている間に目的地に到着したのか、車が止まった。綺羅々が目を開けると、そこは大きく白い建物で、見るものに無機質な印象を与えた。
「……ここ、どこ?」
綺羅々は不安げに慎を見たが、慎は唇をかみしめるだけで何も言わなかった。
代わりに智が、
「ここは、綺羅々が、ゆっくり休めるところだよ」
と言った。そして、譲治が「挨拶してくる」とだけ呟き、一人で車のドアを開け、外に出ると、智もそれに続いて外へ出て、無機質な建物に向かって歩き出した。慎と綺羅々は二人、車の中に取り残された。
「ねえ、慎?これからも慎が傍に居てくれるんだよね?」
綺羅々は慎の腕を揺すって、慎の顔をのぞき込んだ。しかし、慎は綺羅々と目を合わせなかった。
「綺羅々様、きっと、これが綺羅々様にとって、良いことなのです。あの屋敷で心が壊れてしまうよりも、誰からも離れて、ここで一人静かに過ごす方が、かつての明るい綺羅々様が帰ってくる、そう信じています」
どこか他人事の態度に、綺羅々はますます不安になり、身体全体を大きく揺すった。
「どういうこと?慎も私の前からいなくなっちゃうの?」
慎はうなだれて目を閉じた。そして、昨晩の出来事を思い出した。
*
「綺羅々様を、病院に入れる?」
譲治の部屋に呼び出されると、そこには智も居た。二人はソファに座り、立っている慎に綺羅々を精神病院にしばらく入院させることを告げた。
慎の頭は真っ白になった。いや、綺羅々にとってはその方が良いのかも知れない。執事という非力な立場で、綺羅々の保護者ごっこをしながら綺羅々の心が壊れて行く姿を見るよりも、綺羅々が安心して過ごせる場所に移した方が彼女にとっては良いことだろう。自分だって、譲治にそう進言していたはずだった。
それなのに、いざそれが事実になると、慎の身体の中に虚しさが広がって行った。綺羅々が居なくなるという生活が、慎には考えられなくなっていた。何から何まで自分が世話をしていた。それが、明日から、がらりと違う生活に変わってしまう。慎もまた、どこかで綺羅々に依存していたのだった。不遇な生まれ同士の共鳴、自分だけを頼ってくれるという嬉しさと優越感、自分が彼女を守らなければならないという使命感、日々の生活の中で少しずつ綺羅々への想いは積もっていた。
「そう長く入院させるつもりは無い。一、二年、療養してもらって、様子を見てどうするか決めようと思う。面会は智に行ってもらう。慎は他の執事と共に、結城家を頼む」
譲治がそう言うと、慎と智の目が合った。濃い茶色の智の瞳は、慎の黒色の瞳を真っ直ぐに捉え、しばらく二人は無言で見つめ合った。慎は決して智から目をそらさなかった。智は自分と綺羅々の関係に、きっと気付いている。危うくにらみつけそうになった慎に、智は口許をほんの僅かにつり上げて笑みを浮かべた。
「今まで綺羅々のことを慎くんに任せっぱなしにしていただろ。紘子も那智もあまりに綺羅々に無関心だ。俺は結城家の、彼女の兄としてそれを恥ずかしく思っている。だから、兄らしいことを彼女にしてやりたいと思ってる。慎くんもずっと不安定な彼女に付き添って、少し休んだ方が良いだろう。分かってくれ」
物腰は柔らかかったが、どこか否定的な言葉を受け入れることを許さない口調だった。
執事の身である慎が、結城家の人間に逆らうことは許されない。慎は、拳を握りしめ、静かに、「わかりました」と呟くので精一杯だった。
*
「慎、慎っ」
綺羅々が慎の身体を揺すっている。今、綺羅々の顔を見たら、きっとこのまま車で綺羅々を連れ去って行ってしまいそうだった。あの結城家から離れて、彼女に人間らしい生活をさせてやりたい、慎は悔しくて堪らなかった。
やがて、譲治と智が一人の白衣を着た医師を連れてやってきた。智が助手席のドアを開けると、外へ出ることを促したので、綺羅々は外に出ざるを得なくなった。それでも、慎の顔をずっと見つめたまま、彼女は渋々外に出た。
「今日からしばらく、綺羅々がお世話になる安田先生だ。と言っても、特に何もするわけじゃなくて、綺羅々がゆっくり休めるよう、サポートしてもらうだけだから、何も心配することは無いよ」
安田は穏やかな笑みをたたえて、「こんにちは」と言ったが、綺羅々は、そわそわとして、軽く頭を下げただけだった。
「お兄様、慎は?」
綺羅々が智を見上げると、智は綺羅々の頭をそっと撫でて、
「また会えるよ」
と一言だけ呟いた。譲治と智、安田医師に囲まれて、綺羅々は半ば無理矢理白い建物に連れて行かれ、そして、用意された個室まで案内された。
そこには、殆ど何も無かった。壁紙は淡いパステルブルーで、天井は高く、天窓から太陽の光は射し込むものの、白いベッドと茶色いテーブルと一脚の椅子以外、必要最低限のものは置かれていなかった。トイレや浴室は部屋の外にあり、自分の身体を傷付けるようなものは部屋から一切排除されている。
綺羅々は自分の住んでいた部屋とのあまりの違いぶりに動揺し、全身から汗がにじむのを感じた。
「……私、ここに住むの?」
「住むわけじゃなくて、しばらくここで何も考えずにゆっくり過ごすんだ。必要なことがあれば、安田医師や、看護師さんに連絡できるよう、あそこのインターフォンから用件を告げるんだ。本を読んだり、手紙を書くことも出来る。それに、俺が一週間に一回、綺羅々に会いに来るから。寂しい想いをさせないようにする」
しかし、綺羅々の心の奥には違和感だけが残った。五年間会って居なかった兄が、突然自分に毎週会いに来る。それは緊張することだった。それよりも慎に会いたい、と綺羅々は思ったが、言うのは憚られた。
それから簡単に施設の案内をされたが、人影は殆ど無かった。基本的に綺羅々はあの個室で一人過ごすことになるということで、突然一人の生活を余儀なくされた綺羅々は、悲しくなってその晩、一睡もすることが出来なかった。
施設での生活は慣れないことばかりだった。看護師が部屋に入ってきて体温と血圧を測り、ブラシと着替えを持って出て行く。頃合いを見計らって朝食を運んできて、食べ終わった頃には下げに来て、指示された薬を飲むまで待っている。一連の行為が終われば看護師は部屋から出て行き、綺羅々はベッドに横たわり、天窓から射し込む光をぼんやりと眺める生活が続いた。読書も、手紙も書きたくなかった。自分で何かをするという気力がなくなっていた。必要なことは全て慎がやってくれたし、一人になったところで自分は何も知らない空っぽな人間だと言うことが突きつけられて虚しくなるだけだった。昼ご飯が終わり、夜ご飯が終わると看護師が浴室まで連れて行ってくれる。髪の毛を乾かし、個室に戻ると、夜は星空を眺めて一日が終わる。
自分の悪口を言う人間、ギスギスした空気からは解放されたが、外の世界を知らない綺羅々にとっては、思い出す記憶は慎と薫、そして心ない言葉しか無かった。慎との生活を思い出しては、慎が恋しくなり、涙を流した。一方で心ない言葉を思い出すと綺羅々は錯乱した。身体を傷付けようにも道具が無かったので、大声で叫んだ。するとたちまち医師が注射を打ちに来て、眠りに落ちるという生活が続いた。
智は一週間に一回会いに来ると言っていたが、結局会いに来たのは一ヶ月後だった。来客用のパイプ椅子を持って個室に入ってくるなり、
「綺羅々、本当にごめん。急に仕事が立て込んでしまって、会いに来られなくて、本当にごめん」
と申し訳なさそうに眉を下げ、何度も頭を下げた。しかし、綺羅々にとって智が会いに来ることは特に重要なことではなく、愛想笑いを浮かべて、「大丈夫」と答えるだけだった。
「お詫びに、アクセサリー、買ってきたんだ。これ、可愛いだろ?」
智は、綺羅々に星をモチーフにしたアンクレットをプレゼントした。
「これは、どうやって、使うの?」
綺羅々がそう言うと、智は綺羅々の前に跪いて、綺羅々のくるぶしにアンクレットを巻いてやった。その姿が、ふと、慎の姿に重なった。
「ねえ……慎は、どうしてる?」
綺羅々がぽつりと呟くと、智はアンクレットを巻く手を一旦止めて、綺羅々を見上げた。
「慎のことが気になるのか?」
「……」
「慎は今、少し休みをもらってるよ。長い間休まず働いてきたから、その分の休みを父さんがあげたんだ。直に帰ってきて、それでまた執事として働くことになると思う」
「そうなの」
綺羅々は安穏な生活を手に入れた代わりに、人間らしい感情が段々と失われて行った。勿論、薬の副作用もあるが、一人で居ることがかえって彼女を孤独にさせ、自分の世界に引きこもるようになっていた。慎や結城家のことが、自分とは遠いところにあるような気がした。
「何か好きなことやれてるか?」
綺羅々は静かに首を振った。智には綺羅々の瞳に光がともっていないことが気になった。静かすぎると言っても良いくらいだった。
「あまり、やる気になれなくて」
「無理してやる必要は無いよ。ゆっくり、気が済むまで休めば良い」
「……」
それから一年の間、智は、一週間に一回、ないしは二週間に一回は綺羅々を訪れた。その都度、お勧めの本を持ってきたり、お菓子を持ってきたり、色々手土産を持ってきたが、綺羅々は愛想笑いを浮かべるだけで、智との距離は一向に縮まなかった。
「綺羅々、まだ俺と会うと緊張するか?」
綺羅々はこくりと頷いた。どんなに自分に優しくしてくれても、どうしても慎が自分の兄とは思えなかった。「結城家」という存在は綺羅々の中から段々遠いものになっていた。その一方で、紘子や那智の家族だと思い出すと、本当は智も心の中では哀れんで、さげすんでいるのでは無いかという気持ちにさいなまれ、緊張するのだった。
「私は愛人の子どもです。お兄様が私に優しくする理由なんてどこにあるのでしょう」
智は切なげに眉を下げて少しの間口をつぐんだ。
「……愛人の子、そうだな。確かに綺羅々は愛人の子だ。でも、それは父さんが悪いんだろ。綺羅々のせいじゃない。母さんや那智の気持ちも勿論分かる。でも俺は、単純に、綺羅々を妹として大切にしたいと、思ってるよ」
パイプ椅子に座った智は、向かいに座る那智の手をそっと握りしめようと手を伸ばした。しかし綺羅々はとっさにそれを避けて手を引っ込めた。拒絶された智は、その手をゆっくりと引っ込めて、「また来るよ」と言って、去って行った。
慎とは一年会っていなかった。五年間、ずっと自分の傍に居てくれた慎と一日の会えないのは、夢の中に居る出来事のようにふわふわとした気持ちにさせた。慎は遠くに居るが、自分の傷付いた太ももの跡や、瞼の上の傷に触れると、慎のことを思い出した。
でも、会いに来てくれないということは、自分のことはもうどうでも良くなったのでは無いか――そう考えると虚しくなって、綺羅々は慎のことを考えないようにまた心を閉ざした。




