智の帰国
綺羅々に異変が起こったのは、十四歳の時だった。幽閉とも言える生活に、とうとう精神が追いついて行かなくなってしまったのである。
譲治が居る時に結城家が一堂に会して食卓を囲んでも、テーブルマナーにも気を配らなければならず、会話も無い。遠戚が来れば綺羅々は部屋から出ることを禁じられ、譲治が居ない時は庭に散歩へ出かけてもあからさまに執事や使用人が何かを遠巻きに囁いているのが聞こえる。紘子や那智会おうものなら、
『あなたの存在は絶対認めない』
『汚れた血』
『あんたの顔を見てると虫唾が走る』
『早くどこかにもらわれてさっさと消えてよ』
と罵られる。そうした毎日は年々、綺羅々の神経を確実にすり減らして行った。そして、適切な時期に甘えることが出来なかった反動は、「甘えることに対する飢え」として慎に向けられた。
綺羅々は体つきがすっかり女性らしくなったにも関わらず、慎を呼びつけて甘えるようになった。
「抱き締めて」
「添い寝して」
「身体を洗って」
慎が断ろうものなら、綺羅々は癇癪を起こし、感情を爆発させた。置物を投げつけ、枕を叩きつけ、大声で叫んだ。そして、ある日、ガラスを割って破片で自分の太ももを刺し、大けがをしてしまったことをきっかけに、感情が不安定になると、自分の身体を傷付けるようになってしまった。
医務室に度々運ばれる綺羅々の異変は、すっかり屋敷の中で話題になり、より「異質なもの」という眼差しを向けられるようになったのである。
慎は綺羅々の精神が不安定になるのを抑えるため、身体を抱き締めてやり、寝る時は添い寝をし、身体も洗ってやった。それが異常な行為であるという自覚もあった。しかし、綺羅々と五年間、濃密な時間を共にしてきた慎は断れなかった。できるだけ執事であることに徹し、男女という関係を排除して、子どもを甘やかすように、できるだけ綺羅々の願いを叶え、「保護者」になろうとしたのである。
慎は、譲治に綺羅々の異変について逐一報告していたものの、譲治自身も内心綺羅々の変貌には戸惑っている様子で、精神病棟を探すと言ったきり、しばらく結論が出なかった。
そんな時、五年の留学を経て、智が帰ってきた。
智が帰ってくると、屋敷のギスギスとした雰囲気が不思議と和らいだ。智は二十六歳になっており、五年前より大分大人びた印象になっていた。
智が帰ってくると帰国祝いもかねて遠戚も呼んで食事会をすることとなり、食事会はたいそう盛り上がった。しかし、智は、綺羅々と慎の姿が無いのを不審に思い、食事会の盛り上がりに紛れてこっそりと譲治に事情を尋ねると、譲治はバツが悪そうに咳払いをしながら、
「色々あって、部屋で待機してもらっている」
と言った。
「……」
智は譲治が何かを隠していると直感した。そして、紘子や那智の振る舞いにも違和感を覚えた。何かを聞かれるのを恐れて、智が帰ってきたにもかかわらず、必要最低限の挨拶にとどめて、積極的に近寄ろうとしなかったのだ。智は、その場では様子を見るにとどめ、食事会が終わると、夜、綺羅々の部屋を訪ねてみた。
「綺羅々、居るか?」
扉を軽くノックすると、綺羅々ではなく、慎が姿を現した。
「ああ、慎か。帰ってきたよ」
「おかえりなさいませ、智様。どうか、なさいましたか?」
最小限に開かれた扉の向こうからは、微かに光が漏れていた。
「まだ、綺羅々が起きているなら、一言挨拶に、と思って」
すると慎は、
「綺羅々様は、今、人に会えるような状態ではありません」
と言って目をそらした。
「……具合でも悪いのか?」
「いえ、そういう訳では」
慎と智のやりとりを聞いていた綺羅々は、ベッドに横たえていた身体を起こし、ネグリジェ姿のままで慎の後ろに現れた。
「誰?」
ひょっこりと姿を現した綺羅々を見て、智は成長した綺羅々の美しさと、ネグリジェ姿の妙な艶っぽさに、自分でも動揺するほど心拍数が早まったのを感じ、息をのんだ。
「……智、お兄様?」
綺羅々は一瞬訝しげに智を見たが、彫りの深い特徴的な顔立ちを見て、すぐに智だと理解した。
「ああ、そうだよ。帰ってきたんだ。食事会に顔を出さないから心配になって、こっそりお菓子を拝借してきた。食べないか?」
綺羅々はお菓子、という言葉に反応して目を輝かせた。
「本当?嬉しい!」
「部屋に入っても?」
「ええ、勿論」
そんな二人の二人のやりとりを聞いていた慎は、心の中に今まで感じたことの無い複雑な、形容しがたい感情が芽生えてくるのを感じた。殆ど自分以外の人間と会話をしてこなかった綺羅々が、自分以外の人間にたやすく笑顔を見せている。しかも、智は、長らく暗い表情ばかりだった綺羅々を、たった数回のやりとりで笑顔にさせてしまった。
その形容しがたい感情について、唯一考えられる感情が思いついたが、まさかそんなはずは無い、と無理矢理心の中に押し込めて、慎は智の前で執事の顔を貼り付けた。
「お気遣い、ありがとうございます。それでは、お部屋の中へ、どうぞ」
「ありがとう、突然のことなのにすまない」
少しだけ開かれた扉は、智が入れる広さまで開かれ、智は綺羅々の部屋に入った。そして、窓際の机の上に小さな箱を置き、ケーキを二つほど綺羅々に見せるように開いた。
「美味しそう!なかなかこんな機会、無いもの。どっちにしようか迷うわ」
綺羅々がケーキを机の前で選んでいる時、智は綺羅々の右手首に巻かれた包帯に気付いた。先ほどは慎の陰に隠れて見えなかったのだ。
「綺羅々、それ、どうした?」
怪我でもしたのかと心配した智が何気なく呟いた一言が、直前まで笑顔だった綺羅々の顔から表情を奪った。
「……ちょっと、手を切っちゃって」
綺羅々は心からの笑顔から愛想笑いに切り替えて、とっさに左手で右手首の包帯を隠した。そして、モンブランのケーキを一つ選ぶと、扉付近に立っている慎の方へ振り向いた。
「慎、お願い」
「かしこまりました。ただいま、お皿と紅茶をお持ちします」
慎は、部屋の奥の食器棚から皿とフォークを持ってきてそれぞれの皿に載せ、簡易的なポットで紅茶を沸かし始めた。
智は自分が居ない五年間の全てが気になり始めた。紘子や那智、譲治の様子はおかしく、綺羅々も笑みが消えた途端、急に暗い影を落とした。慎も何かを隠している。綺羅々が結城家に来た時点で波紋を呼ぶことは想定内であったが、綺羅々の醸し出す独特の雰囲気に、胸騒ぎを覚えずには居られなかった。
*
智が帰国してから、紘子や那智は、表立って綺羅々の悪口を言わなかったが、綺羅々がまるで居ないかのように振る舞うのが智は気になった。何より綺羅々が外に出てこないことが気になった。
「おい、那智。綺羅々はどうして部屋にこもってるんだ?」
ある日、談話室で読書をする那智に智が話しかけると、那智は大して興味もなさそうな口調で、
「さあ。引きこもるのが好きなんじゃないの?」
と言った。あまりにも突き放すような言い方だったので、思わず智が
「彼女が愛人の子どもだって言うのが心情的に受け入れられないのは、俺もよく分かるが、悪いのは父さんだろ」
と言うと、那智は読書をやめて智をにらみつけた。
「……何、兄さんもあの子の味方な訳?」
「も、ってどういう意味だ」
そう問い返すと那智は黙って目をそらしてしまった。すると、微かに遠くから女性の叫び声がして、智は目を見開いた。
「何だ、一体」
「あの子よ。ここのところ、様子がおかしくなってるから、そのうち病院送りになるんじゃない」
腹違いの妹に対する那智の言葉には何の感情もこもっていなかった。智は那智と会話するのを諦め、その場から離れ、声がする方へと向かってみた。それは二階から聞こえ、そして、二階へ上がると、綺羅々の部屋から声が聞こえた。間違いなく、声の主は綺羅々だった。
「もう、嫌ッ――!離して!!」
智がそっと綺羅々の部屋のドアノブを回すと、鍵は掛かっていなかった。少しだけ扉を開き、中を覗くと、智には考えられない光景が広がっていた。
何かで傷をつけたのか、綺羅々の身体は所々血まみれになっている。それを止めさせるかのように慎が、綺羅々を腕の中に抱いており、すぐ直前まで癇癪を起こしていた綺羅々は一転して、まるで子どもが甘えるような表情で、慎の顔を見上げていた。
その右目からは血が流れ、慎が止血するためにハンカチで綺羅々の瞼を押さえているのも分かった。
智はその異様な光景に二人の関係が透けて見え、このまま二人を一緒にしておくのは危険ではないか、と直感した。その一方で、綺羅々が慎を見上げる眼差しや、甘える仕草に、心がざわついている自分にも困惑した。
智は叫び声に驚いて来たという体にして、ドアノブを思い切り回して扉を開けた。すると、慎が目を見開いて智の方を見た。そしてその眼差しには、羞恥、気まずさ、怒り、色々なものが感じ取れた。一方の綺羅々は、心ここにあらずなのか、慎を見上げたままだ。
「……す、すまない。叫び声が聞こえたもので驚いて来てしまって」
智はわざとらしく驚いたふりをして慎と綺羅々を見た。ベッド脇にはペティナイフが落ちている。きっと綺羅々はこれで傷をつけたに違いない。
「ひどい怪我じゃないか、すぐに手当をしないと」
智がベッドに駆け寄ると、慎が綺羅々を抱き上げて立ち上がり、
「私が連れて行きます。……智様は、帰られたばかりなので、驚かれたのかも知れませんが、いつものことなので」
慎は淡々とした口調で答え、智の脇を通り過ぎて部屋から出ようとした。
「おい、いつものことってどういうことだ」
すかさず後ろから声を掛けると、慎は、
「紘子様や那智様に聞かれてみてはいかがです?」
とだけ言って部屋から出て行ってしまった。
綺羅々の部屋はあの晩訪れた時とは異なり、様々なものが散乱していた。
洋服、ぬいぐるみ、勉強道具、枕、下着……。
慎の意味深な言葉は、五年の間に起こったであろうことと、綺羅々の異様な姿を結びつけた。つまりは、いじめにあって精神を病んでしまった、ということだった。
智はすぐに留学していた時に出来た人脈を使って、結城家と繋がりが無い病院を探した。そして譲治に綺羅々の身の安全を訴え、その病院に入れることを提案した。
譲治はしばらく沈黙した後、「分かった」と一言だけ言って、綺羅々をとうとう病院に入れることに決めたのであった。




