綺羅々との出会い、結城家での仕打ち
慎が別邸に行き、初めて座敷で綺羅々に会った時、綺羅々はまだ七歳だった。そして、母親の四方田薫は着物がよく似合う美人で、譲治が見初めるのも外見だけで客観的に判断すれば理解できる部分もあった。綺羅々は譲治よりも薫によく似ていたが、天真爛漫であどけなく、後に、接するほどに世間知らずな子だということが分かった。
薫は「愛人」というイメージを覆す程、謙虚で物静かな女性で、譲治の正妻である紘子よりもよほど品があると、慎は感じた。綺羅々と簡単な挨拶を済ませると、薫は綺羅々を庭に遊びに行かせ、早速慎がこの家に呼ばれた事情について説明をした。
自分は子宮癌で余命が短いこと、病院に入院しないこと、そしてそれを綺羅々に悟られたくないこと。だから綺羅々の面倒と、家事全般を手伝って欲しい、ということだった。そして、最後に、
「綺羅々は、幼稚園にも小学校にも、通ってなくて、あなたが驚くようなことをしてしまうかもしれないわ。本当にごめんなさい」
と言った。慎はその事実に驚きを隠せなかった。
「なぜ通わせないのですか?」
「愛人の娘なんてことが万が一表沙汰になってしまったら、結城家にとっては良くないことだから…私も、そう言われることは、覚悟していたけれど、辛いわね。でも、せめてあの子の傍に出来るだけ居てあげたい。だから、力を貸してください」
薫は唇を僅かにゆがめ、睫を伏せた。そこには後悔、葛藤、苦しみがにじんでいた。慎は陰で生きていかなければならない綺羅々のことを不憫に感じたが、一方でどこか自分と似たような境遇であることに、共鳴する気持ちもあった。
実際に働き始めると、家事はともかく、勉強を教えたり、子どもの遊び相手になるのは初めてで戸惑うことが多かった。
「慎、人形遊び下手くそだよー、ルカちゃんのボーイフレンドはそんなこと言わないもん!」
「ご、ごめん」
綺羅々は、年上の慎を「慎」と呼んだ。薫は何度も「慎さんでしょ」と注意したが、綺羅々はさん付けをしないで「慎」と呼び続けた。それでも、事情を知らされていた慎は気に留めなかった。自分に心を開いてくれていると思うことにして、彼女に接し続けた。
薫は普段物静かだが、料理に関しては誰よりもうるさく、和食を中心に出汁の取り方から慎に熱心に指導した。慎はここで和食に関する技術を磨き、和食料理に関してはシェフが居なくてもある程度のものを作れるようになった。
そうやって綺羅々の遊び相手になり、教師代わりに勉強を教え、薫に料理を習い、掃除や雑用をこなす日々は慎にとってとても忙しい毎日だったが、外の世界から閉ざされた環境に来られることは、慎にとって一種の気分転換になった。結城家に帰れば譲治や紘子、那智、智が居る。分家の息子ということに劣等感を持っていた慎にとっては、次第に別邸に居る方が気が楽だと思うようになった。
綺羅々は時に外へ出ようとして塀をよじ登ったり、門の鍵を探して部屋中の引き出しを開けたり、勉強を放棄して癇癪を起こすなど、年齢の割には幼稚な所も多かったが、その天真爛漫さは慎自身に妹が出来たようで、次第に慎も彼女に情が移るようになっていった。
それでも、おだやかな日々は長くは続かなかった。薫は日に日に弱っていき、慎が見るのも辛くなるほど痩せ細っていった。綺羅々もその様子を察し、慎にすがりついて泣いた。綺羅々を抱き締める時、慎も同じ位辛い気持ちになった。それは、かつて、自分が母親を亡くした時のあの感覚に似ていたからだった。これから自分はどうなるのだろう、という不安を、彼女も感じているに違いない。それでも自分には抱き締めることしか出来なかった。彼女の不安を少しでも取り除いてやれるのは、自分しか居ない、そう思った。
薫が亡くなったその日、譲治は別邸を訪れ、そして薫の前で泣いた。週に一、二回しか来なかったくせに、どこかで彼女を捨てられずに居た譲治のずるさが、慎には許せなかったが、譲治は慎を奥の間に呼び出し、思わぬ決断を口にした。
「綺羅々を、結城家で育てる」
「……どういう、ことですか」
「綺羅々を、慎、お前と同じように、結城家に迎え入れる。ただし、人目を忍んで育てることには変わらない。紘子や那智、智にもこのことは伝えてある。慎が彼女の世話をこれからもしてやってくれ」
慎は譲治の身勝手さに怒りがこみ上げ、拳を握りしめた。
「愛人を作って子どもを産ませて、それで人目を忍んで育てた上に、あの家で暮らさせるのですか」
「お前には関係のないことだ。里子に出すようなことはしない」
譲治はそれだけ言うと、奥の間から消え、電話を片手にどこかに電話を始めた。葬儀の準備をしているらしい。
綺羅々は縁側に腰掛けて、曇天をぼんやりと眺めていた。
「ねえ、慎。私、これからどうなるのかな」
「お父さんと一緒に暮らすんだよ」
綺羅々は目を丸くして慎を見た。
「お父さんのおうち、ここじゃないの?」
「お母さんのお葬式が終わったら、お父さんが住むおうちに引っ越すんだ」
「お父さんが住むうちとか、葬式とか、よく分からないよ」
慎はあの結城家で暮らすことになる綺羅々の境遇に同情せずにはいられなかった。紘子は決して綺羅々を受け入れないだろう。那智も愛人の子どもだと言うことになれば、母親と同じような気持ちになるのは目に見えている。ただ智は、どんな反応をするのか慎にも想像がつかなかった。
*
慎の予感は的中し、綺羅々は結城家に移ってから、あからさまな嫌がらせや嫌みを紘子や那智に言われるようになった。初対面から不快感をあらわにしていた二人は、実際に暮らし始めると、まず一緒に食事をすることを嫌がった。譲治が居る時は渋々食卓を囲むものの、譲治が家を空ける時は決して綺羅々を食事の間にはいれず、部屋で食べさせた。智は留学のため、五年ほど家を留守にすることになり、実質は紘子と那智が裏で結城家を支配していたのである。
伝統を誇りにする結城家の執事達もどちらかと言えば紘子や那智寄りであり、表面上は当主である譲治に従っているものの、居ない時は紘子や那智の行動を黙認し、従うことが殆どだった。慎が学生時代、執事の見習いをしている時から、結城家の執事の頭の固さ、プライドの高さにはうんざりしていたが、本当の執事であれば譲治に従い続けるべきだと、慎は内心悪態を吐いた。
そして綺羅々は綺羅々なりに、自分が置かれている境遇を理解するようになり、最初は別邸で暮らしていた時のように庭で遊んだり、綺羅々なりに新しい環境に打ち解けられるように、「お母様」「お姉様」などと話しかけてみたりしたが、その行動に対してひどい言葉を浴びせられるようになると次第に暗い表情を見せることが多くなり、別邸に居た時の綺羅々とは別人のようにおとなしい子どもになってしまった。
慎はそんな綺羅々にできるだけ付き添うようにし、二人があまりにも綺羅々に対して横暴な態度を取るとそれとなく非難したものの、「分家の執事の分際で」とあしらわれ、慎も悔しい思いをすることの方が多かった。
半年と経たないうちに、綺羅々は自分から自室で食事を取ることを選んだ。そして、泣いて過ごす日が多くなった。
「慎、私、何かしたかな?」
ベッドの上で綺羅々はうずくまり、鼻声で傍に立っている慎に話しかけた。
「……いいえ、何もしてません」
「どうして、こんなことされなくちゃいけないんだろう」
「……」
綺羅々の目は泣きすぎて腫れ、ベッドは涙でぐっしょりと濡れていた。慎が毎日ベッドメイキングをしてシーツを変える時、涙の跡を見ては、胸が痛み、唇を噛むのだった。慎は結城家の全てが嫌いだった。それでも、自分が居なくなれば、綺羅々は一人取り残されてしまう。綺羅々は自分を必要としている。だから、綺羅々が笑って暮らせるようになるまで、せめて自分は執事として傍に仕えよう、そう思ったのだった。
*
綺羅々が結城家に来てから三年が経ち、小学六年生になると、慎が初めて出会った時よりずっと綺羅々は大人びた容貌になっていた。髪の毛は肩甲骨の辺りまで伸び、美人の片鱗を見せ始めた。しかし、世間を知らずに育った綺羅々は、自分の身に起こったある出来事にパニックを起こした。
「ねえ、慎」
慎が勉強を教えている途中でトイレに立った綺羅々は、数分も経たないうちにトイレから青ざめた表情で出てきた。
「血が……血が、ついてる」
綺羅々に初潮が来た、と慎はすぐに分かったが、どうにも男の自分には説明しがたく、動揺して心臓の心拍数が上がった。しかし、綺羅々を動揺させてはいけない。慎は鼻で大きく深呼吸し、「お待ちください」と言った。そして、医務室に居る女性看護師を一人呼んで、何とか綺羅々に状況を説明してもらえるようにお願いした。
看護師から説明を受けても綺羅々は、まだ青ざめていた。看護師には「女性は月に一回、こういう現象が起こるので、その時はこれを下着につけてください」と簡単な説明を受けただけだと言う。
「私、違う人間になっちゃったの?」
綺羅々の声は震えていた。
「綺羅々様は、綺羅々様のままです」
慎は、なんと伝えたら良いのか分からず、そう答えることしか出来なかった。綺羅々と親しい女性の使用人が居ないことが悔やまれた。綺羅々が来た時点で使用人が減らされてしまい、女性の使用人は全て紘子と那智についてしまったのである。
慎は早急に譲治にこのことを報告し、対応を求めた。何とか下着類は使用人が購入してくれることで手配が済んだが、譲治からは何故か、
「くれぐれも変な気を起こさないように」と言われた。慎は思わずカッとなり、
「当たり前です」と言い返すも、心の奥にはモヤモヤとした何かが残った。
購入された下着類は、使用人から一通りの着用方法をレクチャーしてもらったが、綺羅々には、まだ上手く状況が理解できていないようだった。
「ねえ、どうしてこんな窮屈なものをつけなきゃいけないの?」
そう言って慎の前で脱いでしまうこともあった。
「……綺羅々様、いくら私の前といえども、下着を脱ぎ捨てるのはあまり上品な行為とは言えません」
そう言って慎は綺羅々を窘め、下着を拾い上げて渡すものの、否が応でも膨らんでいく綺羅々の胸が視界に入ると、慎は綺羅々を「異性」として意識せざるを得なくなっていった。そんな自分にまた困惑し、譲治の言葉が思い出された。広い結城家の狭い空間の中で、綺羅々と慎はあまりに濃密な時間を過ごしすぎたのである。




