第7話:30万人同接のデスゲーム 録画された生放送の綻びと天才からの宣戦布告
大黒埠頭の夜を支配していた雨は、いつの間にか微かな霧雨へと変わっていた。
海から吹き付ける潮風が、錆びついたコンテナの表面を舐めるように通り過ぎていく。
頭上では未だに警察のサーチライトが狂ったように夜空を切り裂き、重武装のSAT隊員たちの怒号と、ひしゃげた装甲車両から立ち上る黒煙の匂いが、逃げ場のない迷路の空気を重く淀ませていた。
数百トンものコンテナ群がランダムに積み上げられてできた、暗く狭い鋼鉄の渓谷。
その最も深い闇の底に身を潜めながら、俺、蓮見零は、手の中のスマートフォンから放たれる青白い光を静かに見つめていた。
隣では、電子の魔女こと天海湊が、濡れた銀髪を額に貼り付かせたまま、小刻みに肩を震わせている。
彼女の視線もまた、俺が持っている小さな画面に釘付けになっていた。
『――君たちにプレゼントがある。君たちのスマートフォンの画面に、あるURLを送った。見てみるといい』
『視聴者はすでに十万人を超えている。……さあ、蓮見零。君が警察に追われるテロリストではないというのなら、証明してみせたまえ。制限時間は三十分。私の用意したこの【新しい謎】を解き、爆発を止められなければ……何万人もの命が、君のせいで消し飛ぶことになる』
警視庁副総監・神宮寺からの、合成音声による死の宣告。
通話が切断された後、強制的に開かれたブラウザの画面には、ある動画共有サイトのライブ配信枠が映し出されていた。
タイトルは『審判の時。偽りの英雄か、真の悪魔か』。
ゲリラ的に開始されたにもかかわらず、画面右上に表示されている同時接続者数は、すでに三十万人を突破しようとしていた。
SNSのタイムラインやまとめサイトを経由し、深夜の日本中にこの異常な配信が爆発的な速度で拡散されている証拠だ。
画面の向こう側に広がっているのは、どこかの地下空間だった。
だが、その映像はただの人質を映したものではなかった。
ライブ配信の冒頭、画面には『俺の顔と声』を完璧に再現した、ディープフェイクによる犯行声明が流れていたのだ。
偽物の蓮見が、狂気に満ちた表情で画面に向かって語りかけている。
『警察に濡れ衣を着せられ、すべてを失った。この腐った国と警察に復讐するため、無差別テロを仕掛ける』
国家公安委員殺害の指名手配犯としてすでに大々的に報道されている下地があるところに、この「絶望した逃亡犯の犯行声明」が投下されればどうなるか。
民衆は「追い詰められた犯罪者がついに暴挙に出た」と完全に信じ込んでしまう。
映像が切り替わった後、ホームの柱という柱、そしてベンチの周囲に、おびただしい数の一般市民が縛り付けられている様子が映し出された。
サラリーマン、学生、カップル、初老の女性。
ざっと見積もっても五十人はいる。
彼らの口には一様に灰色のダクトテープが貼られ、恐怖で見開かれた目からはとめどなく涙が溢れ出していた。
そして何よりおぞましいのは、彼らの胸元や腹部に直接巻き付けられた、粘土状の無機質な塊。
プラスチック爆弾。
それぞれの爆弾からは赤と青のリード線が伸び、全員の分が中央に置かれた一つの巨大な起爆装置に束ねられている。
起爆装置の液晶ディスプレイには、無慈悲な赤いデジタル数字が時を刻んでいた。
『29:58』
『29:57』
「……嘘、でしょ」
湊が、声にならない悲鳴を漏らした。
彼女の細い指が、俺のジャケットの袖を握りしめる力が限界まで強くなる。
「これ……本物のC4よ。あれだけの量があれば、この地下鉄の駅どころか、地上の区画ごと吹き飛ぶわ……!」
「ああ。火薬の量と配線の手際を見る限り、軍事レベルのプロの仕事だ」
俺は画面を凝視しながら、極めて冷静に分析を始めていた。
画面の右側では、凄まじい速度で視聴者のコメントが滝のように流れ落ちている。
『フェイク動画?』
『いや、マジだろこれ。さっきの犯行声明見たか!?』
『誰か警察に通報しろ!』
『蓮見零って誰だよ!? テロリスト?』
『ニュースでやってた、国家公安委員を殺した指名手配犯の名前だ!』
神宮寺の狙いが、痛いほどに理解できた。
奴は俺を「国家公安委員を殺害した逃亡犯」としてだけでなく、「無差別の爆弾テロを仕掛けた狂気のテロリスト」として、日本全国の民衆の脳裏に焼き付けようとしているのだ。
密室殺人の濡れ衣だけなら、いつか俺が法廷や世論を味方につけて反証する隙があったかもしれない。
だが、この圧倒的な暴力と恐怖のライブ配信の前では、どんな論理的な反証も意味をなさない。
大衆は真実よりも、目の前の恐怖と分かりやすい「悪」を求めるからだ。
コメント欄が加速する。
『自首しろ蓮見!』
『人質を助けろ!!』
『早く警察に出頭しろよ人殺し!』
画面の向こう側の三十万人が、一斉に俺という存在に呪詛を吐き出し、自死を強要している。
これこそが「同調圧力」という名の、最も凶悪な公開処刑だ。
映像が再び切り替わり、恐怖に顔を歪める人質たちと、無情に減っていくタイマーが大写しになった。
『24:12』
『24:11』
「零……!」
湊が、縋るような瞳で俺を見上げた。
「ダメよ、出頭なんて絶対にしちゃダメ! あんたが犯人だと認めた瞬間に、神宮寺の息がかかったSATは『抵抗した』という口実であんたをその場で射殺するわ! 裁判なんて行われない! あんたはテロリストの汚名を着せられたまま殺されて、神宮寺は『事件を解決した英雄』として警察のトップに君臨し続ける……! 全部、奴のシナリオ通りになっちゃう!」
「分かっている」
俺は画面から目を離さず、短く答えた。
「自首すれば俺は死に、黒幕が勝つ。逃げ続ければ人質が死に、俺は大量殺人鬼として社会的に死ぬ。完璧な『悪魔の天秤』だ。神宮寺の野郎、警察のトップまで上り詰めただけあって、盤面の支配の仕方は一流らしい」
遠くで、SATの拡声器の声が響いた。
『蓮見零! 配信は見ているな! 大人しく出てこい! これ以上罪を重ねるな!』
彼らもまた、配信を見ている。
つまり、このコンテナの迷路のどこかに潜んでいる俺が「出頭」してくるのを、今か今かと待ち構えているのだ。
俺が顔を出した瞬間、問答無用で数千発の弾丸が俺の体を貫くだろう。
「どうするのよ……! ハッキングも通じない、逃げ道もない! タイムリミットまであと二十分しかないのよ!」
湊の叫びが、夜の潮風に溶けていく。
圧倒的な絶望。
完全なる詰み。
普通の人間なら、己の無力さを呪い、泣き叫びながら膝を屈するしかない状況だ。
だが。
俺の心臓は、この極限の窮地において、不気味なほど穏やかなリズムを刻んでいた。
恐怖はない。
焦燥もない。
あるのはただ、冷たく燃え上がるような、純粋な「勝負への渇望」だけだった。
「……湊」
俺はスマートフォンの画面を指先でタップし、配信映像を最大まで拡大した。
「俺は天才詐欺師だ。俺がこれまでどうやって、相手の仕掛けたイカサマの盤面をひっくり返してきたか、覚えているか?」
「え……?」
「どんなに完璧に見える嘘でも、人間が作った以上、必ずどこかに『綻び』が生じる。相手が用意したルールに従うな。相手が絶対に見落としている、盤面そのものの『死角』を突け」
俺は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
脳内の無限の書庫――『絶対記憶』の扉を、限界まで開け放つ。
検索条件:『現在配信中のライブ映像における、すべての視覚情報および環境音』。
脳内スクリーンに、動画の映像が4Kを超える圧倒的な解像度で展開される。
コマ送り、一時停止、特定部分の極限までのズームアップ。
俺の視覚は、画面に映るすべての情報を貪欲に舐め回した。
人質たちの顔、服装の汚れ具合。
タイマーの赤いLEDの点滅間隔。
ホームの壁に貼られた、色褪せたポスターの文字。
配管から一定の周期で滴り落ちる、水滴の波紋。
画面の端を横切った、小さなネズミの動き。
――何かあるはずだ。
神宮寺は、この配信を「完全な生中継」として三十万人に提示している。
だが、俺をハメたペントハウスの密室トリックがそうであったように、奴らは必ず「作り込みの甘さ」を残している。
傲慢な権力者特有の、致命的な見落としが。
俺は映像の中の「昭和四十年代のコンクリート」「錆びた銘板」「橋脚の共鳴音」を次々と見つけ出していく。
だが、同時に強烈な違和感が俺の思考を掠めた。
(……まるで俺にここを特定させようとしているかのように、必要な情報だけが画角に完璧に収まりすぎている)
『18:45』
『18:44』
「……零? なにを……」
湊が息を呑む音が聞こえた。
俺の目が見開き、瞳孔が異様な光を放っていたからだろう。
脳内での超高速の映像解析が、ある一点の決定的な「矛盾」に収束していく。
「……見つけたぞ」
俺は目を開き、暗闇の中で凶悪な笑みを浮かべた。
「神宮寺の野郎、とんでもないミスを犯してやがる」
「ミス……? なにを言ってるの、映像にはどこにも不自然なところなんて――」
「いや、ある。人間の目は騙せても、物理法則は騙せない」
俺はスマートフォンの画面の左下、人質たちの背後にある「柱」を指差した。
「よく見ろ。あの柱の根元、地下水が滲み出ている部分だ。水滴が波紋を作っているだろう?」
「え、ええ。それがどうかしたの?」
「この配信は『リアルタイムの生中継』だと仮面の男は言った。そして、タイマーも一秒ずつ減っている。……だが、水滴が落ちて波紋が広がる速度と、画面の端をネズミが横切った速度、そして何より、人質たちの『瞬きの回数』を数えてみろ」
俺の絶対記憶が弾き出した数値を、湊に叩きつける。
「波紋が広がる速度は、重力加速度に逆らって通常より『〇・八倍』遅い。ネズミの動きも不自然に滑らかすぎる。そして、極度の恐怖状態にある人間は、交感神経が優位になり瞬きの回数が一分間に四十回から五十回に跳ね上がるはずだが、画面の中の彼らは一分間に『二十回』しか瞬きをしていない」
湊の目が、驚愕に見開かれた。
「まさか……! 映像の再生速度が、弄られている……!?」
「その通りだ。タイマーの数字だけはCGでリアルタイムに合成しているが、背景の『人質たちの映像』自体は……あらかじめ撮影された録画映像を、ごくわずかにスロー再生して尺を延ばし、生放送のように見せかけているだけの『作り物』だ!」
俺は確信を持って断言した。
神宮寺は、今現在どこかの地下鉄に人質を拘束しているわけではない。
万が一警察が場所を特定して突入してくるリスクや、配信中に不測の事態が起きるリスクを完全に排除するため、奴は「すでに撮り終わった映像」を使って、日本中を騙し、俺を脅迫しているのだ。
だとすれば。
「湊。この映像が事前に録画されたものだとしたら、人質たちは今、どうなっていると思う?」
「……撮影が終わった後、別の場所に監禁されているか、あるいは……」
「そう、すでに殺されている可能性すらある。だが、重要なのはそこじゃない」
俺はバールを握り直し、ゆっくりと立ち上がった。
「神宮寺が『録画映像』を使った最大の理由は、このデスゲームが絶対に自分に牙を剥かない『安全圏』から、俺をいたぶるためだ。奴は今、高みの見物を決め込んでいる。……俺がこの二者択一の絶望に押し潰され、泣きながらSATの前に這い出てくるのを、ワイングラスでも傾けながら待っているはずだ」
「零……あんた、まさか」
「悪魔の天秤の正しい壊し方を教えてやる。用意されたAでもBでもない、『出題者の顔面をハンマーで殴り飛ばす』という最悪のCルートだ」
俺は右耳のイヤホンを軽く叩き、湊を見下ろした。
「湊。お前のハッキングで、このライブ配信のサーバーに『割り込む』ことはできるか?」
「割り込むって……配信を乗っ取るってこと!? 無理よ、物理的に隔離された起爆装置は無理でも、配信サーバー自体は堅牢な暗号化が――」
「すべてを乗っ取る必要はない。音声ラインの数秒間だけでいい。神宮寺の映像の裏に、俺の『声』をねじ込め」
湊の顔に、ハッカーとしての凶暴な笑みが伝染するように浮かび上がった。
「……音声だけなら、今の帯域の隙間を突いてUDPパケットを偽装すれば、数秒間だけなら強制的にオーバーライドできる。でも、何をする気?」
「簡単なことだ。日本中の三十万人と、そして警察のトップでふんぞり返っている神宮寺に、直接『宣戦布告』してやるのさ」
俺はコンテナの隙間から、無数に飛び交う警察のサーチライトを睨みつけた。
タイムリミットまで残り十五分。
神宮寺が突きつけた絶望のゲームは、天才詐欺師の逆鱗に触れた。
「やれ、湊」
『了解。オーディオ・ジャック、実行!』
直後。
日本中の三十万人が見つめるライブ配信の画面から、突如として仮面の男の音声がノイズと共に途切れた。
数秒の静寂。
そして、スマートフォンやパソコンのスピーカーから、極めてクリアで、傲慢なまでに自信に満ちた『俺の声』が響き渡った。
『――こんばんは、三十万人の傍観者諸君。そして、俺にくだらない二者択一を突きつけてくれた、三流の脚本家さん』
コメント欄が、一瞬にして凍りつき、直後に信じられない速度で爆発した。
『なんだ!?』
『どうなってる!?』
『テロリスト扱いされている蓮見零本人からメッセージだ』
俺は、大黒埠頭の暗闇の中で、悪魔のように唇を吊り上げて言葉を紡いだ。
『お前が用意したゲームのルールは却下だ。自首もしないし、人質も見殺しにしない。俺は今から残り十五分で、お前の仕掛けたその【録画映像のフェイク】を完全に暴き、お前が隠している人質の居場所を特定して、全員を救い出してやる』
『震えて待ってろ、黒幕。お前が警察の権力を使って積み上げた絶対の安全圏を、天才詐欺師の嘘で木端微塵に粉砕してやる。……反撃の開始だ』
通信が切断される。
圧倒的な静寂の後、大黒埠頭を包囲するSATの無線が、完全にパニックに陥った怒号で埋め尽くされた。
「やったわね……これで日本中が、この事件の異常性に気づき始める」
湊がノートパソコンを閉じながら、興奮冷めやらぬ声で言った。
「ああ。だが、宣言は実行しなければただのハッタリだ。十五分以内に、あの映像の中から『本当の人質の監禁場所』を特定し、神宮寺の喉元にナイフを突きつける」
俺はコンテナの影から一歩踏み出した。
覆された前提、絶望の二者択一。
そのすべてを逆手に取り、盤面は今、完全に裏返った。
嘘つきが暴く絶対の真実へ向けて、逆転劇が幕を開ける。




